ホムンクルス

ふみ

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 しかしお客どころか店員の姿が見当たらない。準備中かと不安がっていると、奥から出てきた店員と目があった。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
 会釈して一番奥の席に着き、立て掛けてあったメニューを開く。所狭しと、料理名と簡単な説明が躍っているけれど目当てはただ一つ。麻婆豆腐にしよう。
 手を挙げて注文し、お冷を口に運んだ。熱気にやられた体に染みる水が心地良い。テーブルに置かれたピッチャーでおかわりを注ぎ、二杯目も一気に飲み干した。
 手持無沙汰になってもう一度メニューを開く。セットメニュー、一品料理、海鮮料理、揚げ物……辛さレベル? とうがらしのイラストを用いた説明文に目が留まった。
 辛さの度合いが載っていて、先ほど頼んだ麻婆豆腐は激辛と表示されている。甘辛で泣きかけたらしい私が耐えられるとは思えない。すぐにでもキャンセルしようと手を挙げた矢先、店員が戻ってきた。
「お待たせしました。麻婆豆腐でございます。ご飯のおかわりが無料になっていますので、またお声掛けください」
 店員が去った後で引きつった笑みが漏れる。本物はこんなに赤いんだ。いや、赤というよりは黒に近い。溶岩のようなひき肉の海にごろごろと豆腐が浮かび、香りを嗅ぐだけで額に汗が浮かぶ。
 これは辛い。舌で感じずとも本能が危険信号を発している。苦手な人が食べればひとたまりもない。体調不良にだってなりかねない。そうわかっていても好奇心を抑えられなかった。
 手を合わせずにレンゲを手に、豆腐をそっと掬う。何回か息を吹いて口の中へ運んだ。豆腐で火傷しそうになりながら口の中で転がすと、徐々にその辛さが顔を見せる。
 熱さと辛さで舌が焼けるよう。エアコンで冷えた体が瞬発的に熱を帯び、背中に汗が滲む。想像の何倍も辛い。こんなもの正気の沙汰とは思えない。それでも……。
「……おいしい」
 嫌悪感はまるでなく、恐ろしい辛さに手を止められない。口に放っては飲み込んで、ご飯で味に変化を持たせてまた口へ。お冷を飲む時間さえもったいない。今はただこの辛さを全身で味わいたい。
 こんなにも素晴らしいものを嫌っていたんだ。子どもの頃のトラウマだと聞いたけれど、そりゃあ大人になって食べれば味覚も変わる。これからは積極的に食べよう。記憶を取り戻しても好きであるために、うちでも作ってみようかな。
「ごちそうさまでした」
 空になった楕円形の器にレンゲを置いた。額と鼻の下の汗を拭って背もたれに背を預ける。いまだに辛さと熱は抜けないものの、今はそれが心地良い。
 帰ったらちーちゃんにも……駄目、教えられない。テーブルに肘を突く。のんきにここまで来たけれど、それは約束を破った冒険であることをすっかり忘れていた。
 ちーちゃんが怒った姿を今まで見たことはない。だけど千葉のビーチで見たあの表情は今も覚えている。私を射抜き、背後にいる何かを見つめる淀んだ瞳。あれは誰を、何を見ていたのだろう。髪形を変えようとしていた私と、かつての白沢遥を見比べていたのか。
 いくら考えてもわからない。だけど秘密にしておこうと結論付ける頃には、麻婆豆腐でかいた汗は完全に引いていた。
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