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第1部_「触れないための規則(ルール)
第7話A:自戒
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やってしまった。 王都へと向かう揺れる馬車の中で、俺は何度目かも分からないため息を吐き出し、両手で顔を覆った。
窓の外を流れる冬枯れの景色など、少しも目に入らない。 網膜に焼き付いているのは、今朝のあの瞬間の光景だけだ。 俺が声を荒らげた瞬間の、ノア君の表情。 いつもの涼やかな瞳を大きく見開き、驚愕と、そして微かな恐怖に染まったあの顔。 彼女の手から乱暴にひったくったマフラーの感触が、今も消えない。
「……何をやっているんだ、俺は」
誰もいない車内で、自嘲の言葉が白く濁って虚空に消える。 最低だ。 本当に、最低の大人だ。
彼女に悪気など一ミリもなかったことは、痛いほど分かっている。 今日からの王都出張は冷え込む。だから、主人の体調を気遣って、暖かそうなマフラーを選んでくれた。それだけの、純粋な善意だったはずだ。使用人として、いや、共に暮らすパートナーとして、あまりにも正当で優しい気遣いだった。 それを俺は、まるで土足で心を踏み荒らされたかのように過剰に反応し、あろうことか怒鳴りつけたのだ。
『触るな!』
自分の口から出たとは思えないほど、余裕のない、悲鳴のような怒号だった。 彼女は何も悪くない。悪いのは、過去に囚われて一歩も動けずにいる俺のほうだ。
あのマフラーは、亡き妻・レティが遺した数少ない形見の一つだった。 まだ俺たちが結婚する前、俺が騎士団の遠征任務に就くと決まった時、彼女が何日も徹夜して編んでくれたものだ。 レティは手先が不器用だった。編み目は不揃いで、所々飛んでいるし、端の処理も甘い。市販品と比べれば、お世辞にも出来が良いとは言えない代物だ。 けれど、そこには彼女の「無事に帰ってきてほしい」という、祈りにも似た魔力が込められていた。魔法使いとしては三流だった彼女が、俺のためだけに紡いだ、世界で一番温かい守護結界。
妻が病で先立ってから数年。俺はそのマフラーを、一度も首に巻いていない。 巻けなかったのだ。 使うのが惜しいからではない。物理的な限界が来ていたからだ。 経年劣化による生地の傷み。そして、防虫香を焚いていても防ぎきれなかった虫食いの穴。 触れれば崩れてしまいそうなそのボロ布は、俺の寂しさそのものを映し出していた。
妻の記憶は、年々薄れていく。 笑顔も、声も、温もりも。時の流れは残酷ながら、少しずつ、けれど確実に削り取っていく。 それが怖くて、俺はこのボロボロのマフラーにしがみついている。誰にも触れさせず、光にも当てず、クローゼットの奥に「墓場」のように封じ込めて、時が止まっているフリをしていたのだ。
そこに、ノア君が触れた。 俺がパニックになったのは、彼女に対する怒りではない。 彼女の手に触れることで、マフラーが崩れてしまうのではないかという恐怖。そして何より、俺が目を逸らし続けてきた「朽ちていく思い出」を、白日の下に晒されることへの恥辱だった。
だが、そんなことは彼女には関係ない。 彼女からすれば、ただの理不尽な癇癪持ちの主人だ。 せっかく築き上げてきた信頼関係を、俺自身の手で粉々に砕いてしまった。
「……謝らないと」
俺は膝の上で拳を握りしめた。 今すぐに引き返して、彼女に頭を下げたい。 あれは君のせいじゃないんだと。俺の弱さのせいなんだと。 けれど、馬車は無情にも王都へと進み続ける。距離が開けば開くほど、謝罪の言葉は届きにくくなる。
彼女は賢い子だ。 もしかしたら、俺が帰る頃には、「こんな気難しい主人のもとでは働けません」と、荷物をまとめて出て行ってしまっているかもしれない。 そう考えた瞬間、朝食が自戒しろと言わんばかりに現世に戻ってこようとする。
いつの間にか、俺の生活の中心には彼女がいた。 朝、漂ってくるコーヒーの香り。 綺麗に磨かれた廊下。 無表情で、でも少し楽しそうに俺の話を聞いてくれる彼女の姿。 あの重厚なメイド服が立てる衣擦れの音さえ、今では俺にとって安らぎの象徴になっている。
失いたくない。 妻への未練とはまた違う、今の俺を生かしてくれている大切な光。 それを自ら吹き消そうとしてしまった愚かさに、俺は唇を噛んだ。
王都に着いたら、仕事を最短で終わらせよう。 同僚との酒席も全て断り、一分一秒でも早く帰ろう。 そして、もし彼女がまだ屋敷にいてくれたなら、その時は全てを話そう。 俺の女々しい過去も、あのマフラーの意味も。 カッコ悪くてもいい。元剣聖の威厳なんてどうでもいい。 ただ、彼女に許してほしい。
