39 / 40
第39話 新しい鍵
最終勧告の読み上げは、驚くほど事務的に始まった。
公開再審の最後に用意された小広間は、昨日までの聴取室よりも広いのに、空気はむしろ冷たく感じる。人が多いからだろう。役人、記録係、関係家人、立ち会いの貴族数名。誰もが声を潜めているのに、視線だけが静かに動いていた。
私は前列の端に座り、正面の机だけを見ていた。
父は私の斜め向かい。
母はその隣。
フィオナは母のさらに外側で、膝の上にぎゅっと手を重ねている。
昨日の証言で、もう大きな流れは決まっている。
そう分かっていても、こうして“最終”という言葉のつく場に座ると、胸の奥が少しだけざわついた。
「顔色は悪くない」
低い声がして、私はほんの少しだけ横を向いた。
アルヴェインが立ったまま、こちらを見ている。
いつも通りの声だ。慰めでも、励ましでもない。ただ確認するような言い方。
「良いと仰ってくださるのですね」
「事実だ」
「珍しいこともあるものです」
「今のうちに慣れておけ」
それだけ言って、彼は視線を正面へ戻した。
私は小さく息を吐く。
少しだけ、肩の力が抜けた。
審査役が書面を開く。
「ヴァレール伯爵家関連再審理案件について、暫定勧告および当面の取扱いを通達する」
感情のない声だった。
「各証言、補足供述、提出物証、家内会計資料、公開再審での陳述内容を総合した結果――」
紙の音が響く。
「第一に、長女リュシエンヌ・ヴァレールに対して夜会当日に示された修道院送致提案、家外隔離措置、名誉失墜を前提とした家内処分は、正当性を欠くものとして正式に無効とする」
胸の奥が、静かに熱くなった。
昨日も聞いた。
でも、今日は違う。暫定ではなく、“正式に無効”と明言されたのだ。
私は膝の上で手をほどき、ゆっくり息を吸う。
「第二に、文例箱三番の使用、筆跡練習、外套改造、支出振替等については、長女本人の明示同意なきまま家内都合により進められた蓋然性が高い」
一拍。
「よって、伯爵家当主アーネスト・ヴァレール、伯爵夫人ミレイユ・ヴァレールに対し、長女名義・筆跡・家内権限の流用停止と、公的訂正文提出を勧告する」
場が小さく揺れる。
父の顔色が変わる。
母は表情を崩さない。崩さないが、その指先だけが膝の上で固く組まれていた。
訂正文。
つまり、私が一方的に“悪女”だったという見え方を、家の側が公に訂正しなければならないということだ。
「第三に」
審査役の声は冷たいままだ。
「長女リュシエンヌ・ヴァレールについて、伯爵家からの家内命令・居住指示・婚約再調整等への介入を当面停止する」
一拍。
「本人意思に基づく独立判断を優先し、家外立場における仮居所および職務席の確保を認める」
私はそこで初めて、意味がすぐには飲み込めなかった。
家外立場。
仮居所。
職務席。
頭の中で一語ずつほどけていく。
もう、戻る娘として処理されるのではない。外へ出されたのでもない。家の外に立場を持つ者として扱われるのだ。
フィオナが小さく息を呑む。
母が目を伏せ、父が声を上げかける。
「異議がある」
低い声だった。
「伯爵家の娘である以上、居所と監督は当家の権限――」
「停止と告げた」
審査役は切った。
「少なくとも今は、そうではない」
父はそれ以上言えなかった。
その沈黙を見た瞬間、私はようやく、少しだけ現実味を覚えた。
父が決めるのではない。
母が整えるのでもない。
今の私は、本当にその外へ出されている。
審査役は最後の一枚を持ち上げる。
「第四に、当面の職務席について」
一拍。
「監察府付臨時補佐リュシエンヌ・ヴァレールの配置を承認する」
場内の空気が、そこで少しだけ変わった。
知っていたはずなのに、こうして公の言葉になると意味が違う。
私はもう、保護されているだけの娘ではない。
ここに席がある者として承認されたのだ。
フィオナが、ひどく信じられないものを見るようにこちらを見た。
