王女付き護衛、月下に名を奪われる

れおぽん

文字の大きさ
1 / 7

第一話 首筋に触れた月光

しおりを挟む
首に、冷たい鉄が触れた。

「——動くな」

声は低く、息が整っている。脅しのための刃ではない。刺す角度で当てている。私の脈の上を、確かめるように撫でた。

私は、ゆっくり両手を上げた。指先まで力を抜く。肩を動かせば喉が裂ける。息を吸いすぎれば皮膚が震え、刃が滑る。だから呼吸は細く、静かに。

王宮の夜は、静かだ。静かすぎて、遠い巡回の鈴の音さえ拾ってしまう。廊下の石は冷たく、月明かりが薄く差している。今ここで一つでも余計な音を立てれば、終わる。

「名を言え」

「ユナ・クロイツです」

「違う」

その一言で、心臓が一段沈んだ。

今日、私は王女付きの護衛としてこの宮に入った。地方の小さな騎士家の縁者。剣の腕は及第。礼法は最低限。身元は整っている。

整えた。何度も。誰にも触れさせないために。

背後の男は、迷いなく続けた。

「君の名は、別にある。灰庭の犬だろう」

灰庭。

喉の奥が冷えた。刃より先に、言葉が刺さる。灰庭の名をここで口にできる者は少ない。王宮の上役でも、噂としてしか知らないはずだ。

私は反射で首を引きかけた。刃がわずかに食い込み、薄い痛みが走る。皮膚が熱を思い出し、血の気が引く。

「動くなと言った」

背後の気配は一つ。だが、この静けさは二つ目の影を隠すのに十分だった。

「……誰の差し金だ」

問いが口を出た自分に、少し驚く。私はいつも、問いより先に逃げ道を数える。なのに今夜は、問いが先に出た。焦りは、こういう形で漏れる。

「差し金など要らない」

もう一つ、足音がした。ゆっくり。石を恐れない歩き方。近づくのに気配が薄い。刃を当てている男とは別の種類の静けさ。

私は目だけを動かした。廊下の先、柱の影から一人が現れる。灯りの届かない場所から出てきたのに、輪郭がはっきりしていた。背が高く、肩が落ち着いている。余計な飾りのない衣。だが身分を隠す気配はない。