窓の外では、粉雪が舞い始めていた。 この雪が積もる頃、あの寒い屋敷で彼女はどうしているだろうか。 俺の心は、王都とは逆の方向にある、森の中の古びた家に置き去りになったままだった。
窓の外を流れる冬枯れの景色など、少しも目に入らない。 網膜に焼き付いているのは、今朝のあの瞬間の光景だけだ。 俺が声を荒らげた瞬間の、ノア君の表情。 いつもの涼やかな瞳を大きく見開き、驚愕と、そして微かな恐怖に染まったあの顔。 彼女の手から乱暴にひったくったマフラーの感触が、今も消えない。
「……何をやっているんだ、俺は」
誰もいない車内で、自嘲の言葉が白く濁って虚空に消える。 最低だ。 本当に、最低の大人だ。
彼女に悪気など一ミリもなかったことは、痛いほど分かっている。 今日からの王都出張は冷え込む。だから、主人の体調を気遣って、暖かそうなマフラーを選んでくれた。それだけの、純粋な善意だったはずだ。使用人として、いや、共に暮らすパートナーとして、あまりにも正当で優しい気遣いだった。 それを俺は、まるで土足で心を踏み荒らされたかのように過剰に反応し、あろうことか怒鳴りつけたのだ。
『触るな!』
自分の口から出たとは思えないほど、余裕のない、悲鳴のような怒号だった。 彼女は何も悪くない。悪いのは、過去に囚われて一歩も動けずにいる俺のほうだ。
あのマフラーは、亡き妻・レティが遺した数少ない形見の一つだった。 まだ俺たちが結婚する前、俺が騎士団の遠征任務に就くと決まった時、彼女が何日も徹夜して編んでくれたものだ。 レティは手先が不器用だった。編み目は不揃いで、所々飛んでいるし、端の処理も甘い。市販品と比べれば、お世辞にも出来が良いとは言えない代物だ。 けれど、そこには彼女の「無事に帰ってきてほしい」という、祈りにも似た魔力が込められていた。魔法使いとしては三流だった彼女が、俺のためだけに紡いだ、世界で一番温かい守護結界。
妻が病で先立ってから数年。俺はそのマフラーを、一度も首に巻いていない。 巻けなかったのだ。 使うのが惜しいからではない。物理的な限界が来ていたからだ。 経年劣化による生地の傷み。そして、防虫香を焚いていても防ぎきれなかった虫食いの穴。 触れれば崩れてしまいそうなそのボロ布は、俺の寂しさそのものを映し出していた。
妻の記憶は、年々薄れていく。 笑顔も、声も、温もりも。時の流れは残酷ながら、少しずつ、けれど確実に削り取っていく。 それが怖くて、俺はこのボロボロのマフラーにしがみついている。誰にも触れさせず、光にも当てず、クローゼットの奥に「墓場」のように封じ込めて、時が止まっているフリをしていたのだ。
そこに、ノア君が触れた。 俺がパニックになったのは、彼女に対する怒りではない。 彼女の手に触れることで、マフラーが崩れてしまうのではないかという恐怖。そして何より、俺が目を逸らし続けてきた「朽ちていく思い出」を、白日の下に晒されることへの恥辱だった。
だが、そんなことは彼女には関係ない。 彼女からすれば、ただの理不尽な癇癪持ちの主人だ。 せっかく築き上げてきた信頼関係を、俺自身の手で粉々に砕いてしまった。
「……謝らないと」
俺は膝の上で拳を握りしめた。 今すぐに引き返して、彼女に頭を下げたい。 あれは君のせいじゃないんだと。俺の弱さのせいなんだと。 けれど、馬車は無情にも王都へと進み続ける。距離が開けば開くほど、謝罪の言葉は届きにくくなる。
彼女は賢い子だ。 もしかしたら、俺が帰る頃には、「こんな気難しい主人のもとでは働けません」と、荷物をまとめて出て行ってしまっているかもしれない。 そう考えた瞬間、朝食が自戒しろと言わんばかりに現世に戻ってこようとする。
いつの間にか、俺の生活の中心には彼女がいた。 朝、漂ってくるコーヒーの香り。 綺麗に磨かれた廊下。 無表情で、でも少し楽しそうに俺の話を聞いてくれる彼女の姿。 あの重厚なメイド服が立てる衣擦れの音さえ、今では俺にとって安らぎの象徴になっている。
失いたくない。 妻への未練とはまた違う、今の俺を生かしてくれている大切な光。 それを自ら吹き消そうとしてしまった愚かさに、俺は唇を噛んだ。
王都に着いたら、仕事を最短で終わらせよう。 同僚との酒席も全て断り、一分一秒でも早く帰ろう。 そして、もし彼女がまだ屋敷にいてくれたなら、その時は全てを話そう。 俺の女々しい過去も、あのマフラーの意味も。 カッコ悪くてもいい。元剣聖の威厳なんてどうでもいい。 ただ、彼女に許してほしい。
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