母もまた、静かに顔を上げる。
父の目にだけ、はっきりとした苛立ちが浮かんでいた。
「以上」
審査役が書面を閉じる。
「最終処分文は後日送達する。本日はこれにて終了」
椅子が引かれる音が一斉に鳴る。
私はその場でしばらく立ち上がれなかった。
終わった。
いや、まだ全部は終わっていない。
でも、あの家へ戻される流れだけは、今ここで本当に切れた。
「……リュシエンヌ」
母の声だった。
私は顔を上げる。
母が立っている。父はまだ座ったままだ。フィオナは母の袖を握りしめていた。
「何でしょう」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
母は少しだけ迷ってから、言った。
「体を冷やさないように」
それだけだった。
私は何も言えなかった。
謝罪でもない。
説得でもない。
命令でもない。
母にできる最後の“母親らしい言葉”が、それだったのかもしれない。
胸の奥が少しだけ痛む。
けれど、それで戻ろうとは思わなかった。
「……はい」
私は短く答えた。
「お気遣いだけ、受け取ります」
母の目が、ほんのわずかに揺れる。
でも、私もそれ以上は何も言わなかった。
父は最後まで口を開かず、フィオナだけが何かを言いたげにこちらを見ていた。
でも、もうその視線に足は止まらない。
私はその場を離れた。
廊下へ出る。
冷たい空気が頬へ当たる。
「ちゃんと受け取ったな」
横でアルヴェインが言う。
「何をです」
「席をだ」
私は少しだけ笑いそうになった。
「閣下は、本当に」
「今さらだろう」
「ええ」
小さく頷く。
「今さらです」
監察府を出る頃には、空はすっかり夕色だった。
公爵家の馬車へ乗り込む。
けれど今日は、もう“公爵家へ帰る”感じではなかった。帰る場所を借りているのでも、保護されているのでもなく、ただ次の部屋へ向かうまでの移動に近い。
しばらく沈黙が続いたあと、私はふと聞いた。
「宿舎は」
「外郭棟だ」
アルヴェインが答える。
「広くはない」
「十分です」
「そうか」
それで会話は終わる。
でも、その短さが今はありがたかった。
外郭棟の廊下は静かだった。
高い建物ではない。石と木でできた、実務者向けの宿舎。華やかさとは無縁だが、清潔で、必要なものだけが揃っている。
案内された部屋の前で、下役が立ち止まる。
新しい鍵を差し出された時、私は一瞬だけ手を止めた。
「……どうぞ」
下役が言う。
私は鍵を受け取る。
昨日、伯爵家の部屋の鍵は返された。
今日、別の鍵が私の手にある。
たったそれだけのことなのに、胸の奥で何かが静かに鳴った。
「開けないのか」
後ろからアルヴェインが言う。
「……少しだけ」
私は小さく笑った。
「気持ちが追いつくまで」
「そうか」
相変わらず、変な急かし方はしない。
でも、置いてもいかない。
私は鍵を差し込み、ゆっくり回した。
部屋の中は、思っていたより明るかった。
狭いが、窓がある。小机、椅子、簡易の寝台、棚が一つ。昨日まで私が使っていたような飾りも鏡台もない。けれど、何もない分だけ、最初から誰かの色がついていない。
机の上には、すでに運び込まれていた私のトランクと、平たい箱が置かれていた。
そして、その隣に小さな封筒が一つ。
監察府の印。
私は部屋へ一歩入り、封筒を開ける。
『宿舎使用承認
使用者 リュシエンヌ・ヴァレール
期限 当面の間
備考 監察府付臨時補佐としての職務に従事すること』
正式な書式。
冷たい文字。
でも、その冷たさが妙にありがたかった。
誰かの情けで置かれているのではなく、ここにいる理由が紙にきちんと書かれているからだ。
「……部屋、ですね」
気づけば、そう呟いていた。
アルヴェインは扉の外側に立ったままだ。
中へは入ってこない。その距離が、この人らしい。
「そうだ」
「置かれる場所ではなく」
一拍。
「私が選んだ、部屋」
自分で言って、胸の奥が少しだけ熱くなる。
