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第29話 母の陳述
母の陳述書が届いたのは、その日の夕刻だった。
監察府の封筒に入れ替えられた写しは、机の上でやけに白く見えた。
私はそれを手に取った瞬間、少しだけ嫌な予感がした。予感というより、もう分かっていたのかもしれない。母が「公開の場では否定するかもしれない」と言った時点で、その“かもしれない”はほとんど決まっていたのだと。
「読むか」
向かいで帳簿の整理をしていたアルヴェインが、顔も上げずに言う。
「読まなければなりませんか」
「ならない」
一拍。
「だが、読まないまま当日を迎える方が面倒だ」
それは、慰めにはならない言い方だった。
けれどその通りでもある。
私は小さく息を吐き、封を切った。
文面は、母らしいほど母らしかった。
『文例箱は家内における礼状・挨拶文の参考資料として保管していたものであり、特定個人を陥れる目的で管理していた事実はない』
『娘リュシエンヌの清書見本が含まれていたのは、字が整っていたため、家内の文例として便宜的に用いていただけである』
『書記侍女の練習紙についても、礼状や断り文の筆致を整えるための通常業務の範囲と認識している』
そこで一度、私は目を閉じそうになった。
苦しい。
けれどまだ、ここまでは想定の範囲だった。
想定していたから痛くない、という意味ではない。ただ、母ならこう書くだろうという文章の形そのものは、もう読めてしまう。
問題は、その次だった。
『なお、長女リュシエンヌは当時、婚約問題と家内不和により強い心理的負荷を受けており、家内の些細な動きを自分への敵意として受け取りやすい状態にあった可能性がある』
そこまで読んだ瞬間、胸の奥がひどく静かになった。
敵意として受け取りやすい状態。
つまり母は、公の場で私を「傷ついていた娘」ではなく、「感情で物を見る娘」として置くつもりなのだ。
全面的に嘘ではないから、なおさら厄介だった。
私は実際に傷ついていたし、混乱もしていた。だがその事実を、母は“だから証言の精度に疑いがある”方へ使ってくる。
「……見事ですね」
自分でも驚くほど乾いた声が出た。
アルヴェインがようやく目を上げる。
「どこが」
「全部です」
私は紙を机へ置いた。
「嘘はなるべく少なく、でも意味はきちんとずらしている」
一拍。
「私の動揺まで、私を崩す材料に使うのですね」
アルヴェインは手を伸ばした。
「見せろ」
私は母の陳述書を渡す。
彼はざっと目を走らせ、表情を変えないまま紙を戻した。
「予想どおりだ」
「そうですね」
「傷ついたか」
その問いに、私は少しだけ黙った。
傷ついた。
もちろん、そうだ。
でも、それだけではない。どこかで、ああやっぱり、とも思っている。母は最後まで母のやり方をやめないのだと、文章になって初めて確定しただけだ。
「……はい」
私は正直に答えた。
「でも、それ以上に」
自分でも少し意外だった。
「ようやく、覚悟が決まった気がします」
アルヴェインがわずかに目を細める。
「何の」
「お母様は、公開の場で私を守らない」
私ははっきり言った。
「そこまではっきりしたので」
それは、たぶん諦めに近い。
けれど、ただの諦めではなかった。曖昧な期待が切れた分、次に何をすべきかだけが残っている感覚だ。
「なら書け」
アルヴェインは短く言った。
「反論を」
私は思わず顔を上げた。
「今すぐ、ですか」
「今のうちがいい」
「……本当に容赦がありませんね」
「知っている」
そういうところだ。
少しは時間を置いてもいいのでは、と思う。けれど同時に、今こうして形へ変えないと、私はまた母の文章の巧さに飲まれてしまうのも分かる。
私は新しい紙を引き寄せた。
母は、私を感情的な娘として置こうとしている。
なら私は、感情を消すのではなく、感情があっても事実は変わらないと示さなければならない。
そう頭では分かるのに、最初の一行がうまく出てこない。
『母は嘘をついている』
違う。
