事故物件相談室へようこそ 〜部屋に残る“最後の違和感”を読む私と、左遷刑事の夜回り録〜

れおぽん

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第3話 前の住人

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翌朝、真琴は事故報告書の「事故」の二文字を、必要以上に長く見つめてしまった。

前住人、三田村沙耶、二十六歳。半年前、居室ベランダから転落。現場の状況および遺留物から、自殺の可能性は低く、事故として処理――そこまで読んだところで、指先が止まる。自殺ではない。事故。書類の上では、それで話が終わっている。

書類なんて、だいたいそうだ。誰かの暮らしの終わりを、数行で片づける。

「朝から難しい顔してますね」

声をかけられて顔を上げると、黒瀬が紙コップのコーヒーを二つ持って立っていた。片方を机の端に置く。礼を言うと、「熱いので気をつけて」とだけ返ってきた。

「前住人の資料、見てました」
「見れば見るほど、きれいすぎるでしょう」
「きれいすぎる?」
「揉めた形跡が、書類の上にはなさすぎます」

黒瀬は自分の席に腰を下ろし、ファイルを開いた。

「勤務先、通話記録の照会、近隣の簡単な聞き取り。今のところ、交際相手と揉めてた線が濃いです」
「交際相手」
「元、ですけどね。別れたあとも付きまといに近かったらしい」

真琴は小さく息を吐いた。昨夜、空室で感じたあの落ち着かなさが、少しだけ輪郭を持ち始める。見張られている感じ。起きているか、いるか、確かめられている感じ。あれがただの思い込みではなかったのだとしたら、嫌な方向で腑に落ちる。

「宮坂さんの部屋にいた時、ベランダの方が妙に気になりました」
「俺もです。前住人の部屋の窓枠、かなり触られてましたし」
「下から来られそうでしたよね」
「慣れてる人間なら、です」

黒瀬は報告書を閉じた。

「午前中、近隣をもう少し当たります。朝倉さんは管理会社に、前住人の原状回復記録と鍵管理の詳細、追加で請求してもらえますか」
「はい。たぶん、嫌がられますよね」
「ええ。だからできるだけ丁寧に、でも引かないでください」
「難しい注文ですね」
「朝倉さん向きです」

そう言われると、褒められているのか押しつけられているのか、少し迷う。けれど黒瀬の顔は真面目だったので、真琴は素直に「やってみます」と答えた。

管理会社の担当者は、案の定、反応が鈍かった。

『原状回復の詳細ですか? 通常の清掃と補修だけですけどねえ』
「その記録を確認したいんです。昨夜、現地で窓枠に不自然な擦れがありました」
『いや、でも事故のあとのものですし、今さら……』
「今の入居者から継続的な相談が来ています。今さら、で済まないのでお願いしています」

できるだけ声を平らにして言うと、受話器の向こうで微妙な間があいた。面倒な客だと思われているのがわかる。けれど、そこで引いたらたぶん「気のせいでした」で終わる。

『確認して、折り返します』
「今日中にお願いします」
『……善処します』

善処します、は大抵しない時の言い方だ、と真琴は知っている。電話を切ったところで、相馬が資料棚の前からこちらを見ていた。

「嫌な声してたわね」
「かなり」
「出し渋る会社って、だいたい二種類なの。ほんとうに仕事が遅いか、出したくないか」
「どっちだと思いますか」
「後者」

相馬はそれだけ言って、別の資料を机に置いた。

「前住人の勤務先。女性向けの雑貨店。辞める少し前から、店にも元交際相手が来てたらしいわ」
「そこまで」
「ええ。本人は警察に行くほどじゃないって言ってたみたいだけど、周りは嫌がってた。黒瀬さん、今その店から戻るところ」

ちょうどそのタイミングで、黒瀬が戻ってきた。手元のメモを机に広げる。

「近隣、勤務先、合わせるとこんな感じです。別れ話でもめたあと、男の方がかなり執着してた。店の前で待つ、自宅近くで見かける、着信が増える。典型的ですね」
「警察への相談歴は」
「はっきり残ってません。近所の人も、本人が大ごとにしたくなさそうだったって」
「……そうですか」

大ごとにしたくなかったのか、大ごとにしても変わらないと思ったのか。そういう違いは、たいてい書類に残らない。

午後、真琴と黒瀬は再びアパートへ向かった。宮坂由衣にも、前住人について確認しておきたいことがあったからだ。

昼間の建物は、昨夜よりずっと普通に見える。日差しのせいで、二階の廊下も白く乾いている。こんな場所で毎晩あの音を待つことになるのだと思うと、それだけで少し息が詰まった。

