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第1部_「触れないための規則(ルール)
第8話A:知らない誰か
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王都の冬は、森の屋敷よりもずっと騒がしい。 石畳を叩く馬車の音、人々の話し声、商店街から流れる客引きの声。 仕事を無理やり二日で終わらせた俺は、帰りの馬車を待つ間、逃げるように路地裏の商店街を彷徨っていた。
目的は一つ。 ノア君への土産だ。 いや、体裁としては「出張土産」だが、その実態は「詫びの品」である。 あんな風に怒鳴りつけてしまったあと、手ぶらで帰る勇気は俺にはなかった。何か、彼女の機嫌を直してもらえるような、あるいは会話の糸口になるようなものを探さなければならない。
「……何がいいんだ」
ショーウィンドウの前で、俺は腕組みをして唸った。 目の前には、色とりどりの小物が並んでいる。 髪留め、ブローチ、手袋。どれも若い女性が喜びそうな品ばかりだ。
俺の視線が、ふと赤いリボンに吸い寄せられる。 ――あ。 反射的に手が伸びそうになる。 『レティは赤が好きだったな』。 そんな思考が、脊髄反射で脳裏をよぎる。妻は明るい色が似合う人だった。俺が地味な色ばかり選ぶから、「私があなたの分まで派手になるの」と笑って、赤いショールやリボンを好んで身につけていた。
俺は慌てて手を引っ込める。 違う。これはレティへの贈り物じゃない。ノア君へのものだ。
では、ノア君は何色が好きなんだ?
俺は記憶を探る。 彼女が着ているのは、あの漆黒の重装メイド服か、最初に着ていた生成りのチュニックだけだ。 黒? 白? いや、それは「仕事着」として選んでいるだけで、彼女自身の好みではないかもしれない。 プライベートな時間の彼女は何を着ている? ……知らない。俺は彼女に「俺に関わるな」と言い渡し、彼女もそれを忠実に守っているから、俺は彼女の素の色を何一つ知らない。
場所を変えよう。 俺は菓子屋へと足を向けた。甘いものなら外れはないだろう。 甘い砂糖の香りが漂う店内。 『レティは焼き菓子よりも、生のフルーツが乗ったタルトが好きだった』。 まただ。また妻の顔が浮かぶ。
じゃあ、ノア君は? 彼女が食事をしているところを思い出す。 ……思い出せない。 俺たちは食事の時間をずらしているし、彼女は自分の分をキッチンで手早く済ませているようだ。 彼女が淹れるコーヒーは絶品だが、彼女自身が甘党なのか辛党なのかすら、俺は知らない。
俺は愕然として、店の中央で立ち尽くしてしまった。
俺は、彼女のことを何も知らない。 数ヶ月も一緒に暮らしているのに。 彼女の出身地も、趣味も、好きな色も、好物も。 俺が知っているのは、彼女の「完璧な仕事ぶり」と、俺の性癖に突き刺さる「外見」だけだ。
恥ずかしさで顔から火が出そうだった。 俺は彼女を、生の人間として見てしまったがあまり、都合の良い「使用人」以上の情報を知らない。 あるいは、亡き妻への操を立てるという名目で、目の前の生きた人間と向き合うことから逃げていただけなんじゃないか。
そんな男が、気安くプレゼント? 笑わせる。何を選んだとしても、それは「俺が勝手にイメージした彼女」への押し付けにしかならないだろう。
「……お客さん? 何かお探しで?」
店員に声をかけられ、俺は我に返った。 何も買わずに店を出るのも気まずい。 俺は結局、一番無難な、日持ちのするクッキーの詰め合わせを一つだけ買った。 綺麗に包装された箱が、今の俺にはひどく空虚なものに感じられた。
これを持って帰ろう。 そして、物で釣るのではなく、ちゃんと口で謝ろう。 「君のことを何も知らないから、教えてほしい」と。 それは、妻への裏切りにはならないはずだ。これからを生きるために、必要なことなのだから。