それでは弱い。感情だけが先に立つ。
『母の認識は事実と異なる』
もっと冷たい。
でも、冷たすぎる気もする。
私はペン先を止めた。
「進まないな」
アルヴェインが言う。
「母相手ですから」
「関係ない」
「関係あります」
思わず少し強い声が出た。
「相手が誰でも同じように書けるほど、私はまだ綺麗に割り切れておりません」
アルヴェインはそれを咎めなかった。
ただ、机のこちら側へ回ってくる。
私の真横ではなく、少し斜め後ろへ立つ。その距離が絶妙だった。近すぎれば息苦しい。遠ければ放り出された気がする。そうならない場所に、いつもこの人は立つ。
「見せろ」
私は書きかけの紙を差し出した。
彼は数秒だけ目を通し、あっさり言う。
「弱い」
「でしょうね」
「母君を守りながら、自分だけは誤解されていないと言いたがっている文だ」
胸の奥が、ひどく痛いところを突かれて冷えた。
「そんなつもりでは」
「つもりかどうかはどうでもいい」
低い声だった。
「公開の場では、そう読まれる」
私は紙を取り返すようにして持ち直した。
悔しい。悔しいが、たしかにそうだった。
今の文は、母を悪く言いたくない気持ちと、自分だけは守りたい気持ちが中途半端に混ざっている。
それではどちらも残らない。
「……では、どう書けば」
気づけば、そう聞いていた。
アルヴェインは少しだけ沈黙した。
やがて、私の書きかけを指先で示す。
「母ではなく、陳述書を相手にしろ」
「陳述書を」
「母君の心情を説明するな。文章のどこが、何をずらしているかだけを書け」
一拍。
「“敵意として受け取りやすい状態”という記述があるなら、それがなぜ事実の精度を否定する根拠にならないかを示せ」
私はその言葉を、しばらく頭の中で反芻した。
母ではなく、陳述書。
たしかにそうだ。
今の私は、まだ母に傷ついた娘のまま紙へ向かっていた。だから文章が揺れる。けれど公の場で必要なのは、母の娘として返事を書くことではない。提出された陳述のどこが事実と違うかを示すことだ。
「……なるほど」
小さく呟くと、アルヴェインは短く言う。
「遅い」
「今それを仰いますか」
「分かったならいい」
相変わらずだ。
でも、その相変わらずさに少しだけ助かっている自分がいる。
私は新しい紙を取り出し、最初から書き直した。
『伯爵夫人陳述書における「家内参考資料としての便宜的利用」という表現は、事前提示用文書の準備、書記侍女による筆跡練習、外套内ポケット増設等の個別行為を説明しきれない』
今度は、少しだけ手が動く。
次に、私は母の「感情的に受け取りやすい状態」という記述へ触れた。
『当時私が精神的負荷を受けていたことは否定しない。しかし、その事実は、文例箱三番の持ち出し記録、書記侍女の練習紙、元針子マルタの供述、外套改造の記録という客観的要素を否定する理由にはならない』
そこまで書いて、私はようやく少しだけ息を吐けた。
横からアルヴェインが見ているのが分かる。
見ているが、口は挟まない。
今の私は、ちゃんと陳述書へ向かえていると判断したのだろう。
「……閣下」
「何だ」
「先ほど、私の文が弱いと仰いましたね」
「ああ」
「今は」
自分でも少しだけ緊張しながら問う。
「前よりは、まともでしょうか」
アルヴェインは紙へ視線を落とし、数秒だけ黙った。
それから、いつもよりほんの少しだけ低い声で言う。
「君の文になった」
その一言に、胸の奥が小さく鳴った。
褒められた、とは少し違う。
でも今の私には、それが一番深く残る言い方だった。
君の文。
家のために整えた文ではなく。
母を庇いながら自分を守る文でもなく。
ちゃんと、自分の名で出す文になったと。
「……そうですか」
それだけ言うのが精一杯だった。
しばらくして、正式日程表が届いた。
公開再審は三日後。
証言順も記されている。
一番上にある名前を見た瞬間、私は小さく息を止めた。
『第一証言者 ミレイユ・ヴァレール伯爵夫人』
母が先だ。
つまり私は、公開の場で、まず母が私をどう否定するかを聞いた上で、その後に立つことになる。