家を失った悲しみが消えたわけではない。でも、その悲しみと同時に、これは確かに自分で開けた部屋なのだと思えた。
「閣下」
私は振り返る。
「ありがとうございます」
そう言うと、アルヴェインは少しだけ目を細めた。
「礼は要らん」
「またそれを仰る」
「必要な席と部屋を出しただけだ」
「ええ」
私は頷く。
「だからこそ、です」
少しだけ沈黙が落ちる。
廊下の向こうでは、誰かの足音が遠く響いていた。
「明日から」
アルヴェインが言う。
「補佐として動く」
「はい」
「見られ方も変わる」
「分かっています」
私は机の上の木札を見る。
『監察府付 臨時補佐』
もう“伯爵家の気の毒な長女”だけではいられない。
その代わり、ここで働く者として見られるのだ。
「怖いか」
不意に問われて、私は少しだけ驚いた。
この人が、こういう聞き方をするのは珍しい。
「……はい」
正直に答える。
「でも、昨日までとは違います」
「何が」
「怖くても」
私はゆっくり言う。
「どこへ戻されるかではなく、どこへ立つかを考えていればいいので」
アルヴェインは何も言わなかった。
でも、その沈黙は前より少しだけ柔らかかった気がする。
「そうか」
やがて、それだけ言う。
私は部屋へもう一歩入り、机へ手を置いた。
冷たい木の感触が、妙に現実的だった。
振り返ると、アルヴェインはまだ扉の外に立っている。
入らないのに、去らない。
その立ち方に、胸の奥が少しだけざわつく。
「閣下」
「何だ」
「……今夜は」
言いかけて、自分でも少し困る。
何を言いたいのかが、うまく形にならない。
「いえ」
結局、私は小さく首を振った。
「おやすみなさい」
アルヴェインは一瞬だけ私を見て、それから短く頷いた。
「ああ」
一拍。
「明日、執務室へ来い」
「記録室ではなく?」
「そうだ」
それだけ言って、彼は踵を返す。
私はその背中を見送りながら、胸の奥がまた少しだけ鳴るのを感じた。
執務室へ来い。
仕事の話だ。
たぶんそうなのだろう。
でも、今までとは少しだけ意味が違う気がしてしまうのは、きっと私の考えすぎではない。
扉を閉める。
静かな部屋に、一人きりになる。
それなのに、不思議と孤独だけではなかった。
私は新しい鍵を机の上へ置き、窓の外の薄い夜色を見た。
帰る家はない。
けれど、帰る部屋は今ここにある。
そして明日、私は自分の足で執務室へ行くのだ。
そう思うと、胸の奥の痛みの中に、ほんの少しだけ違う熱が混じる気がした。
公開再審の最後に用意された小広間は、昨日までの聴取室よりも広いのに、空気はむしろ冷たく感じる。人が多いからだろう。役人、記録係、関係家人、立ち会いの貴族数名。誰もが声を潜めているのに、視線だけが静かに動いていた。
私は前列の端に座り、正面の机だけを見ていた。
父は私の斜め向かい。
母はその隣。
フィオナは母のさらに外側で、膝の上にぎゅっと手を重ねている。
昨日の証言で、もう大きな流れは決まっている。
そう分かっていても、こうして“最終”という言葉のつく場に座ると、胸の奥が少しだけざわついた。
「顔色は悪くない」
低い声がして、私はほんの少しだけ横を向いた。
アルヴェインが立ったまま、こちらを見ている。
いつも通りの声だ。慰めでも、励ましでもない。ただ確認するような言い方。
「良いと仰ってくださるのですね」
「事実だ」
「珍しいこともあるものです」
「今のうちに慣れておけ」
それだけ言って、彼は視線を正面へ戻した。
私は小さく息を吐く。
少しだけ、肩の力が抜けた。
審査役が書面を開く。
「ヴァレール伯爵家関連再審理案件について、暫定勧告および当面の取扱いを通達する」
感情のない声だった。
「各証言、補足供述、提出物証、家内会計資料、公開再審での陳述内容を総合した結果――」
紙の音が響く。
「第一に、長女リュシエンヌ・ヴァレールに対して夜会当日に示された修道院送致提案、家外隔離措置、名誉失墜を前提とした家内処分は、正当性を欠くものとして正式に無効とする」
