ホムンクルス

ふみ

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「ありがとうございましたー」
「あ、ありがとうございました」
 降車して、ちーちゃんの声に慌てて礼を口にした。いつも感謝を忘れないのが遥。そう教わったのに危うく忘れるところだった。
「ここの三階ね。あたしが荷物持つよ」
 大荷物を両手に抱え、意気揚々と進むちーちゃん。背中を追う途中で、薄汚れた階段そばのポストに目がいった。その三段目に『高山&白沢』と記されている。疑っていたわけではないけれど、本当にここに住んでいたんだ。
 挑発的な日差しに抵抗するように階段を上ると、三階でちーちゃんが立ち止まった。
「ここから見える夕日がすごくきれいなの。覚えておいて」
 視線が示した向こう側。車窓から見た景色とは違って、比較的ビルや高層マンションが少ない。どこまでも広がる空と豆粒のような人工物との間で、緩やかに地平線が伸びていた。
「覚えておいてって、記憶喪失の人に言うのね」
「もう忘れることはないでしょ。忘れたらアイスおごりね」
 いたずらな笑みに「はいはい」と返した。
 ちーちゃんが階段前から三歩だけ進み、またも足を止めた。今度は何だろう。期待して見守っていると、ちーちゃんがバッグから鍵を取り出した。
「ここだよ」
 三〇一号室、ドア横のプランターに咲く花、鍵に付いている牛のキーホルダー。そのどれにも引っ掛からない。
 何とはなしに、膝を曲げてプランターに顔を寄せた。まるで赤い折り紙で作った風船のような花。その燃えるような赤色は夕日にも負けていない。
 何かヒントやきっかけがあれば、名前を思い出せそう。片目を閉じて頭の中でもがいていると、ちーちゃんも膝を曲げた。
「それ、ホオズキっていうの。はる姉が植えたんだよ」
 ちーちゃんが人さし指でホオズキをつついた。
「ああ、お花が好きなのよね」
「初夏にきれいに咲くからってお世話してたんだ。部屋にもサボテンとかいろいろ置いてあるよ」
 そう言い残してちーちゃんが中に入った。日常的に見ているせいなのか、ホオズキを見てもあまり表情は変わっていなかった。むしろ表情が強張ったようにも見えた。
 ちーちゃんはあまり花が好きではない。心のメモにそう書き足し、こげ茶色のドアを抜けた。
「ここがあたしたちの家。2Kでちょっと狭いけど」
 三和土を抜けた先で、ちーちゃんがくるりと回った。
 靴を脱いで上がればすぐに台所。右側にシンク、左側にはドアが二つと引き戸が一つ並んでいる。奥ののれんが掛けられた部屋も気になるけれど、一つずつ見ていこう。
 とりあえずシンク周りに目を向けた。水切りかごには二人分のコップやお皿、窓際には調味料が並んでいる。
 ちーちゃんはしばらく一人で暮らしていたから、ある程度料理はできるのだろう。だけどシンクの水垢やコンロの汚れからして、掃除はあまり得意ではないみたい。
 シンクに背を向ければ、先ほども目に入ったドアが二つ。両方曇りガラスだからトイレとお風呂だろう。その横にある引き戸の先は……少し考えても思い出せなかった。
「何も思い出せない?」
 ちーちゃんに床に落とした視線を見られた。
「ごめんなさい」
「ゆっくり思い出せばいいよ。ほら、こっちがはる姉の部屋」
 ちーちゃんが引き戸を開けて中へ入った。しばらく台所を眺め、申し訳なさを連れて部屋を覗き込む。するとちーちゃんが畳の上で横になっていた。
「ここだけ和室なのね」
「ううん」
 ちーちゃんが寝返りを打った。
「はる姉が置き畳を買ってきて無理やり和室にしたの。こうやって横になると気持ちいいよ」
 狭い部屋でごろごろ転がる姿に笑みが漏れた。
 その子どもっぽさと明るさに、今日まで何度も救われてきた。何も見えない暗闇の中で、ずっとそばにいたちーちゃん。本当にこの人を選んで良かった。記憶を失う前の私を褒めてあげたい。
「私もいい?」
「はる姉の部屋だもん。どうぞどうぞ」
 ちーちゃんが空けたスペースに体をねじ込んだ。
 軽い弾力と鼻孔をくすぐるイグサの匂い。空っぽの手で表面をなぞれば、凹凸に指先が掛かって音がした。目を閉じると火照った体の熱が畳を通して消えていく。このまま夢へと落ちてしまいそう。
「このまま眠っちゃう?」ちーちゃんの声が畳に転がった。
「その前にちーちゃんの部屋も見てみたいわ」
「ほんと? ちょっと待ってて。昨日片付けたんだけど、もう一回見てくるね」
 慌ただしくちーちゃんが去り、隣室から聞こえてきた騒がしさ。静かになるまで部屋でも眺めておこう。体を起こして部屋を見渡し、なぜか首をかしげてしまった。
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