「……随分と」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
「丁寧にえぐってくださるのですね、監察府は」
「順序としては妥当だ」
セイルズが書類束を整えながら言う。
「母君の陳述がどこまで通るか、そのあとで娘であるあなたがどう返すか」
一拍。
「見物する側には、かなり分かりやすい構図です」
見物。
その言葉はひどく冷たい。だが、まったくの間違いでもないのだろう。公開の場とは、そういうものだ。
私は母の名を見つめたまま、少しだけ唇を引き結ぶ。
怖い。
もちろん怖い。
でも、ここまで来て逃げたいとは思わなかった。
母が何を言うかは、もうある程度想像がつく。
私は感情的で、誤解しやすく、傷ついていた娘。
家の中の文例や帳面を、自分への敵意として受け取ってしまった娘。
それを、私は公の場で聞くことになる。
「……閣下」
私は日程表から顔を上げた。
「母が先です」
「そうだ」
「聞いたあとで、私はちゃんと立てるでしょうか」
アルヴェインはすぐには答えなかった。
その沈黙は、いい加減な慰めを選ばないための間だと、もう知っている。
「立てるかどうかではない」
やがて彼は言う。
「立つ」
短い。
でも、その短さが今はありがたい。
「命令ですか」
「確認だ」
一拍。
「君は、もうそこまで来ている」
その言葉に、私はまた少しだけ息を呑んだ。
怖さは消えない。
消えないのに、確かにもう、前みたいに“黙る方が楽”ではないのだ。
私は日程表を机へ置き、母の名の下に自分の名があるのをもう一度見る。
『第二証言者 リュシエンヌ・ヴァレール』
母の後。
私の番。
逃げ場のない並びだ。
でも同時に、もう隠しようもない並びでもある。
「……はい」
今度の返事は、少しだけ掠れていても、自分のものだった。
母がどんな言葉で私を否定するのか。
それを聞いたあとで、私は自分の名のまま立てるのか。
答えは、三日後にしか出ない。
けれど、その答えをもう私は避けないのだと、それだけは分かっていた。
監察府の封筒に入れ替えられた写しは、机の上でやけに白く見えた。
私はそれを手に取った瞬間、少しだけ嫌な予感がした。予感というより、もう分かっていたのかもしれない。母が「公開の場では否定するかもしれない」と言った時点で、その“かもしれない”はほとんど決まっていたのだと。
「読むか」
向かいで帳簿の整理をしていたアルヴェインが、顔も上げずに言う。
「読まなければなりませんか」
「ならない」
一拍。
「だが、読まないまま当日を迎える方が面倒だ」
それは、慰めにはならない言い方だった。
けれどその通りでもある。
私は小さく息を吐き、封を切った。
文面は、母らしいほど母らしかった。
『文例箱は家内における礼状・挨拶文の参考資料として保管していたものであり、特定個人を陥れる目的で管理していた事実はない』
『娘リュシエンヌの清書見本が含まれていたのは、字が整っていたため、家内の文例として便宜的に用いていただけである』
『書記侍女の練習紙についても、礼状や断り文の筆致を整えるための通常業務の範囲と認識している』
そこで一度、私は目を閉じそうになった。
苦しい。
けれどまだ、ここまでは想定の範囲だった。
想定していたから痛くない、という意味ではない。ただ、母ならこう書くだろうという文章の形そのものは、もう読めてしまう。
問題は、その次だった。
『なお、長女リュシエンヌは当時、婚約問題と家内不和により強い心理的負荷を受けており、家内の些細な動きを自分への敵意として受け取りやすい状態にあった可能性がある』
そこまで読んだ瞬間、胸の奥がひどく静かになった。
敵意として受け取りやすい状態。
つまり母は、公の場で私を「傷ついていた娘」ではなく、「感情で物を見る娘」として置くつもりなのだ。
全面的に嘘ではないから、なおさら厄介だった。
私は実際に傷ついていたし、混乱もしていた。だがその事実を、母は“だから証言の精度に疑いがある”方へ使ってくる。
「……見事ですね」
