事故物件相談室へようこそ 〜部屋に残る“最後の違和感”を読む私と、左遷刑事の夜回り録〜

れおぽん

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第2話 二時十三分の呼び鈴

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部屋に戻ってから、時計の針が進む音ばかりがやけに耳についた。

相談者の女性――宮坂由衣は、申し訳なさそうに何度も「こんな時間まで、すみません」と言った。そのたびに真琴は「大丈夫です」と返したが、正直に言えば、大丈夫かどうかは自分でもよくわからなかった。まだ何も起きていないのに、胸の奥に細い糸みたいな緊張が引っかかっている。

ワンルームの室内はこぢんまりとしていて、生活感はあるのに、どこか落ち着かなかった。ベッド脇の小さなテーブルには飲みかけの水と目覚まし時計。壁際の棚には化粧品と文庫本が並んでいる。普通の部屋だ。少なくとも、普通であろうとして整えられている部屋だった。

けれど、隣の空室のことが頭にあるせいか、白い壁一枚向こうに、何か別の静けさが貼りついている気がする。

黒瀬は室内を一通り見て、玄関、窓、インターホンの受話器、ベランダの鍵を順に確認していた。余計なことは言わないが、手が止まらない。真琴はその様子を見ながら、資料で見た「不審点なし」という言葉の軽さを思った。不審点なんて、見る人が見なければ最初からないことにされる。

「この部屋のインターホン、鳴った時に映像は出ないんですか」

真琴が尋ねると、由衣は首を振った。

「古いタイプで、音だけなんです。管理会社にもそこは相談したんですけど、壊れてないから交換はできないって」
「鳴ったあと、すぐ外に出たことは?」
「一回だけ……でも、その時はもう誰もいませんでした。廊下も、階段も、静かで。余計に怖くて」

由衣はそこで唇をきゅっと結んだ。無理に平静な顔をしているのがわかる。たぶん、何度も「気にしすぎ」だと扱われてきたのだろう。そういう顔だった。

真琴は手元のメモ帳に視線を落としたまま、訊いた。

「鳴る前に、確認されてる感じがするって言ってましたよね」
「はい」
「それって、どういう……」
「……向こうが、起きてるか見てるみたいな感じです」

由衣は壁の方を見た。つられるように真琴もそちらを見る。白い壁紙に継ぎ目が一本、まっすぐ入っているだけだ。

「変ですよね」
「変かどうかは、まだ決めなくていいです」

そう言うと、由衣は少しだけ目を丸くした。たぶん、すぐに否定されると思っていたのだろう。

時計は一時五十分を過ぎていた。まだ二十三分ある。けれど、その二十三分が妙に長く感じる。真琴は水を一口飲んだ。喉を潤したはずなのに、すぐまた乾いた気がした。

「毎回、きっちり二時十三分なんですか」

黒瀬が窓際から振り返る。

「一分二分ずれる時はありますけど……だいたいその辺りで」
「鳴る日は、前もってわかりますか」
「わかりません。でも、なんとなく嫌な感じがする日はあります」
「嫌な感じ」
「うまく言えないんですけど、帰ってきた時に、今日だって思うんです」

真琴は少しだけ顔を上げた。言葉にしづらいものを、他人はすぐ曖昧だと切り捨てる。けれど、それが毎日の暮らしの中でどれだけ重くなるかは、そこにいる本人にしかわからない。

由衣の部屋の照明は点けたままにしてある。消すと由衣が余計に不安になるし、明るい方がこちらも動きやすい。ただ、その明るさのせいで、かえって壁の向こうの暗さだけが意識に残る。

二時を回った頃、真琴は自分の手が少し冷えていることに気づいた。

寒いわけではない。室内の空調は弱く効いているし、由衣の淹れてくれたお茶はまだ温かかった。なのに指先だけ温度が抜けていくようで、何度か手を握ったり開いたりする。

「朝倉さん」

不意に黒瀬が低く呼んだ。真琴が顔を上げると、彼はベランダのレールを見たまま言う。

「顔色、悪いです」
「そうですか」
「ええ」
「大丈夫です」
「そういう人ほど無理するんですよ」

咎めるというより、確認する声だった。真琴は思わず少しだけむっとした。

「黒瀬さんこそ、そういう言い方する人ほど自分は無理してないと思ってそうですけど」
「してますよ」
「認めるんですね」
「認めた方が対処しやすいので」

真琴は返す言葉を失った。由衣が、ふっと小さく笑った。その笑いが出ただけで、部屋の空気が少しだけ和らぐ。こういう時に軽口が言える人なのかもしれないと、真琴は少しだけ見方を改めた。

二時十分。

それまで沈黙の方が多かった室内が、急に音の少なさを強調し始めた。冷蔵庫の低い駆動音。どこか遠くの車の走行音。上の階で誰かが寝返りを打ったのか、かすかな床鳴り。そういうものが全部、今だけは「鳴っていない音」の輪郭をはっきりさせている。