胸の奥が、静かに熱くなった。
昨日も聞いた。
でも、今日は違う。暫定ではなく、“正式に無効”と明言されたのだ。
私は膝の上で手をほどき、ゆっくり息を吸う。
「第二に、文例箱三番の使用、筆跡練習、外套改造、支出振替等については、長女本人の明示同意なきまま家内都合により進められた蓋然性が高い」
一拍。
「よって、伯爵家当主アーネスト・ヴァレール、伯爵夫人ミレイユ・ヴァレールに対し、長女名義・筆跡・家内権限の流用停止と、公的訂正文提出を勧告する」
場が小さく揺れる。
父の顔色が変わる。
母は表情を崩さない。崩さないが、その指先だけが膝の上で固く組まれていた。
訂正文。
つまり、私が一方的に“悪女”だったという見え方を、家の側が公に訂正しなければならないということだ。
「第三に」
審査役の声は冷たいままだ。
「長女リュシエンヌ・ヴァレールについて、伯爵家からの家内命令・居住指示・婚約再調整等への介入を当面停止する」
一拍。
「本人意思に基づく独立判断を優先し、家外立場における仮居所および職務席の確保を認める」
私はそこで初めて、意味がすぐには飲み込めなかった。
家外立場。
仮居所。
職務席。
頭の中で一語ずつほどけていく。
もう、戻る娘として処理されるのではない。外へ出されたのでもない。家の外に立場を持つ者として扱われるのだ。
フィオナが小さく息を呑む。
母が目を伏せ、父が声を上げかける。
「異議がある」
低い声だった。
「伯爵家の娘である以上、居所と監督は当家の権限――」
「停止と告げた」
審査役は切った。
「少なくとも今は、そうではない」
父はそれ以上言えなかった。
その沈黙を見た瞬間、私はようやく、少しだけ現実味を覚えた。
父が決めるのではない。
母が整えるのでもない。
今の私は、本当にその外へ出されている。
審査役は最後の一枚を持ち上げる。
「第四に、当面の職務席について」
一拍。
「監察府付臨時補佐リュシエンヌ・ヴァレールの配置を承認する」
場内の空気が、そこで少しだけ変わった。
知っていたはずなのに、こうして公の言葉になると意味が違う。
私はもう、保護されているだけの娘ではない。
ここに席がある者として承認されたのだ。
フィオナが、ひどく信じられないものを見るようにこちらを見た。
母もまた、静かに顔を上げる。
父の目にだけ、はっきりとした苛立ちが浮かんでいた。
「以上」
審査役が書面を閉じる。
「最終処分文は後日送達する。本日はこれにて終了」
椅子が引かれる音が一斉に鳴る。
私はその場でしばらく立ち上がれなかった。
終わった。
いや、まだ全部は終わっていない。
でも、あの家へ戻される流れだけは、今ここで本当に切れた。
「……リュシエンヌ」
母の声だった。
私は顔を上げる。
母が立っている。父はまだ座ったままだ。フィオナは母の袖を握りしめていた。
「何でしょう」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
母は少しだけ迷ってから、言った。
「体を冷やさないように」
それだけだった。
私は何も言えなかった。
謝罪でもない。
説得でもない。
命令でもない。
母にできる最後の“母親らしい言葉”が、それだったのかもしれない。
胸の奥が少しだけ痛む。
けれど、それで戻ろうとは思わなかった。
「……はい」
私は短く答えた。
「お気遣いだけ、受け取ります」
母の目が、ほんのわずかに揺れる。
でも、私もそれ以上は何も言わなかった。
父は最後まで口を開かず、フィオナだけが何かを言いたげにこちらを見ていた。
でも、もうその視線に足は止まらない。
私はその場を離れた。
廊下へ出る。
冷たい空気が頬へ当たる。
「ちゃんと受け取ったな」
横でアルヴェインが言う。
「何をです」
「席をだ」
私は少しだけ笑いそうになった。