自分でも驚くほど乾いた声が出た。
アルヴェインがようやく目を上げる。
「どこが」
「全部です」
私は紙を机へ置いた。
「嘘はなるべく少なく、でも意味はきちんとずらしている」
一拍。
「私の動揺まで、私を崩す材料に使うのですね」
アルヴェインは手を伸ばした。
「見せろ」
私は母の陳述書を渡す。
彼はざっと目を走らせ、表情を変えないまま紙を戻した。
「予想どおりだ」
「そうですね」
「傷ついたか」
その問いに、私は少しだけ黙った。
傷ついた。
もちろん、そうだ。
でも、それだけではない。どこかで、ああやっぱり、とも思っている。母は最後まで母のやり方をやめないのだと、文章になって初めて確定しただけだ。
「……はい」
私は正直に答えた。
「でも、それ以上に」
自分でも少し意外だった。
「ようやく、覚悟が決まった気がします」
アルヴェインがわずかに目を細める。
「何の」
「お母様は、公開の場で私を守らない」
私ははっきり言った。
「そこまではっきりしたので」
それは、たぶん諦めに近い。
けれど、ただの諦めではなかった。曖昧な期待が切れた分、次に何をすべきかだけが残っている感覚だ。
「なら書け」
アルヴェインは短く言った。
「反論を」
私は思わず顔を上げた。
「今すぐ、ですか」
「今のうちがいい」
「……本当に容赦がありませんね」
「知っている」
そういうところだ。
少しは時間を置いてもいいのでは、と思う。けれど同時に、今こうして形へ変えないと、私はまた母の文章の巧さに飲まれてしまうのも分かる。
私は新しい紙を引き寄せた。
母は、私を感情的な娘として置こうとしている。
なら私は、感情を消すのではなく、感情があっても事実は変わらないと示さなければならない。
そう頭では分かるのに、最初の一行がうまく出てこない。
『母は嘘をついている』
違う。
それでは弱い。感情だけが先に立つ。
『母の認識は事実と異なる』
もっと冷たい。
でも、冷たすぎる気もする。
私はペン先を止めた。
「進まないな」
アルヴェインが言う。
「母相手ですから」
「関係ない」
「関係あります」
思わず少し強い声が出た。
「相手が誰でも同じように書けるほど、私はまだ綺麗に割り切れておりません」
アルヴェインはそれを咎めなかった。
ただ、机のこちら側へ回ってくる。
私の真横ではなく、少し斜め後ろへ立つ。その距離が絶妙だった。近すぎれば息苦しい。遠ければ放り出された気がする。そうならない場所に、いつもこの人は立つ。
「見せろ」
私は書きかけの紙を差し出した。
彼は数秒だけ目を通し、あっさり言う。
「弱い」
「でしょうね」
「母君を守りながら、自分だけは誤解されていないと言いたがっている文だ」
胸の奥が、ひどく痛いところを突かれて冷えた。
「そんなつもりでは」
「つもりかどうかはどうでもいい」
低い声だった。
「公開の場では、そう読まれる」
私は紙を取り返すようにして持ち直した。
悔しい。悔しいが、たしかにそうだった。
今の文は、母を悪く言いたくない気持ちと、自分だけは守りたい気持ちが中途半端に混ざっている。
それではどちらも残らない。
「……では、どう書けば」
気づけば、そう聞いていた。
アルヴェインは少しだけ沈黙した。
やがて、私の書きかけを指先で示す。
「母ではなく、陳述書を相手にしろ」
「陳述書を」
「母君の心情を説明するな。文章のどこが、何をずらしているかだけを書け」
一拍。
「“敵意として受け取りやすい状態”という記述があるなら、それがなぜ事実の精度を否定する根拠にならないかを示せ」
私はその言葉を、しばらく頭の中で反芻した。
母ではなく、陳述書。
たしかにそうだ。
今の私は、まだ母に傷ついた娘のまま紙へ向かっていた。だから文章が揺れる。けれど公の場で必要なのは、母の娘として返事を書くことではない。提出された陳述のどこが事実と違うかを示すことだ。
「……なるほど」
小さく呟くと、アルヴェインは短く言う。
「遅い」
「今それを仰いますか」
「分かったならいい」
相変わらずだ。