二時十二分。

真琴の胸の奥が、すうっと嫌な形で狭くなった。第一話で廊下に立った時のあの感覚が戻ってくる。怖い、とは少し違う。もっと手前の、体が勝手に嫌がっている感じだった。

壁の向こうに何かいる、ではない。そう言い切れるほど具体的でもない。ただ、あちら側に気配のようなものが生まれて、それがこちらの様子をうかがっている。そんな想像が、想像のまま済まない重さで胸に沈む。

真琴は無意識に息を浅くしていた。

二時十三分。

ピンポーン。

ごく普通の、どこにでもある電子音だった。だからこそ嫌だった。

由衣が肩を震わせる。真琴も一瞬、背筋に冷たいものが走った。音は確かに近い。すぐ隣、壁一枚向こうから鳴ったのだと、音の位置がはっきりわかる。

黒瀬は間を置かず立ち上がった。

「行きます」
「えっ」
「宮坂さんはここで待っていてください。鍵はこっちで開けます」

由衣が青い顔でうなずく。真琴も立ち上がったが、その瞬間、足の裏が妙に重かった。嫌な感じが、さっきまでの比ではない。玄関へ向かう数歩の間にも、胸の奥で何かがひどく詰まっていく。

廊下へ出る。共用灯の白い明かりが床に落ちていて、さっきと同じ景色のはずなのに、空気だけが違った。真琴は問題の空室の前まで来たところで、ぴたりと足が止まった。

吸い込んだ息が、途中で引っかかる。

喉の奥が細くなる。胸が圧迫される。ここを開けたら駄目だ、と体が先に言っているのに、理由が何もわからない。目の前のドアは閉まっているだけで、そこに手を伸ばせば済むはずなのに、その手が出ない。

「朝倉さん」

黒瀬が振り返る。真琴は返事をしようとして、うまく声にならなかった。

「……ここ」
「はい」
「嫌です」

子どもみたいな言い方だ、と自分でも思った。けれど他に表現がなかった。

「開けたくないです。ここ」

黒瀬は笑わなかった。怪訝な顔もしない。ただ、真琴の呼吸が浅くなっているのを見て、少しだけ目を細めた。

「怖いから、ですか」
「違います」

違う、はずだ。怖いだけならまだわかる。けれどこれは、もっと説明しづらい。

「……なんか、まだ終わってない感じがするんです」

言った途端、その表現がいちばん近いとわかった。ここは空室のはずなのに、何も終わっていない。閉めたから終わり、退去したから終わり、死んだから終わり、そういうもの全部を無視して、まだ何かがここに引っかかったままになっている。

黒瀬は数秒だけ真琴を見た。それから小さくうなずく。

「だったら、なおさら確認します」
「え」
「終わってないものを、そのままにはできないでしょう」

低い声でそう言って、彼は真琴の前へ半歩出た。鍵を差し込む手元に迷いはない。かちゃり、と金属音がして、ドアが開く。

真琴は息を止めた。

室内は暗い。黒瀬が壁のスイッチを入れると、白い蛍光灯が少し遅れて点いた。拍子抜けするほど普通の空室だった。原状回復は済んでいるらしく、床も壁もきれいに見える。家具もない。人の姿も、当然ない。

それでも真琴はすぐには中へ入れなかった。玄関の敷居をまたぐ瞬間だけ、どうしても体がためらう。胸のつかえは消えていない。むしろ、部屋の中に入るほど「誰かがずっと外を気にしていた」みたいな落ち着かなさが濃くなる。

黒瀬が先に進み、窓、収納、ユニットバスを順に確認していく。真琴も遅れて部屋へ入った。入ってしまえば派手な何かが起きるわけではない。なのに、カーテンレールのそばに立つと、なぜかひどく気疲れした。外の様子を見たいのに見たくない、その矛盾した感じが体に残っている。

「誰か、いた形跡は」

真琴がそう訊くと、黒瀬はベランダ側の窓を指先で示した。

「今この部屋にいた感じはありません。ただ」
「ただ?」
「これ、見てください」

近づくと、窓の鍵の周囲に細かな擦れ傷があった。古い傷とも違う。真琴がよく見ると、サッシの端にも新しそうな白い擦れがある。

「工具か何かで、無理に触った跡です」
「外から?」
「可能性はあります」

黒瀬が窓を少し開け、ベランダへ出た。真琴も続く。二階の狭いベランダの向こうには、隣家の低い屋根と、敷地境のブロック塀。それ自体は珍しくない景色だ。けれど、横を見れば、配管と室外機と外壁の凹凸が、慣れた人間なら足場にできそうな形で並んでいる。