「閣下は、本当に」
「今さらだろう」
「ええ」
小さく頷く。
「今さらです」
監察府を出る頃には、空はすっかり夕色だった。
公爵家の馬車へ乗り込む。
けれど今日は、もう“公爵家へ帰る”感じではなかった。帰る場所を借りているのでも、保護されているのでもなく、ただ次の部屋へ向かうまでの移動に近い。
しばらく沈黙が続いたあと、私はふと聞いた。
「宿舎は」
「外郭棟だ」
アルヴェインが答える。
「広くはない」
「十分です」
「そうか」
それで会話は終わる。
でも、その短さが今はありがたかった。
外郭棟の廊下は静かだった。
高い建物ではない。石と木でできた、実務者向けの宿舎。華やかさとは無縁だが、清潔で、必要なものだけが揃っている。
案内された部屋の前で、下役が立ち止まる。
新しい鍵を差し出された時、私は一瞬だけ手を止めた。
「……どうぞ」
下役が言う。
私は鍵を受け取る。
昨日、伯爵家の部屋の鍵は返された。
今日、別の鍵が私の手にある。
たったそれだけのことなのに、胸の奥で何かが静かに鳴った。
「開けないのか」
後ろからアルヴェインが言う。
「……少しだけ」
私は小さく笑った。
「気持ちが追いつくまで」
「そうか」
相変わらず、変な急かし方はしない。
でも、置いてもいかない。
私は鍵を差し込み、ゆっくり回した。
部屋の中は、思っていたより明るかった。
狭いが、窓がある。小机、椅子、簡易の寝台、棚が一つ。昨日まで私が使っていたような飾りも鏡台もない。けれど、何もない分だけ、最初から誰かの色がついていない。
机の上には、すでに運び込まれていた私のトランクと、平たい箱が置かれていた。
そして、その隣に小さな封筒が一つ。
監察府の印。
私は部屋へ一歩入り、封筒を開ける。
『宿舎使用承認
使用者 リュシエンヌ・ヴァレール
期限 当面の間
備考 監察府付臨時補佐としての職務に従事すること』
正式な書式。
冷たい文字。
でも、その冷たさが妙にありがたかった。
誰かの情けで置かれているのではなく、ここにいる理由が紙にきちんと書かれているからだ。
「……部屋、ですね」
気づけば、そう呟いていた。
アルヴェインは扉の外側に立ったままだ。
中へは入ってこない。その距離が、この人らしい。
「そうだ」
「置かれる場所ではなく」
一拍。
「私が選んだ、部屋」
自分で言って、胸の奥が少しだけ熱くなる。
家を失った悲しみが消えたわけではない。でも、その悲しみと同時に、これは確かに自分で開けた部屋なのだと思えた。
「閣下」
私は振り返る。
「ありがとうございます」
そう言うと、アルヴェインは少しだけ目を細めた。
「礼は要らん」
「またそれを仰る」
「必要な席と部屋を出しただけだ」
「ええ」
私は頷く。
「だからこそ、です」
少しだけ沈黙が落ちる。
廊下の向こうでは、誰かの足音が遠く響いていた。
「明日から」
アルヴェインが言う。
「補佐として動く」
「はい」
「見られ方も変わる」
「分かっています」
私は机の上の木札を見る。
『監察府付 臨時補佐』
もう“伯爵家の気の毒な長女”だけではいられない。
その代わり、ここで働く者として見られるのだ。
「怖いか」
不意に問われて、私は少しだけ驚いた。
この人が、こういう聞き方をするのは珍しい。
「……はい」
正直に答える。
「でも、昨日までとは違います」
「何が」
「怖くても」
私はゆっくり言う。
「どこへ戻されるかではなく、どこへ立つかを考えていればいいので」
アルヴェインは何も言わなかった。
でも、その沈黙は前より少しだけ柔らかかった気がする。
「そうか」
やがて、それだけ言う。
私は部屋へもう一歩入り、机へ手を置いた。
冷たい木の感触が、妙に現実的だった。
振り返ると、アルヴェインはまだ扉の外に立っている。
入らないのに、去らない。
その立ち方に、胸の奥が少しだけざわつく。
「閣下」
「何だ」
「……今夜は」
