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体が、揺れている。自然にではなく、誰かに揺らされている。
「大丈夫、ですか?」
誰かの声に慌てて飛び起きた。回らない頭を必死に回転させる。どうしてか、横断歩道の前で尻餅をついていた。後ろ手に突いたアスファルトは痛みを覚えるほど冷たい。徐々に感覚を取り戻していくと、全身の冷えに体が小さく震えていた。
「けがはありませんか?」
屈んで目線を合わせてきたのは、見知った運送業の制服を着た男性。心配そうにこちらをうかがっている。まさかはねられた?
自分の体をくまなく触ってみるも変わりはない。お尻にほんの少し鈍い痛みが残っているだけだった。
「確認が甘かったんです」
男性が頭を下げた。
「ついとばしちゃって……本当にすみませんでした」
まるでそういうおもちゃのように、何度も頭を下げている。けがのないことを伝え、その場を立ち去ろうとした時だった。
「あの。これ落としましたよ」
振り返れば、男性が手のひらをこちらに向けている。ごつごつとした手に乗った桃色のヘアピン。受け取ろうとして気付いてしまった。
今ならわかる。ともちゃんの名前の由来になった百日紅の柄だ。遥が集めていた、知り合いの誕生花をモチーフにしたヘアピン。そうか、ともちゃんはこれを見てあんなことを聞いてきたんだ。
「えっと、あの」
心配そうな声に我に返る。ぎこちなく返事をしてヘアピンを受け取り、足早にその場を去った。遥のようにゆったりとではなく、叶として駆けた。
「全部、全部思い出した」
すぐに夜風にかき消された声は胸の中に残ったまま。それを抱いて、今度こそ忘れないように走った。
「私は叶、私は叶、私は叶」
背後から追ってくる得体の知れない何か。逃げるようにアパートを目指す。商店街を通り抜け、暗い住宅街に足を踏み入れればもうすぐ。
やがてクリーム色のアパートが見えてきたものの、記憶を失う前と後ではこうも見方が変わってしまうんだ。
先に上京していた私が千夏を呼び、二人暮らしを始めた? とんでもない。全部うそじゃないの。上京も何も、元から東京で暮らしているし、それぞれ別の場所に住んでいた。こんなアパートを居場所だなんて思い込んだ自分が、ばからしく思えて仕方がない。
背後から抜き去っていった自転車に我に返り、頭を振って部屋の窓に視線を注いだ。我が家の明かりはまだついていない。間に合った。警戒しながら階段を上り部屋に入るも、やはり千夏の姿はなかった。
ほっと一息つく前に部屋着に着替えていると、誰かが階段を上る音が壁伝いに聞こえた。これは千夏だ。出迎えようと、朝と変わらない清潔な台所を抜けてふと足が止まった。
「あ、夕ご飯」
完全に忘れていた。献立を考える暇もなく、もちろん材料だって千夏に頼んでいない。玄関と台所を交互に見てうろたえていると、ついに時間切れでドアが開いた。
「ただいま……何してるのはる姉?」
千夏がドアを開けたまま立ち尽くしている。鼻の頭を赤くし、外がどれほど寒かったかを知らせている。
「おかえり。ちな」
慌てて咳払いでごまかし、再び笑顔を浮かべた。
「おかえり、ちーちゃん」
「ただいま。今日の夕ご飯は?」
「それが、その」
目をそらしながら台所を指さす。ブーツを脱ごうと片足立ちになった千夏が疑問符を浮かべている。
「作り忘れるって珍しいね。昼寝しちゃったの?」
「まあ、そんな感じ」
わざと苦笑いを浮かべた。
「それなら仕方ないね。ヘアピンを付け忘れるくらいだし」
指摘されてとっさに前髪に触れる。ポケットに入れたまま付け直すのを忘れていた。
「棚にカップラーメン入ってなかったっけ。あー、疲れた」
千夏が台所を通り過ぎ、すぐにベッドに倒れ込んだ音が聞こえた。
普段なら、誰と遊んだの? と話し掛ける。しかしそんな気にはなれず、ただ静かにカップラーメンの用意を始めた。
ちらと振り返れば、千夏はぼうっとスマホを眺めている。その愛らしいと思っていた顔から、数秒とたたず顔を背けた。
「大丈夫、ですか?」
誰かの声に慌てて飛び起きた。回らない頭を必死に回転させる。どうしてか、横断歩道の前で尻餅をついていた。後ろ手に突いたアスファルトは痛みを覚えるほど冷たい。徐々に感覚を取り戻していくと、全身の冷えに体が小さく震えていた。
「けがはありませんか?」
屈んで目線を合わせてきたのは、見知った運送業の制服を着た男性。心配そうにこちらをうかがっている。まさかはねられた?