由衣は寝不足の顔のまま、二人を部屋へ通した。

「昨夜のあと、姉の家に行きました。朝方ちょっとだけ寝られて……」
「よかったです」
「でも、戻ってきたらまた嫌な感じがして」

由衣は苦く笑った。

「自分の部屋なのに、自分の部屋じゃないみたいで」

真琴は少し迷ってから訊いた。

「前の住人のこと、どこまで知ってますか」
「転落で亡くなったってことだけです。管理会社には、それ以上は個人情報だからって」
「最近、ベランダの方に気配を感じること、ありましたよね」
「……あります。最初は気のせいかと思ったんですけど」

由衣は声をひそめた。

「窓の向こうで、立ち止まられてる感じがする時があるんです。見たわけじゃないんです。でも、カーテン越しに、今こっち見てるなって思う時があって」

真琴の背中がうっすら冷えた。昨夜、空室のベランダ側で感じた落ち着かなさが蘇る。カーテンを閉めても落ち着かない。窓を見たくないのに気になる。そういう暮らし方が、部屋の空気に染みついていた。

「前の人も、そうだったんでしょうか」

由衣の問いには、すぐ答えられなかった。

代わりに、真琴は隣の空室をもう一度見せてもらうことにした。昼の明るさの中なら、昨夜とは違うものが見えるかもしれない。

鍵を開けて中に入る。やはり何もない部屋だった。なのに、ベランダの方へ数歩進んだだけで、妙に肩に力が入る。ここに立つと、外を確認したくなる。誰かいないか、今日もいるのか、下から来るのか、横から覗くのか。そんなふうに、常に意識を窓の外へ引っ張られる。

「……嫌ですね」
「何がです」
「落ち着かないです。ここにいると、ちゃんと閉めてても安心できない感じがする」

真琴が小さく言うと、黒瀬は窓枠に手をかけたまま頷いた。

「見張られてた側の感覚に近いですか」
「たぶん」
「俺もそう思います」

黒瀬はベランダへ出て、隣室との位置関係を確かめた。由衣の部屋の窓はここから斜めに見える。完全に中まで見えなくても、灯りがついているか、起きているか、気配くらいはわかる。

「前の住人、かなり気にしてたでしょうね」
「そうでしょうね……」

真琴が室内へ戻ると、収納の上段に小さな傷を見つけた。爪か何かで引っかいたような線だ。意味のあるものかはわからない。けれど、何かを掴みたかった手の跡みたいにも見えて、少しだけ目を逸らしたくなった。

部屋を出る前、黒瀬がぽつりと言った。

「事故、というより生活の延長で起きた感じが強いですね」
「生活の延長」
「転落そのものより、その前の時間が長かったってことです」

それは報告書には絶対に書かれない種類の真実だった。

夕方、管理会社からようやく折り返しが来た。真琴が応対すると、担当者は朝よりさらに歯切れが悪い。

『原状回復の記録、お送りします。ただ、鍵の管理については特に問題ありませんでしたよ』
「下請け業者の出入りが多かったようですが」
『ああ、それは事故後の対応で』
「業者名もお願いします」
『そこまで必要ですか?』
「必要です」

しばらくの沈黙のあと、メールが届いた。添付された資料は最低限で、肝心な部分がところどころ曖昧だった。けれど、業者名だけは載っている。

黒瀬がそれを見て、眉を動かした。

「この下請け、元交際相手の知人がいます」
「え」
「前に別件で名前を見たことがある。身元保証の関係で一回揉めてた男です」
「じゃあ……」
「合鍵に触れる手段が、あるかもしれない」

真琴は息を呑んだ。空室の窓枠の擦れ、由衣の感じていた気配、前住人の見張られるような生活、その全部がひどく現実的な形でつながっていく。

黒瀬は資料を閉じた。

「死後もこの近辺に出入りしてた記録、元交際相手の知人経由の下請け、鍵管理の曖昧さ。かなり揃ってきました」
「……嫌な揃い方ですね」
「ええ。かなり」

真琴は自分の机の上の報告書を見た。前住人、三田村沙耶。二十六歳。事故扱い。数行で終わっている人生の後ろに、じわじわと別の輪郭が浮かぶ。

事故ではなく、誰かに生活ごと追い詰められていたのだとしたら。

そして、その追い詰め方が死後も少しずつ形を変えて残っているのだとしたら。

「黒瀬さん」
「はい」
「それ、もう一回ちゃんと洗いましょう」

黒瀬は短く「もちろん」と答えた。その声に迷いはなかった。

真琴はもう一度、空室の図面へ目を落とした。何もない部屋のはずなのに、そこにはまだ、誰かが外を気にしながら暮らしていた時間の重さが残っている気がする。

怖かったのは、何かが見えるからじゃない。見えないまま、誰かの都合だけが生活の中へ入り込んでくることだ。

その嫌さを、あの部屋はまだ覚えていた。
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