でも、その相変わらずさに少しだけ助かっている自分がいる。
私は新しい紙を取り出し、最初から書き直した。
『伯爵夫人陳述書における「家内参考資料としての便宜的利用」という表現は、事前提示用文書の準備、書記侍女による筆跡練習、外套内ポケット増設等の個別行為を説明しきれない』
今度は、少しだけ手が動く。
次に、私は母の「感情的に受け取りやすい状態」という記述へ触れた。
『当時私が精神的負荷を受けていたことは否定しない。しかし、その事実は、文例箱三番の持ち出し記録、書記侍女の練習紙、元針子マルタの供述、外套改造の記録という客観的要素を否定する理由にはならない』
そこまで書いて、私はようやく少しだけ息を吐けた。
横からアルヴェインが見ているのが分かる。
見ているが、口は挟まない。
今の私は、ちゃんと陳述書へ向かえていると判断したのだろう。
「……閣下」
「何だ」
「先ほど、私の文が弱いと仰いましたね」
「ああ」
「今は」
自分でも少しだけ緊張しながら問う。
「前よりは、まともでしょうか」
アルヴェインは紙へ視線を落とし、数秒だけ黙った。
それから、いつもよりほんの少しだけ低い声で言う。
「君の文になった」
その一言に、胸の奥が小さく鳴った。
褒められた、とは少し違う。
でも今の私には、それが一番深く残る言い方だった。
君の文。
家のために整えた文ではなく。
母を庇いながら自分を守る文でもなく。
ちゃんと、自分の名で出す文になったと。
「……そうですか」
それだけ言うのが精一杯だった。
しばらくして、正式日程表が届いた。
公開再審は三日後。
証言順も記されている。
一番上にある名前を見た瞬間、私は小さく息を止めた。
『第一証言者 ミレイユ・ヴァレール伯爵夫人』
母が先だ。
つまり私は、公開の場で、まず母が私をどう否定するかを聞いた上で、その後に立つことになる。
「……随分と」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
「丁寧にえぐってくださるのですね、監察府は」
「順序としては妥当だ」
セイルズが書類束を整えながら言う。
「母君の陳述がどこまで通るか、そのあとで娘であるあなたがどう返すか」
一拍。
「見物する側には、かなり分かりやすい構図です」
見物。
その言葉はひどく冷たい。だが、まったくの間違いでもないのだろう。公開の場とは、そういうものだ。
私は母の名を見つめたまま、少しだけ唇を引き結ぶ。
怖い。
もちろん怖い。
でも、ここまで来て逃げたいとは思わなかった。
母が何を言うかは、もうある程度想像がつく。
私は感情的で、誤解しやすく、傷ついていた娘。
家の中の文例や帳面を、自分への敵意として受け取ってしまった娘。
それを、私は公の場で聞くことになる。
「……閣下」
私は日程表から顔を上げた。
「母が先です」
「そうだ」
「聞いたあとで、私はちゃんと立てるでしょうか」
アルヴェインはすぐには答えなかった。
その沈黙は、いい加減な慰めを選ばないための間だと、もう知っている。
「立てるかどうかではない」
やがて彼は言う。
「立つ」
短い。
でも、その短さが今はありがたい。
「命令ですか」
「確認だ」
一拍。
「君は、もうそこまで来ている」
その言葉に、私はまた少しだけ息を呑んだ。
怖さは消えない。
消えないのに、確かにもう、前みたいに“黙る方が楽”ではないのだ。
私は日程表を机へ置き、母の名の下に自分の名があるのをもう一度見る。
『第二証言者 リュシエンヌ・ヴァレール』
母の後。
私の番。
逃げ場のない並びだ。
でも同時に、もう隠しようもない並びでもある。
「……はい」
今度の返事は、少しだけ掠れていても、自分のものだった。
母がどんな言葉で私を否定するのか。
それを聞いたあとで、私は自分の名のまま立てるのか。
答えは、三日後にしか出ない。
けれど、その答えをもう私は避けないのだと、それだけは分かっていた。
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