自分の体をくまなく触ってみるも変わりはない。お尻にほんの少し鈍い痛みが残っているだけだった。
「確認が甘かったんです」
男性が頭を下げた。
「ついとばしちゃって……本当にすみませんでした」
まるでそういうおもちゃのように、何度も頭を下げている。けがのないことを伝え、その場を立ち去ろうとした時だった。
「あの。これ落としましたよ」
振り返れば、男性が手のひらをこちらに向けている。ごつごつとした手に乗った桃色のヘアピン。受け取ろうとして気付いてしまった。
今ならわかる。ともちゃんの名前の由来になった百日紅の柄だ。遥が集めていた、知り合いの誕生花をモチーフにしたヘアピン。そうか、ともちゃんはこれを見てあんなことを聞いてきたんだ。
「えっと、あの」
心配そうな声に我に返る。ぎこちなく返事をしてヘアピンを受け取り、足早にその場を去った。遥のようにゆったりとではなく、叶として駆けた。
「全部、全部思い出した」
すぐに夜風にかき消された声は胸の中に残ったまま。それを抱いて、今度こそ忘れないように走った。
「私は叶、私は叶、私は叶」
背後から追ってくる得体の知れない何か。逃げるようにアパートを目指す。商店街を通り抜け、暗い住宅街に足を踏み入れればもうすぐ。
やがてクリーム色のアパートが見えてきたものの、記憶を失う前と後ではこうも見方が変わってしまうんだ。
先に上京していた私が千夏を呼び、二人暮らしを始めた? とんでもない。全部うそじゃないの。上京も何も、元から東京で暮らしているし、それぞれ別の場所に住んでいた。こんなアパートを居場所だなんて思い込んだ自分が、ばからしく思えて仕方がない。
背後から抜き去っていった自転車に我に返り、頭を振って部屋の窓に視線を注いだ。我が家の明かりはまだついていない。間に合った。警戒しながら階段を上り部屋に入るも、やはり千夏の姿はなかった。
ほっと一息つく前に部屋着に着替えていると、誰かが階段を上る音が壁伝いに聞こえた。これは千夏だ。出迎えようと、朝と変わらない清潔な台所を抜けてふと足が止まった。
「あ、夕ご飯」
完全に忘れていた。献立を考える暇もなく、もちろん材料だって千夏に頼んでいない。玄関と台所を交互に見てうろたえていると、ついに時間切れでドアが開いた。
「ただいま……何してるのはる姉?」
千夏がドアを開けたまま立ち尽くしている。鼻の頭を赤くし、外がどれほど寒かったかを知らせている。
「おかえり。ちな」
慌てて咳払いでごまかし、再び笑顔を浮かべた。
「おかえり、ちーちゃん」
「ただいま。今日の夕ご飯は?」
「それが、その」
目をそらしながら台所を指さす。ブーツを脱ごうと片足立ちになった千夏が疑問符を浮かべている。
「作り忘れるって珍しいね。昼寝しちゃったの?」
「まあ、そんな感じ」
わざと苦笑いを浮かべた。
「それなら仕方ないね。ヘアピンを付け忘れるくらいだし」
指摘されてとっさに前髪に触れる。ポケットに入れたまま付け直すのを忘れていた。
「棚にカップラーメン入ってなかったっけ。あー、疲れた」
千夏が台所を通り過ぎ、すぐにベッドに倒れ込んだ音が聞こえた。
普段なら、誰と遊んだの? と話し掛ける。しかしそんな気にはなれず、ただ静かにカップラーメンの用意を始めた。
ちらと振り返れば、千夏はぼうっとスマホを眺めている。その愛らしいと思っていた顔から、数秒とたたず顔を背けた。
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