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「それじゃあまた後で、様子を見にくるわ」
少し世間話をした後で遥が部屋を去った。
静かな足音を聞きながら、一人だけの空気を思いっきり肺に入れる。気分は何も変わらない。あの日からずっと沼の中にいるように息苦しい。それに一人になるとつい千夏のことを考えてしまう。
好きだったのに、愛していたのに、騙された。注いだ何もかもが無駄になった。あの日々は何だったのだろう。
疑問に足を止めてよく考えればよかった。異変に目を向ければよかった。のんきな自分に怒りが止まらない。
それでも、千夏への怒りは不思議と湧かなかった。ただ離れたかった。この形容しがたい気持ちから逃げたかった。
本当にこれでよかったのか。誰に答えを聞けばいいのかわからないまま、もう一度空を見上げる。吐き気がするほど青い空に、ため息を投げた。
空を見飽きたら部屋を見渡し、また空を見上げる。
そこに意味はない。何かが好転するまでの暇つぶし。それは夜になっても変わらない。夕飯を遥に片付けてもらい、気にしないでと微笑む遥に胸の痛みは増すばかり。
罪悪感が増すだけで死ねないのはとても不便。罪の重さで圧死できればいいのに。ここ最近、同じことばかり考えている気がする。
「叶ちゃん。夜分にごめんなさいね。少しいいかしら」
襖の向こうから転がった声に背筋が伸びる。とりあえず正座で返事をした。
「あの、はい」
「失礼するわね。あら、正座してどうしたの?」
襖を開けた仁美さんが目を丸くしている。
「居候の身なので……あの、仁美さん。何か?」
恐る恐る名前を呼ぶと仁美さんが小さく吹きだした。
「叶ちゃんったら。お母さんでいいって何度も言っているのに」
「いえ、仁美さんは遥のお母さんなので」
「そんなの気にしないでいいのよ。叶ちゃんのことは、小さい頃から知っているもの。ある意味、娘同然よ」
仁美さんの優しさに、緊張がゆっくりと解けだす。そうだ、昔からこういう人だった。肩書を感じさせない穏やかさと優しさ。かつて感じた母さんと同じ温かさだった。
「ほら、とりあえずお母さんって呼んでみて?」
「えっと……お、お母さん」
「良くできました」
仁美さんが頭を撫でてきた。驚いたものの、その心地良さに負けて、しばらくなすがままに撫でられた。
「体調はどう?」
仁美さんの手が離れ、互いに姿勢を戻した。
「遥に聞いても何も教えてくれないから、心配していたのよ」
「よく、なってます。ちょっと精神的に疲れていて……動けるようになったらすぐに出ていくので」
「そんなこと言わないでゆっくりしていって。遥もそう言ってなかった?」
ぎこちなく頷いた。遥の優しさの元は仁美さんだったんだ。その優しさに触れて、心の傷はほんの少しだけ癒えた気がする。だけど仁美さんが去って夜が更けたことで、温かい優しさはすぐに消えた。
寂しさを抱きながら、月明かりが支配する部屋で息をする。後は意識が夢に落ちるまで自問自答と後悔を繰り返すだけ。
天井を眺める視線がタンス、座卓、三面鏡と移ってまぶたの裏に戻ってきた。日によって寝つきはまちまちだけど、今日は一段と眠れそうにない。
寝返りを打って廊下側へ体を向ける。そこには廊下と部屋とを隔てる襖があるだけ。華道の家元だからか、襖には小さなツバキがちりばめられている。月の光を頼りに一つ一つ数えていれば、まぶたも重くなるだろうか。
ぼんやりとツバキを数え始めると、襖がほんの少し動いた。空いた隙間から生えたように出てきた真っ白な手。お化けかと思ったけれど、手の主はすぐに顔を覗かせた。
「遥?」
少し世間話をした後で遥が部屋を去った。
静かな足音を聞きながら、一人だけの空気を思いっきり肺に入れる。気分は何も変わらない。あの日からずっと沼の中にいるように息苦しい。それに一人になるとつい千夏のことを考えてしまう。
好きだったのに、愛していたのに、騙された。注いだ何もかもが無駄になった。あの日々は何だったのだろう。
疑問に足を止めてよく考えればよかった。異変に目を向ければよかった。のんきな自分に怒りが止まらない。
それでも、千夏への怒りは不思議と湧かなかった。ただ離れたかった。この形容しがたい気持ちから逃げたかった。
本当にこれでよかったのか。誰に答えを聞けばいいのかわからないまま、もう一度空を見上げる。吐き気がするほど青い空に、ため息を投げた。
空を見飽きたら部屋を見渡し、また空を見上げる。
そこに意味はない。何かが好転するまでの暇つぶし。それは夜になっても変わらない。夕飯を遥に片付けてもらい、気にしないでと微笑む遥に胸の痛みは増すばかり。
罪悪感が増すだけで死ねないのはとても不便。罪の重さで圧死できればいいのに。ここ最近、同じことばかり考えている気がする。
「叶ちゃん。夜分にごめんなさいね。少しいいかしら」
襖の向こうから転がった声に背筋が伸びる。とりあえず正座で返事をした。
「あの、はい」
「失礼するわね。あら、正座してどうしたの?」
襖を開けた仁美さんが目を丸くしている。
「居候の身なので……あの、仁美さん。何か?」
恐る恐る名前を呼ぶと仁美さんが小さく吹きだした。
「叶ちゃんったら。お母さんでいいって何度も言っているのに」
「いえ、仁美さんは遥のお母さんなので」
「そんなの気にしないでいいのよ。叶ちゃんのことは、小さい頃から知っているもの。ある意味、娘同然よ」
仁美さんの優しさに、緊張がゆっくりと解けだす。そうだ、昔からこういう人だった。肩書を感じさせない穏やかさと優しさ。かつて感じた母さんと同じ温かさだった。
「ほら、とりあえずお母さんって呼んでみて?」
「えっと……お、お母さん」
「良くできました」
仁美さんが頭を撫でてきた。驚いたものの、その心地良さに負けて、しばらくなすがままに撫でられた。
「体調はどう?」
仁美さんの手が離れ、互いに姿勢を戻した。
「遥に聞いても何も教えてくれないから、心配していたのよ」
「よく、なってます。ちょっと精神的に疲れていて……動けるようになったらすぐに出ていくので」
「そんなこと言わないでゆっくりしていって。遥もそう言ってなかった?」
ぎこちなく頷いた。遥の優しさの元は仁美さんだったんだ。その優しさに触れて、心の傷はほんの少しだけ癒えた気がする。だけど仁美さんが去って夜が更けたことで、温かい優しさはすぐに消えた。
寂しさを抱きながら、月明かりが支配する部屋で息をする。後は意識が夢に落ちるまで自問自答と後悔を繰り返すだけ。
天井を眺める視線がタンス、座卓、三面鏡と移ってまぶたの裏に戻ってきた。日によって寝つきはまちまちだけど、今日は一段と眠れそうにない。
寝返りを打って廊下側へ体を向ける。そこには廊下と部屋とを隔てる襖があるだけ。華道の家元だからか、襖には小さなツバキがちりばめられている。月の光を頼りに一つ一つ数えていれば、まぶたも重くなるだろうか。
ぼんやりとツバキを数え始めると、襖がほんの少し動いた。空いた隙間から生えたように出てきた真っ白な手。お化けかと思ったけれど、手の主はすぐに顔を覗かせた。
「遥?」
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