俺は逃げるように店を出て、屋敷へ向かう馬車へと急いだ。 懐のクッキーは、誰に渡す気もないのに剣よりも重い。
目的は一つ。 ノア君への土産だ。 いや、体裁としては「出張土産」だが、その実態は「詫びの品」である。 あんな風に怒鳴りつけてしまったあと、手ぶらで帰る勇気は俺にはなかった。何か、彼女の機嫌を直してもらえるような、あるいは会話の糸口になるようなものを探さなければならない。
「……何がいいんだ」
ショーウィンドウの前で、俺は腕組みをして唸った。 目の前には、色とりどりの小物が並んでいる。 髪留め、ブローチ、手袋。どれも若い女性が喜びそうな品ばかりだ。
俺の視線が、ふと赤いリボンに吸い寄せられる。 ――あ。 反射的に手が伸びそうになる。 『レティは赤が好きだったな』。 そんな思考が、脊髄反射で脳裏をよぎる。妻は明るい色が似合う人だった。俺が地味な色ばかり選ぶから、「私があなたの分まで派手になるの」と笑って、赤いショールやリボンを好んで身につけていた。
俺は慌てて手を引っ込める。 違う。これはレティへの贈り物じゃない。ノア君へのものだ。
では、ノア君は何色が好きなんだ?
俺は記憶を探る。 彼女が着ているのは、あの漆黒の重装メイド服か、最初に着ていた生成りのチュニックだけだ。 黒? 白? いや、それは「仕事着」として選んでいるだけで、彼女自身の好みではないかもしれない。 プライベートな時間の彼女は何を着ている? ……知らない。俺は彼女に「俺に関わるな」と言い渡し、彼女もそれを忠実に守っているから、俺は彼女の素の色を何一つ知らない。
場所を変えよう。 俺は菓子屋へと足を向けた。甘いものなら外れはないだろう。 甘い砂糖の香りが漂う店内。 『レティは焼き菓子よりも、生のフルーツが乗ったタルトが好きだった』。 まただ。また妻の顔が浮かぶ。
じゃあ、ノア君は? 彼女が食事をしているところを思い出す。 ……思い出せない。 俺たちは食事の時間をずらしているし、彼女は自分の分をキッチンで手早く済ませているようだ。 彼女が淹れるコーヒーは絶品だが、彼女自身が甘党なのか辛党なのかすら、俺は知らない。
俺は愕然として、店の中央で立ち尽くしてしまった。
俺は、彼女のことを何も知らない。 数ヶ月も一緒に暮らしているのに。 彼女の出身地も、趣味も、好きな色も、好物も。 俺が知っているのは、彼女の「完璧な仕事ぶり」と、俺の性癖に突き刺さる「外見」だけだ。
恥ずかしさで顔から火が出そうだった。 俺は彼女を、生の人間として見てしまったがあまり、都合の良い「使用人」以上の情報を知らない。 あるいは、亡き妻への操を立てるという名目で、目の前の生きた人間と向き合うことから逃げていただけなんじゃないか。
そんな男が、気安くプレゼント? 笑わせる。何を選んだとしても、それは「俺が勝手にイメージした彼女」への押し付けにしかならないだろう。
「……お客さん? 何かお探しで?」
店員に声をかけられ、俺は我に返った。 何も買わずに店を出るのも気まずい。 俺は結局、一番無難な、日持ちのするクッキーの詰め合わせを一つだけ買った。 綺麗に包装された箱が、今の俺にはひどく空虚なものに感じられた。
これを持って帰ろう。 そして、物で釣るのではなく、ちゃんと口で謝ろう。 「君のことを何も知らないから、教えてほしい」と。 それは、妻への裏切りにはならないはずだ。これからを生きるために、必要なことなのだから。
俺は逃げるように店を出て、屋敷へ向かう馬車へと急いだ。 懐のクッキーは、誰に渡す気もないのに剣よりも重い。
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