言いかけて、自分でも少し困る。
何を言いたいのかが、うまく形にならない。
「いえ」
結局、私は小さく首を振った。
「おやすみなさい」
アルヴェインは一瞬だけ私を見て、それから短く頷いた。
「ああ」
一拍。
「明日、執務室へ来い」
「記録室ではなく?」
「そうだ」
それだけ言って、彼は踵を返す。
私はその背中を見送りながら、胸の奥がまた少しだけ鳴るのを感じた。
執務室へ来い。
仕事の話だ。
たぶんそうなのだろう。
でも、今までとは少しだけ意味が違う気がしてしまうのは、きっと私の考えすぎではない。
扉を閉める。
静かな部屋に、一人きりになる。
それなのに、不思議と孤独だけではなかった。
私は新しい鍵を机の上へ置き、窓の外の薄い夜色を見た。
帰る家はない。
けれど、帰る部屋は今ここにある。
そして明日、私は自分の足で執務室へ行くのだ。
そう思うと、胸の奥の痛みの中に、ほんの少しだけ違う熱が混じる気がした。
あなたにおすすめの小説
幼馴染の生徒会長にポンコツ扱いされてフラれたので生徒会活動を手伝うのをやめたら全てがうまくいかなくなり幼馴染も病んだ
猫カレーฅ^•ω•^ฅ
恋愛
ずっと付き合っていると思っていた、幼馴染にある日別れを告げられた。
そこで気づいた主人公の幼馴染への依存ぶり。
たった一つボタンを掛け違えてしまったために、
最終的に学校を巻き込む大事件に発展していく。
主人公は幼馴染を取り戻すことが出来るのか!?
【完結】私はいてもいなくても同じなのですね ~三人姉妹の中でハズレの私~
紺青
恋愛
マルティナはスコールズ伯爵家の三姉妹の中でハズレの存在だ。才媛で美人な姉と愛嬌があり可愛い妹に挟まれた地味で不器用な次女として、家族の世話やフォローに振り回される生活を送っている。そんな自分を諦めて受け入れているマルティナの前に、マルティナの思い込みや常識を覆す存在が現れて―――家族にめぐまれなかったマルティナが、強引だけど優しいブラッドリーと出会って、少しずつ成長し、別離を経て、再生していく物語。
※三章まで上げて落とされる鬱展開続きます。
※因果応報はありますが、痛快爽快なざまぁはありません。
※なろうにも掲載しています。
【完結】物置小屋の魔法使いの娘~父の再婚相手と義妹に家を追い出され、婚約者には捨てられた。でも、私は……
buchi
恋愛
大公爵家の父が再婚して新しくやって来たのは、義母と義妹。当たり前のようにダーナの部屋を取り上げ、義妹のマチルダのものに。そして社交界への出入りを禁止し、館の隣の物置小屋に移動するよう命じた。ダーナは亡くなった母の血を受け継いで魔法が使えた。これまでは使う必要がなかった。だけど、汚い小屋に閉じ込められた時は、使用人がいるので自粛していた魔法力を存分に使った。魔法力のことは、母と母と同じ国から嫁いできた王妃様だけが知る秘密だった。
みすぼらしい物置小屋はパラダイスに。だけど、ある晩、王太子殿下のフィルがダーナを心配になってやって来て……
兄のお嫁さんに嫌がらせをされるので、全てを暴露しようと思います
きんもくせい
恋愛
リルベール侯爵家に嫁いできた子爵令嬢、ナタリーは、最初は純朴そうな少女だった。積極的に雑事をこなし、兄と仲睦まじく話す彼女は、徐々に家族に受け入れられ、気に入られていく。しかし、主人公のソフィアに対しては冷たく、嫌がらせばかりをしてくる。初めは些細なものだったが、それらのいじめは日々悪化していき、痺れを切らしたソフィアは、両家の食事会で……
お姉さまが家を出て行き、婚約者を譲られました
さこの
恋愛
姉は優しく美しい。姉の名前はアリシア私の名前はフェリシア
姉の婚約者は第三王子
お茶会をすると一緒に来てと言われる
アリシアは何かとフェリシアと第三王子を二人にしたがる
ある日姉が父に言った。
アリシアでもフェリシアでも婚約者がクリスタル伯爵家の娘ならどちらでも良いですよね?
