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しおりを挟む目を腫らした杏さんと俯きがちな私。
日付が変わる直前にタオルを借りにきた二人は、受付の目にどう映っていたのだろう。業務上の挨拶以外にリアクションしていなかったから、触らぬ神に祟りなしと見て見ぬふりをしたのだろうか。
そんなことを考えながらエレベーターを降りる。シャベルや一斗缶は車に置いてきたはずなのに、精神的疲れのせいで体が重い。
「ただいま」
杏さんが一言だけ置いて部屋の中へ。少しの感情さえこもっていないただいま。らしくない言動に、またもため息が漏れた。
素足になり、カーペットに触れる足から少しずつ疲労が抜けていく。このまま寝てしまいたい。けれど汗をかきっぱなしの体で床には入りたくない。となればさっさとお風呂に入り直せばいい。
そう頭で分かっていても、ベッドに座り込む猫背の杏さんを放ってはおけなかった。
目線を合わせるように、けれども距離は空けてベッドに腰かけた。俯く杏さんは気付いていないのか、組んだ手をじっと見つめている。あとは心のカウントダウンをするだけ。大丈夫。何も恐れないでいい。ただ、友だちの悩みを聞いて――。
「ねえ」
か細い声に体が跳ねる。杏さんと目が合った。
「先にシャワー浴びて。私は後で入るから」
虚ろな目が告げる、一人になりたいという願い。
頭の中に並べていた言葉はすっと消えた。あとはもう逃げるように着替えを手にし、眼鏡を置いて浴室へ。無音が妙に怖くて、体を洗った後もシャワーの中に隠れ続けた。
そうしていくらかたった後、時間をかけて体を拭いた。着替えを済ませ、気まずさを抱えながら折れ戸を押す。そっと部屋を覗く。まるで時間が止まっていたように杏さんの姿勢は変わっていない。
もう少し入っていればよかった。後悔しながら浴室の段差を降り、ベッドへ近付くと杏さんが急に腰を上げた。
「私も、入るね」
「え、あ、はい」
しどろもどろに答えるも、杏さんの耳には届いていない。振り返ることなく浴室へと消えた。曲がった背中が残像のように視界に残り続ける。
何があったのだろう。車の中で何度も記憶を反芻したけれど、これという答えには至らなかった。
危険な目に遭いながらも罪を犯した罪悪感。彼氏さんとけんかをした後悔。大冒険から無事に帰還した安堵。正の感情なのか負の感情なのかも分からない。
思考を投げ出すようにベッドへ身を投げた。風呂上がりの火照った体に、ひんやりとした綿の布団は心地いい。ルームウェア越しに感じる柔らかさ。我が家のベッドとは天と地ほどの品質に、大の字になって天井を見上げた。
クリーム色の天井に、思い出が浮かんでは消えていく。拾ってもらって、食事をして、海にも行った。笑ったり泣いたり、いろんな表情を見てきた。明日も見られるだろうか。
ふと、幸せな光景に過去が混ざりだす。何もしてくれない両親、理不尽な学校生活、私を取り巻く何もかも。逃げるように目を閉じた。まぶたの裏にも嫌な光景は浮かんできたけれど、すぐに消えてなくなった。
ほんの一瞬だけ、意識を手放したつもりだった。
ぼんやりと映る世界は暗く、目の前には壁があるのみ。いつの間にか換気扇が回るような音が小さく鳴り続いている。それに加えて何かが腐ったような臭い。
ああ、あの匂いに似ている。小学校の時の林間学校で嗅いだ、掃除の行き届いていないエアコンから吹く風。まさにそれだ。深夜帯になるとそういう臭いがしてしまうのだろうか。
それにしてもまさか寝てしまうとは。いくら疲れていてもありえない。そう自分を責めている間にも体は起き上がらず、再び睡魔に意識を連れていかれそう。
自分の意志の弱さが嫌になる。けれどもう、杏さんも寝てしまっただろう。自分の都合で起こしてしまうのは悪い。このまま眠って、朝を迎えてから話した方がいいに決まっている。
楽な方へ逃げるように、視界よりもさらに暗いまぶたの中へ意識を持っていく。明日の朝こそはちゃんと聞いてみよう。
「ええ。そうなの」
背後から聞こえた声。どきりと心臓が跳ね上がる。杏さんが誰かと話している、らしい。寝返りを打って確かめれば早いけれど、先に寝てしまった罪悪感が邪魔して体が動かない。それなら仕方がない。このまま様子を見よう。
言い訳を胸に仕舞って聞き耳を立てる。杏さんは相槌と、ごめんなさいという謝罪をしきりに繰り返していた。あの杏さんが謝る相手。もちろん彼氏さんだろう。
「違う、私が悪いよ。魅力がないから浮気されるんだもん。つまらない女でごめんなさい。ごめんなさい」
背中越しに聞こえる弱々しい声。それよりも浮気という言葉に息をのんだ。帰省の件で揉めたと聞いたけれど、彼氏さんの浮気が原因だったんだ。
「え? 明日? それは……待って違うの、嫌いになんかなってない。ほんとに、ほんとだから」
すぐに帰ってこいと告げられたのだろうか。そんなの、嫌だ。もっと杏さんといたい。
子どものようなわがままを胸の中で抑え込む。彼氏さんより自分を優先してほしいというひどい願い。そもそも彼氏さんと同じステージにいない私が願えることじゃない。
私はただ杏さんの仲直りを願えばいい。明日の朝、杏さんの申し訳なさそうな顔を待てばいい。この旅を終えたいという頼みに頷けばいい。
念仏のように心の中で唱え続ける間も、杏さんと彼氏さんの通話は否応なく耳に入ってきた。これ以上は聞きたくない。ぎゅっと目を強くつむる。耳を手で抑え込む。
今まで見た映画をまぶたの裏で上映しているうちに、どこかへ隠れていた睡魔は再び現れた。
だんだんと長く深くなる呼吸。エアコンの妙な臭いが鼻につくけれど、気にせず夢へ落ちていこう。何もかも明日になれば終わる。自分にそう言い聞かせ、さらに深く息を吸った。
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