昼の拝礼で、遠くから見た顔だ。王族の並びの中でも視線を集めぬように立っていた男。

第一王子、レオニス・アルヴァン。

「そこまでにしよう、カイ」

呼び名で制した。刃の男——カイ——は、刃を少しだけ離した。離しただけだ。私の脈の上に冷たさが残っている。

王子は数歩進み、私とカイの距離を測るみたいに立った。月の薄光が横顔を削る。笑みはある。けれど暖かくない。笑いという行為が、ただの道具みたいだ。

「初日の夜に、随分と忙しいね。……ユナ・クロイツ、だったかな」

わざと偽名を呼ぶ。私がそれを守ろうとしたことを、踏みにじるために。

「そうです」

「違う、と言われたばかりなのに?」

私は黙った。言葉を重ねれば隙になる。隙は刃になる。今は、首筋の冷たさだけで十分だ。

王子は私の首筋を見た。血が出ているかどうかを確かめるように。視線が触れただけで、そこが痛む気がした。

「灰庭の作法は、相変わらずだ」

胃の底が落ちた。

噂で知った者の言い方ではない。知っている者の言い方だ。具体を言われたわけではないのに、分かってしまう。王子は、私の裏の歩き方まで知っている。

「……殿下は、何をお望みですか」

声が乾いた。乾かすのは得意だ。湿った声は、情を見せる。

「望み、か。まずは整理しよう」

王子は静かに言った。

「君は今日から王女付きの護衛。表の務めはそれでいい」

王女、ミレイア殿下。昼に見た笑顔が脳裏に浮かぶ。まだ幼さを残した笑み。あの笑みが、今夜の刃より怖い。守りたいと思ってしまうからだ。

「そして——裏の務めも、続けるつもりだろう?」

否定はしない。否定は嘘になる。そして、この男の前で嘘は命取りになる。

「灰庭は、私に命じています」

「命じている、ね」

王子の声は柔らかい。柔らかいのに、こちらの肋骨の隙間に正確に入ってくる。

「ならば、順を違えるな」

「……順?」

「君が見たもの、嗅いだもの、拾ったもの。すべて。まず私に報せる。その次に、灰庭へ報せる」

私は息を止めかけた。短い沈黙が落ちる。遠い鈴の音がもう一つ鳴った。巡回が近づいている。時間をかければ、第三者の目が入る。ここで決まる。

「私が拒めば」

王子は迷いなく答えた。

「君は宮を去る。——いや、去れないかもしれない」

穏やかな声で、骨に届く冷たさを言う。告発、取り潰し、処断。王宮では正しさより先に手続きが走る。灰庭の者だと公にされれば、私はその流れに飲まれる。

「脅しですか」

感情は入れない。入れた瞬間、この男はそれを握る。

王子は少しだけ笑った。

「脅しは嫌いだ。脅しは恨みを残す。恨みは、いずれ刃になる」

言葉が淡々としていて、だから余計に怖い。恨みが刃になることを、この男は知っている。刃に囲まれて生きてきたのだ。

「取引だよ、ユナ」

偽名を呼ぶ。今度は否定しない。否定しても意味がない。名は、もう奪われた。

「王女を守れ。王女の身に何かあれば——私は君を生かさない」

その言葉は、怒りでも脅しでもない。ただの事実として落ちた。王子にとって王女は例外なのだろう。例外がある者は、そこが弱点になる。だから怖い。

「そして、私に報せろ。君が灰庭に報せる前に」

「灰庭が許しません」

「許さなくていい。許すのは私だ」

傲慢ではない。確信だ。この男は許す側にいる。許される側ではない。

王子は懐から一枚の紙を取り出した。封はしていない。紙は薄いが質がいい。王宮のものだ。灰庭の紙ではない。

「これを今夜、送れ」

私は受け取る前に、指先を一度だけ握った。迷いを捨てる癖だ。迷いは手に出る。

「文は一字も変えるな」

「……殿下が、灰庭に?」

「そうだ。君の手で、君の作法で」

紙を渡される。王子の指が、ほんの一瞬、私の指に触れた。体温が移る。それが妙に不快だった。温かさは人を油断させる。油断は死ぬ。

私は紙を握りしめた。破ろうと思えば破れる。それでも破らない。破った瞬間、私の喉が裂ける。

王子は私の表情を見て、何も言わない。その沈黙が、妙に優しいのが厄介だ。優しさは、縄になる。

「なぜです」

問うた。余計だと分かっている。それでも今夜は、余計を吐き出さないと息ができない。

王子は、ほんの少しだけ目を細めた。

「君の上官に伝えておきたい。君が今夜から、王女のそばにいることを。君が今夜から、私の目の届く所にいることを」

灰庭に向けた宣言。私に向けた宣告。

そのとき、王子の袖口の下から、淡い紅が見えた。布の端。いつかの血。新しい傷ではない。古い。だが、洗い落としきれない色。

この男も、刃の中で生きている。

私はその紅から目を逸らした。逸らしたのは、同情が胸に触れかけたからだ。同情は弱い。弱さは刃になる。

背後でカイが短く息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか分からない。

王子は振り返りもせずに言った。

「カイ。彼女を通せ」

「はい、殿下」

刃はもうない。だが背中に視線が刺さる。私は一歩、歩いた。足音が石に落ちる。小さな音が、やけに大きい。

廊下の先、闇の中へ向かう。巡回の鈴が近い。私の歩幅は乱れない。乱した瞬間、首筋の冷たさが戻る。

首の傷が、じくじくと熱い。

冷たさは触れていないのに、まるで印のように残っている。ここから先の道を示す印。戻れないことを示す印。

——今夜、手紙を送る。文は一字も変えない。

その一線を越えた先で、私はまだ、自分の名を取り戻せるだろうか。
それとも、名を捨てたまま生きるのが、この宮で生き延びる唯一の道なのか。

月光が、紙の端を薄く照らした。

私はその白さを見ないようにして、闇へ歩いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました

星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎ 王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝―― 路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。 熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。 「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」 甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。 よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、 気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて―― しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!? 「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」 年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。 ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