バカな事を言うなと怒る父、次の日に姉が家を、出た
醜い私は妹の恋人に騙され恥をかかされたので、好きな人と旅立つことにしました
つばめ
恋愛
幼い頃に妹により火傷をおわされた私はとても醜い。だから両親は妹ばかりをかわいがってきた。伯爵家の長女だけれど、こんな私に婿は来てくれないと思い、領地運営を手伝っている。
けれど婚約者を見つけるデェビュタントに参加できるのは今年が最後。どうしようか迷っていると、公爵家の次男の男性と出会い、火傷痕なんて気にしないで参加しようと誘われる。思い切って参加すると、その男性はなんと妹をエスコートしてきて……どうやら妹の恋人だったらしく、周りからお前ごときが略奪できると思ったのかと責められる。
会場から逃げ出し失意のどん底の私は、当てもなく王都をさ迷った。ぼろぼろになり路地裏にうずくまっていると、小さい頃に虐げられていたのをかばってくれた、商家の男性が現れて……
妹が私の婚約者と結婚しちゃったもんだから、懲らしめたいの。いいでしょ?
百谷シカ
恋愛
「すまない、シビル。お前が目覚めるとは思わなかったんだ」
あのあと私は、一命を取り留めてから3週間寝ていたらしいのよ。
で、起きたらびっくり。妹のマーシアが私の婚約者と結婚してたの。
そんな話ある?
「我がフォレット家はもう結婚しかないんだ。わかってくれ、シビル」
たしかにうちは没落間近の田舎貴族よ。
あなたもウェイン伯爵令嬢だって打ち明けたら微妙な顔したわよね?
でも、だからって、国のために頑張った私を死んだ事にして結婚する?
「君の妹と、君の婚約者がね」
「そう。薄情でしょう?」
「ああ、由々しき事態だ。私になにをしてほしい?」
「ソーンダイク伯領を落として欲しいの」
イヴォン伯爵令息モーリス・ヨーク。
あのとき私が助けてあげたその命、ぜひ私のために燃やしてちょうだい。
====================
(他「エブリスタ」様に投稿)
妹が聖女の再来と呼ばれているようです
田尾風香
ファンタジー
ダンジョンのある辺境の地で回復術士として働いていたけど、父に呼び戻されてモンテリーノ学校に入学した。そこには、私の婚約者であるファルター殿下と、腹違いの妹であるピーアがいたんだけど。
「マレン・メクレンブルク! 貴様とは婚約破棄する!」
どうやらファルター殿下は、"低能"と呼ばれている私じゃなく、"聖女の再来"とまで呼ばれるくらいに成績の良い妹と婚約したいらしい。
それは別に構わない。国王陛下の裁定で無事に婚約破棄が成った直後、私に婚約を申し込んできたのは、辺境の地で一緒だったハインリヒ様だった。
戸惑う日々を送る私を余所に、事件が起こる。――学校に、ダンジョンが出現したのだった。
更新は不定期です。