黒瀬は身を乗り出さず、視線だけでルートをなぞった。

「上手くやれば、下から来られますね」
「そんな」
「宮坂さんの部屋を確認するくらいなら十分です」

真琴はぞっとした。幽霊より、そちらの方がよほど現実的で嫌だった。白い壁の向こうから見られている感じ。起きているか確かめられている感じ。生活の中へ、知らない誰かの都合だけが入り込んでくる。

部屋へ戻ると、真琴はふとベランダ側の壁際で足を止めた。そこだけ、空気が少し張っている。誰かが長い時間そこで気配を殺していたような、落ち着かなさ。前の住人も、ここで何度も外を気にしたのだろうか。そう思った瞬間、喉がまた少し狭くなる。

「朝倉さん」

黒瀬が呼ぶ。今度はさっきより少し近い声だった。

「大丈夫ですか」
「……大丈夫じゃない、かもしれません」
「でしょうね」
「否定しないんですね」
「顔見ればわかります」

真琴は少しだけ苦笑した。妙な場面だった。気味の悪い空室で、知らない誰かの侵入経路を確かめながら、そんなやり取りをしている。

「心霊とか、そういうのだと思いますか」

真琴が尋ねると、黒瀬は少し考えたあと、肩をすくめた。

「知りません」
「きっぱりですね」
「ただ」

黒瀬は、擦れた窓枠にもう一度目をやった。

「誰かが人を怯えさせてる感じはあります」

その言葉が、真琴の胸にすとんと落ちた。全部を説明してくれる答えではない。けれど、今ここにある嫌さを、変なもの扱いせずに拾ってくれた言葉だった。

部屋を出て鍵をかける。廊下の空気に戻った途端、真琴はやっと深く息を吸えた。知らないうちに相当浅くなっていたらしい。

由衣の部屋へ戻ると、彼女は立ったまま玄関の方を見ていた。二人の顔を見た瞬間、少しだけ力が抜けたように肩が落ちる。

「何か……いましたか」
「今この部屋に、という意味ならいません」

黒瀬がそう前置きしてから、簡潔に状況を説明する。由衣の顔色は悪いままだったが、それでも「何もわからない」ままではなくなったことで、表情に少しだけ輪郭が戻った気がした。

「じゃあ、やっぱり誰かが」
「その可能性があります。まだ断定はしませんが、設備不良や故障だけで片づけるのは危ないです」
「……管理会社、気のせいだって」
「気のせいにしておいた方が楽な話だったんでしょう」

珍しく、黒瀬の声が少し硬かった。由衣は黙ってうなずく。

帰る前、真琴は由衣に「今夜はできれば一人にならないでください」と伝えた。友人でも実家でもいい、無理ならホテルでも、と。由衣は迷っていたが、最後には姉へ連絡してみますと言った。その返事に、真琴は少しだけ安堵する。

アパートを出ると、外の空気は思ったより冷たかった。深夜の静けさの中、遠くで新聞配達のバイクの音がする。現実は何も変わらない顔をして続いている。

駅へ向かう途中、真琴はようやく口を開いた。

「さっきの部屋、変でした」
「そうでしょうね」
「そういう意味じゃなくて」

黒瀬は歩幅を少しだけ緩めた。

「どう変でした」
「……見張られてた感じがしました。ずっと。前の住人が、じゃなくて、その部屋自体がそういう空気を覚えてるみたいな」
「空気が覚えてる」
「変な言い方なのはわかってます」
「いえ」

黒瀬は否定しなかった。

「そういう言い方しかできないもの、ありますから」

真琴は少しだけ目を見開いた。この人は、本当に最初から何でも信じるわけではない。けれど切り捨てもしない。そこが不思議だった。

「明日、前の住人の周辺をもう少し洗います。元交際相手がいたらしいので」
「交際相手」
「事故のあともこの辺りに出入りしてた記録が少しあります」
「それ、かなり嫌ですね」
「ええ。かなり」

黒瀬は短く答えたあと、アパートの方を一度だけ振り返った。

「侵入経路があるなら、また来る可能性もあります」
「……宮坂さん、大丈夫でしょうか」
「だから今夜は移動してもらいます」

それから数歩、無言で歩いた。真琴はようやく自分の指先の冷たさが戻ってきたのを感じる。さっきまでの息苦しさは薄れていたが、完全には消えていなかった。

終わっていない。

あの部屋の前で感じた言葉が、まだ胸の底に残っている。

空室なのに終わっていない。前の住人が死んで、今の住人が怯えて、それでもなお向こう側には確認するような気配が残っている。そこまできて、やっと真琴は、この部署に来たのが単なる厄介払いだけでは済まないかもしれないと思い始めていた。

見ないふりをされたものは、消えるのではなく、ただ残る。

たぶん、あの部屋みたいに。
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