世間知らずな山ごもり薬師は、××な騎士団長の性癖淫愛から逃げ出せない

二位関りをん
恋愛
平民薬師・クララは国境沿いの深い山奥で暮らしながら、魔法薬の研究に没頭している。招集が下れば山を下りて麓にある病院や娼館で診察補助をしたりしているが、世間知らずなのに変わりはない。 ある日、山の中で倒れている男性を発見。彼はなんと騎士団長・レイルドで女嫌いの噂を持つ人物だった。 当然女嫌いの噂なんて知らないクララは良心に従い彼を助け、治療を施す。 だが、レイルドには隠している秘密……性癖があった。 ――君の××××、触らせてもらえないだろうか?

お久しぶりです旦那様。そろそろ離婚ですか?

奏千歌
恋愛
[イヌネコ] 「奥様、旦那様がお見えです」 「はい?」 ベッドの上でゴロゴロしながら猫と戯れていると、侍女が部屋を訪れて告げたことだった。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

妹の身代わりだった私に「本命は君だ」――王宮前で王子に抱き潰され、溺愛がバレました。~私が虐げられるきっかけになった少年が、私と王子を結び付

唯崎りいち
恋愛
妹の身代わりとして王子とデートすることになった私。でも王子の本命は最初から私で――。長年虐げられ、地味でみすぼらしい私が、王子の愛と溺愛に包まれ、ついに幸せを掴む甘々ラブファンタジー。妹や家族との誤解、影武者の存在も絡み、ハラハラと胸キュンが止まらない物語。

幼馴染の勇者に「魔王を倒して帰ってきたら何でもしてあげる」と言った結果

景華
恋愛
平和な村で毎日を過ごす村娘ステラ。 ある日ステラの長年の想い人である幼馴染であるリードが勇者として選ばれ、聖女、女剣士、女魔術師と共に魔王討伐に向かうことになる。 「俺……ステラと離れたくない」 そんなリードに、ステラは思わずこう告げる。 「そうだ‼ リードが帰ってきたら、私がリードのお願い、一つだけなんでも叶えてあげる‼」 そんなとっさにステラから飛び出た約束を胸に、リードは村を旅立つ。 それから半年、毎日リードの無事を祈り続けるステラのもとに、リードの史上最速での魔王城攻略の知らせが届く。 勇者一行はこれからたくさんの祝勝パーティに参加した後、故郷に凱旋するというが、それと同時に、パーティメンバーである聖女と女剣士、そして女魔術師の話も耳にすることになる。 戦いの昂りを鎮める役割も担うという三人は、戦いの後全員が重婚の認められた勇者の嫁になるということを知ったステラは思いを諦めようとするが、突然現れたリードは彼女に『ステラの身体《約束のお願い》』を迫って来て──? 誰がどう見ても両片思いな二人がお願いをきっかけに結ばれるまで──。

なんか、異世界行ったら愛重めの溺愛してくる奴らに囲われた

いに。
恋愛
"佐久良 麗" これが私の名前。 名前の"麗"(れい)は綺麗に真っ直ぐ育ちますようになんて思いでつけられた、、、らしい。 両親は他界 好きなものも特にない 将来の夢なんてない 好きな人なんてもっといない 本当になにも持っていない。 0(れい)な人間。 これを見越してつけたの?なんてそんなことは言わないがそれ程になにもない人生。 そんな人生だったはずだ。 「ここ、、どこ?」 瞬きをしただけ、ただそれだけで世界が変わってしまった。 _______________.... 「レイ、何をしている早くいくぞ」 「れーいちゃん!僕が抱っこしてあげよっか?」 「いや、れいちゃんは俺と手を繋ぐんだもんねー?」 「、、茶番か。あ、おいそこの段差気をつけろ」 えっと……? なんか気づいたら周り囲まれてるんですけどなにが起こったんだろう? ※ただ主人公が愛でられる物語です ※シリアスたまにあり ※周りめちゃ愛重い溺愛ルート確です ※ど素人作品です、温かい目で見てください どうぞよろしくお願いします。

処理中です...