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千夏との生活で、初めて一人の夜を迎えた。
一人で眠りたいと告げた時の寂しそうな表情。あれはしばらく忘れられそうにない。その上に成り立つ心細さも、正直言えば欲しくなかった。
久しぶりに出した布団の上で寝返りを打つ。台所と部屋を隔てる引き戸に目を向けた。もしも千夏が部屋にやってきたら……いや、突き放そう。今夜だけはじっくり考えたい。
「私、かばったんだ」
つい数時間前の感覚が甦る。全てを思い出したというのに、感動はあまり大きくない。千夏のこともあるし、本当にこの記憶が私なのかという奇妙な不安のせいだった。
私は杉浦叶。遥じゃない。
九月という誕生日も、お酒や中華が好きだったことも、職場も趣味も特技も何もかもしっかりと思い出せる。それに十歳の頃に事故で亡くなった父さんと母さんのことも。
強く自分を保とうとしても不安はまだ消えない。私は遥じゃない。遥じゃない。そう何度も念じてみるも、まぶたの裏にある闇は深みを増していく。
その否定をさらに強くしようと、敷いた布団の頭上にある座卓に手を伸ばした。手を水平に動かして財布を探し出し、保険証を抜き取った。
カーテンの隙間から差す月明かりに保険証をかざす。これは私のじゃない。名前も生年月日も遥のものだ。千夏が用意したにしても、ここまでうまく偽造できるのだろうか。まさか遥から盗んだ? こまでする必要があったのだろうか。
千夏とは、ここ二年近くもめた記憶はない。皮肉や冗談を言い合っていたけれど、まさかそれが積もり積もって逆鱗に触れた? ありえないとは思う。あの日も千夏はいつも通り……いや、違う。いつもとは様子が違っていた。
「遥に、ふられたから?」
小さな独り言が畳に吸い込まれた。その瞬間、頭の奥で何かが光った。
遥にふられた千夏の目に、記憶を失った私はどう映ったのだろう。自分をかばった幼なじみ? そうじゃない。自分が好きだった人と瓜二つの、空っぽの人間に見えたんだ。
だから私をもう一人の白沢遥として育てた。遥の代替品を作り上げたんだ。
故郷も何もかもでっち上げて、千夏以外に誰も頼れないようにした。外出も制限して、常に目の届く範囲に置こうとしたんだ。
そうして千夏は紛い物の愛を注ぎ続けた。憶測とはいえ、千夏がしたことに変わりはない。恐ろしい。どうしてそんなおぞましい計画を思い付いたのだろう。
ずっと見てきた笑みが詐欺師の笑いに思えてくる。あんなに温かかったぬくもりを思い出すだけで、背中に冷たいものが駆け抜ける。
それなのに、どうしてだろう。
私を騙し続けた千夏を、心の底では恨み切れない。
気が付かないうちに私も狂ってしまったらしい。
かつては遥に恋していた。それも今となっては、千夏への想いの方が大きくなっている。
だけど千夏はそうじゃない。ずっと遥しか見ていない。どうあがいたって、その矢印が私に向かないのはわかっている。いつも穏やかで優しい遥に向けられた熱い視線だと、理解している。
三度寝返りを打ち、木目調の天井を視界に入れた。こちらをじっと見つめるシーリングライト。ぼんやりと見つめ返し、ゆっくりと目を閉じた。
千夏の顔が浮かんでは消える。笑顔の千夏も、不満そうな千夏も全て描ける。私はそれを手放せるのか。
千夏に全てを思い出したと告白すれば、この関係はあっけなく終わる。私は元の生活に戻り、千夏とは気まずい関係のまま心が離れていくのだろう。
たとえ仲直りをしても恋人には戻れない。ただの幼なじみ、ただの友だちとして平行線を歩むだけ。
千夏のぬくもりを忘れ、千夏の笑顔をまぶたの裏に描かず、千夏の冗談を耳にせず、千夏に愛を囁いてもらえない毎日を生きていく。
「無理だよ、そんなの」
千夏は私の一部となって、心と生活に焼き付いてしまった。
ばかばかしくて口元が綻む。ここまで我慢の利かない人間だったんだ。
