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第1部_「触れないための規則(ルール)
第7話B:地雷原
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やってしまった。 旦那様を見送った後、私は重い玄関扉に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。 石造りの床の冷たさが、スカート越しに伝わってくる。けれど、私の心臓を握り潰そうとしている冷たさに比べれば、こんなものは微風のようなものだった。
やってしまった。 本当に、取り返しのつかないことをしてしまった。
今朝の、旦那様の顔が忘れられない。 『触るな!』と叫んだ時の、あの形相。 それは単なる怒りではなかった。嫌悪、恐怖、悲痛――負の感情全てを込めた、まるで傷ついた獣が上げる咆哮のような拒絶だった。 いつもの温厚な彼からは想像もできない姿。 その豹変ぶりを引き出したのが、他ならぬ私の「余計なお節介」だったという事実が、私を打ちのめしていた。
私は、自分を過信していたのだ。 この数ヶ月の平穏な生活の中で、私は勘違いをしていた。「私はこの屋敷に受け入れられている」「彼とは信頼関係で結ばれている」と。 確かに、彼は私に優しくしてくれた。仕事ぶりを認めてくれた。 けれど、それはあくまで「雇用主と使用人」という枠組みの中での話だ。 私は所詮、金で雇われた部外者。彼の人生の、本当の核心の部分には、一ミリたりとも踏み込む権利などなかったのだ。
「……仕事、しなきゃ」
私は震える膝を叩いて立ち上がった。 こんなところで座り込んでいても、時間は戻らない。 彼がいない間も、屋敷を維持するのが私の役目だ。
私は雑巾を手に取り、廊下を歩き出した。 いつもなら、この時間は私の好きな掃除の時間だ。埃一つない空間を作り上げる達成感。 けれど今の私にとって、この屋敷は巨大な地雷原のように感じられた。
廊下の壁に掛けられた、古い風景画。 サイドテーブルに置かれた、少し欠けた花瓶。 本棚に並ぶ、革表紙の書物たち。
今まで何気なく掃除していたそれらが、急に「恐ろしいもの」に見えてくる。 ――もし、これも「触ってはいけないもの」だったら? ――もし、この花瓶を動かしただけで、また彼があんな悲しい顔で叫んだら?
手が震えて、雑巾がうまく絞れない。 怖い。 怒鳴られることが怖いのではない。「君には触れる資格がない」と、無言で突き放されることが怖いのだ。 せっかく見つけた「安息の地」を、自分の軽率な行動で失ってしまう恐怖。
私は逃げるように、彼の寝室から一番遠い客間の掃除に取り掛かった。 ひたすら床を磨く。無心になろうと努める。 しかし、思考はどうしてもあの「マフラー」へと引き戻される。
(どうして、あそこまで……?)
冷静になって考えてみる。 あのマフラーは、明らかにボロボロだった。生地は薄くなり、虫食いの穴も空いていた。 機能性を重視する彼なら、とっくに捨てて新しいものを買っているはずの状態だ。 それなのに、彼はそれを「一番奥の棚」に、他の衣服とは分けて大切に保管していた。 そして私が触れた瞬間、まるで自分の心臓を掴まれたかのように取り乱した。
……繋がる。 彼が時折見せる、遠くを見るような寂しげな目。 この広い屋敷に一人で住んでいる理由。 そして、「物を大切にする」という彼の言葉の裏にあった重み。
(あれは、ただの古いマフラーじゃない)
私は手を止めた。 あれは、誰かの形見だ。 彼が深く愛し、そして失ってしまった誰かが遺した、代えの利かない宝物なのだ。 おそらくは、亡くなった奥様とか。
そう気づいた瞬間、私の胸を占めていた恐怖は、深い「恥辱」へと変わった。 私はなんて浅はかだったのだろう。 「寒そうだから」なんて安易な理由で、他人の一番デリケートな傷跡に、土足で踏み込んでしまったのだ。 彼が怒るのも当然だ。いや、怒りというよりは、悲しかったに違いない。守り続けてきた思い出を、何も知らない他人に無遠慮に暴かれたのだから。
「……私は、馬鹿だ」
床に落ちた涙が、磨き上げたフローリングに滲む。 彼を支えたいと思っていた。 彼の平穏を守る鎧になりたいと思っていた。 それなのに、私が一番、彼の平穏を乱してしまった。
私が身に纏っているこの重装メイド服。 これは「対魔導防護服」であり、私を外界の害意から守るための鎧だ。 けれど今は、この厚い布地が、私と彼の間にある「越えられない壁」のように感じられた。 私はこの鎧の内側に籠もっているだけの臆病者で、彼の生身の痛みに寄り添うことなどできていなかったのだ。
三日後。彼が帰ってくる。 その時、私はどんな顔をして迎えればいいのだろう。 「申し訳ありませんでした」と頭を下げるだけで、この罪悪感は消えるのだろうか。 それとも、もう「出て行ってくれ」と言われてしまうのだろうか。