一人で眠りたいと告げた時の寂しそうな表情。あれはしばらく忘れられそうにない。その上に成り立つ心細さも、正直言えば欲しくなかった。
久しぶりに出した布団の上で寝返りを打つ。台所と部屋を隔てる引き戸に目を向けた。もしも千夏が部屋にやってきたら……いや、突き放そう。今夜だけはじっくり考えたい。
「私、かばったんだ」
つい数時間前の感覚が甦る。全てを思い出したというのに、感動はあまり大きくない。千夏のこともあるし、本当にこの記憶が私なのかという奇妙な不安のせいだった。
私は杉浦叶。遥じゃない。
九月という誕生日も、お酒や中華が好きだったことも、職場も趣味も特技も何もかもしっかりと思い出せる。それに十歳の頃に事故で亡くなった父さんと母さんのことも。
強く自分を保とうとしても不安はまだ消えない。私は遥じゃない。遥じゃない。そう何度も念じてみるも、まぶたの裏にある闇は深みを増していく。
その否定をさらに強くしようと、敷いた布団の頭上にある座卓に手を伸ばした。手を水平に動かして財布を探し出し、保険証を抜き取った。
カーテンの隙間から差す月明かりに保険証をかざす。これは私のじゃない。名前も生年月日も遥のものだ。千夏が用意したにしても、ここまでうまく偽造できるのだろうか。まさか遥から盗んだ? こまでする必要があったのだろうか。
千夏とは、ここ二年近くもめた記憶はない。皮肉や冗談を言い合っていたけれど、まさかそれが積もり積もって逆鱗に触れた? ありえないとは思う。あの日も千夏はいつも通り……いや、違う。いつもとは様子が違っていた。
「遥に、ふられたから?」
小さな独り言が畳に吸い込まれた。その瞬間、頭の奥で何かが光った。
遥にふられた千夏の目に、記憶を失った私はどう映ったのだろう。自分をかばった幼なじみ? そうじゃない。自分が好きだった人と瓜二つの、空っぽの人間に見えたんだ。
だから私をもう一人の白沢遥として育てた。遥の代替品を作り上げたんだ。
故郷も何もかもでっち上げて、千夏以外に誰も頼れないようにした。外出も制限して、常に目の届く範囲に置こうとしたんだ。
そうして千夏は紛い物の愛を注ぎ続けた。憶測とはいえ、千夏がしたことに変わりはない。恐ろしい。どうしてそんなおぞましい計画を思い付いたのだろう。
ずっと見てきた笑みが詐欺師の笑いに思えてくる。あんなに温かかったぬくもりを思い出すだけで、背中に冷たいものが駆け抜ける。
それなのに、どうしてだろう。
私を騙し続けた千夏を、心の底では恨み切れない。
気が付かないうちに私も狂ってしまったらしい。
かつては遥に恋していた。それも今となっては、千夏への想いの方が大きくなっている。
だけど千夏はそうじゃない。ずっと遥しか見ていない。どうあがいたって、その矢印が私に向かないのはわかっている。いつも穏やかで優しい遥に向けられた熱い視線だと、理解している。
三度寝返りを打ち、木目調の天井を視界に入れた。こちらをじっと見つめるシーリングライト。ぼんやりと見つめ返し、ゆっくりと目を閉じた。
千夏の顔が浮かんでは消える。笑顔の千夏も、不満そうな千夏も全て描ける。私はそれを手放せるのか。
千夏に全てを思い出したと告白すれば、この関係はあっけなく終わる。私は元の生活に戻り、千夏とは気まずい関係のまま心が離れていくのだろう。
たとえ仲直りをしても恋人には戻れない。ただの幼なじみ、ただの友だちとして平行線を歩むだけ。
千夏のぬくもりを忘れ、千夏の笑顔をまぶたの裏に描かず、千夏の冗談を耳にせず、千夏に愛を囁いてもらえない毎日を生きていく。
「無理だよ、そんなの」
千夏は私の一部となって、心と生活に焼き付いてしまった。
ばかばかしくて口元が綻む。ここまで我慢の利かない人間だったんだ。
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