窓の外では、雪が降り始めていた。 しんしんと降り積もる白さが、私の心細さを覆い隠していくようで、私は膝を抱えて動けなくなっていた。 ただ、彼が奪い返したあのマフラーの、不揃いな編み目の温かさだけが、記憶の中で鮮明に焼き付いていた。
やってしまった。 本当に、取り返しのつかないことをしてしまった。
今朝の、旦那様の顔が忘れられない。 『触るな!』と叫んだ時の、あの形相。 それは単なる怒りではなかった。嫌悪、恐怖、悲痛――負の感情全てを込めた、まるで傷ついた獣が上げる咆哮のような拒絶だった。 いつもの温厚な彼からは想像もできない姿。 その豹変ぶりを引き出したのが、他ならぬ私の「余計なお節介」だったという事実が、私を打ちのめしていた。
私は、自分を過信していたのだ。 この数ヶ月の平穏な生活の中で、私は勘違いをしていた。「私はこの屋敷に受け入れられている」「彼とは信頼関係で結ばれている」と。 確かに、彼は私に優しくしてくれた。仕事ぶりを認めてくれた。 けれど、それはあくまで「雇用主と使用人」という枠組みの中での話だ。 私は所詮、金で雇われた部外者。彼の人生の、本当の核心の部分には、一ミリたりとも踏み込む権利などなかったのだ。
「……仕事、しなきゃ」
私は震える膝を叩いて立ち上がった。 こんなところで座り込んでいても、時間は戻らない。 彼がいない間も、屋敷を維持するのが私の役目だ。
私は雑巾を手に取り、廊下を歩き出した。 いつもなら、この時間は私の好きな掃除の時間だ。埃一つない空間を作り上げる達成感。 けれど今の私にとって、この屋敷は巨大な地雷原のように感じられた。
廊下の壁に掛けられた、古い風景画。 サイドテーブルに置かれた、少し欠けた花瓶。 本棚に並ぶ、革表紙の書物たち。
今まで何気なく掃除していたそれらが、急に「恐ろしいもの」に見えてくる。 ――もし、これも「触ってはいけないもの」だったら? ――もし、この花瓶を動かしただけで、また彼があんな悲しい顔で叫んだら?
手が震えて、雑巾がうまく絞れない。 怖い。 怒鳴られることが怖いのではない。「君には触れる資格がない」と、無言で突き放されることが怖いのだ。 せっかく見つけた「安息の地」を、自分の軽率な行動で失ってしまう恐怖。
私は逃げるように、彼の寝室から一番遠い客間の掃除に取り掛かった。 ひたすら床を磨く。無心になろうと努める。 しかし、思考はどうしてもあの「マフラー」へと引き戻される。
(どうして、あそこまで……?)
冷静になって考えてみる。 あのマフラーは、明らかにボロボロだった。生地は薄くなり、虫食いの穴も空いていた。 機能性を重視する彼なら、とっくに捨てて新しいものを買っているはずの状態だ。 それなのに、彼はそれを「一番奥の棚」に、他の衣服とは分けて大切に保管していた。 そして私が触れた瞬間、まるで自分の心臓を掴まれたかのように取り乱した。
……繋がる。 彼が時折見せる、遠くを見るような寂しげな目。 この広い屋敷に一人で住んでいる理由。 そして、「物を大切にする」という彼の言葉の裏にあった重み。
(あれは、ただの古いマフラーじゃない)
私は手を止めた。 あれは、誰かの形見だ。 彼が深く愛し、そして失ってしまった誰かが遺した、代えの利かない宝物なのだ。 おそらくは、亡くなった奥様とか。
そう気づいた瞬間、私の胸を占めていた恐怖は、深い「恥辱」へと変わった。 私はなんて浅はかだったのだろう。 「寒そうだから」なんて安易な理由で、他人の一番デリケートな傷跡に、土足で踏み込んでしまったのだ。 彼が怒るのも当然だ。いや、怒りというよりは、悲しかったに違いない。守り続けてきた思い出を、何も知らない他人に無遠慮に暴かれたのだから。
「……私は、馬鹿だ」
床に落ちた涙が、磨き上げたフローリングに滲む。 彼を支えたいと思っていた。 彼の平穏を守る鎧になりたいと思っていた。 それなのに、私が一番、彼の平穏を乱してしまった。
私が身に纏っているこの重装メイド服。 これは「対魔導防護服」であり、私を外界の害意から守るための鎧だ。 けれど今は、この厚い布地が、私と彼の間にある「越えられない壁」のように感じられた。 私はこの鎧の内側に籠もっているだけの臆病者で、彼の生身の痛みに寄り添うことなどできていなかったのだ。
三日後。彼が帰ってくる。 その時、私はどんな顔をして迎えればいいのだろう。 「申し訳ありませんでした」と頭を下げるだけで、この罪悪感は消えるのだろうか。 それとも、もう「出て行ってくれ」と言われてしまうのだろうか。
窓の外では、雪が降り始めていた。 しんしんと降り積もる白さが、私の心細さを覆い隠していくようで、私は膝を抱えて動けなくなっていた。 ただ、彼が奪い返したあのマフラーの、不揃いな編み目の温かさだけが、記憶の中で鮮明に焼き付いていた。
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