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第1部_「触れないための規則(ルール)
第9話:修繕と告白
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帰宅した旦那様の足取りは、ひどく重かった。 玄関の扉が開く音。雪を払う音。 私はホールの隅で、両手を前で組んで待機していた。心臓が痛いほど脈打っている。
「……ただいま」 「お帰りなさいませ、旦那様」
交わした言葉はそれだけ。 いつもなら「寒かったろう」とか「留守中、変わりはなかったか」とか、二、三言の会話があるはずなのに、今日は重苦しい沈黙が降りた。
旦那様は私の顔を見ようとしない。 やはり、まだ怒っているのだろうか。それとも、私の顔など見たくもないほど失望させてしまったのだろうか。 私は俯き、彼がリビングへと通り過ぎるのを待った。
「……あー、ノア君」
不意に、彼が足を止めた。 振り返ると、彼は懐から少し潰れた小箱を取り出し、不器用に差し出した。
「これ。……土産だ。王都のクッキーなんだけど」 「え……」 「甘いものが好きか分からなかったが、嫌いなら捨ててくれて構わない」
彼は視線を泳がせながら、早口で続ける。
「それと、夕食なんだが……今日は外で食べないか? 街に美味いシチューを出す店があるんだ。王都の飯が不味くてね、温かいものが食べたくて」
それは、明らかに不自然な誘いだった。 私の料理が不満なわけではないだろう。彼なりの、不器用極まりない「仲直り」の合図なのだと、鈍感な私でも分かった。 怒っているどころか、彼はずっと気まずさを抱えて帰ってきたのだ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。 私が勝手に聖域を荒らしたのに、この人は自分から歩み寄ろうとしてくれている。
「……はい。喜んで、お供させていただきます」
私が頭を下げると、彼は「そうか」と、心底ほっとしたように肩の力を抜いた。
***
外出の準備をするため、旦那様は一度寝室へと戻った。 私もコートを羽織り、リビングで待つ。
数分後。 戻ってきた彼は、厚手の紺色のコートを着ていた。そしてその手には――あの、チェック柄のマフラーが握られていた。
私は息を呑んだ。 彼は私の視線に気づき、少し苦笑いをして、そのマフラーを見つめた。
「……もう、ボロボロだな」
彼は独り言のように呟き、不器用な手つきでそれを首に巻こうとした。 けれど、虫食いの穴から指が見えているのが痛々しくて、彼は動作を止めた。
「以前、奥様がいらっしゃったのですね」
私の口から、言葉が滑り落ちていた。 「触れてはいけない」と誓ったはずなのに、このまま誤魔化してはいけない気がした。
触れるべきではないからこそ。私は向き合うべきなんだと思った。
彼は驚いたように目を見開き、それから諦めたように小さく息を吐いた。
「……ああ。気づいていたか」 「はい。倉庫に、編み物の本がありましたので」
彼はマフラーを愛おしそうに撫でた。
「レティという女性だった。……もう、何年も前の話だ」
ぽつり、ぽつりと、彼は語り始めた。 彼女が明るい色のリボンが好きだったこと。 魔法使いとしては才能がなくて、いつも失敗ばかりしていたこと。 そして、このマフラーを編むために、指を絆創膏だらけにしていたこと。
「俺が遠征に行く時に、お守りだと言って渡されたんだ。『魔力制御が下手だから、防御効果はないかもしれないけど』なんて笑って」
「……」
「形あるものはいつか壊れる。分かってはいるんだが……これを捨ててしまったら、彼女が俺のために祈ってくれた時間まで、消えてしまうような気がしてな」
彼は自嘲気味に笑った。 その笑顔は泣き出しそうで、見ていられないほど切実だった。 彼は、マフラーの端のほつれた糸を指先で摘んだ。
「もう寿命だ。君が気を使ってくれたのに、怒鳴ったりしてすまなかった。……新しいのを、買うべき時なんだろうな」
諦め。 それは、自分自身への諦めでもあった。 過去にすがりつく自分を恥じ、無理やり前を向こうとする、悲しい決断。
――嫌だ。 私の奥底で、明確に思った。
捨てるべきじゃない。忘れるべきじゃない。
それは、今のあなたの1部なんだ。
魔導縫製師としての矜持か。それとも、ただの個人的な感情か。 私は、彼のそんな顔を見たくなかった。
「……デザインの良し悪しなんて、無いと私は思います」
気がつけば、私は一歩前に踏み出していた。 彼は驚いて私を見る。
「どんなデザインでも、そこには作った人の『想い』が込められています。でも、商会やコンテストといった場では、どうしても優劣をつけたがります」
前の職場の光景がフラッシュバックする。 定規で測られ、魔力数値を計測され、「効率が悪い」と廃棄された数多の作品たち。 そこに込められた祈りを踏みにじり、数字だけを崇める世界。
「これは効果的だとか、今の流行りだとか、そういう物差しで。……このデザインに行き着くまでの迷いや、そこに込められた祈りのようなものを無視して」
私の声は、少し震えていたかもしれない。 普段の「無表情なメイド」の仮面が剥がれ落ち、ただの「私」としての感情が溢れ出す。
「そういった世界は、私には合いませんでした。誰かの『一番』を、数字や順位で汚したくなかった」
私は彼の手にあるマフラーを、真っ直ぐに見つめた。
「そのマフラーには、奥様の……旦那様を想う、切実なほどの祈りが編み込まれています。編み目が不揃いなのは、一目一目、貴方の無事を念じながら編んだからです。私には分かります」
「ノア、君……」
「それは、この世のどんなものよりも尊い、世界で一つのお守りなんです。……寿命なんかじゃありません」
私は彼に手を差し出した。 もう、迷いはなかった。
「直させてください。……私が、繋ぎ止めます。貴方の思い出も、奥様の祈りも、全部」
リビングに、薪が爆ぜる音が響いた。 旦那様は呆然として私を見ていた。 やがて、その瞳が潤み、ゆっくりと、本当にゆっくりと、握りしめていたマフラーを私に手渡してくれた。
「……頼んでも、いいのか?」
「はい。私の腕は、こういう時のためにあるんです」
受け取ったマフラーは、古びた匂いがした。 けれど、私の手には確かに、かつて一人の女性が込めた温かい熱が伝わってきた。
ふと、我に返る。 私は今、雇用主に対して、なんて偉そうな長広舌をぶってしまったのだろう。 自分の過去語りまでして、感情的になって、熱く語って……。
カアアッ、と顔から火が出る音が聞こえた気がした。 恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。 無表情キャラで通していたのに、台無しだ。
「あ、あの! すみません、出過ぎた真似を! ……し、失礼します!」
私はマフラーを胸に抱いたまま、脱兎のごとく踵を返した。
「あ、おいノア君! 夕食は!?」 「いりません! 今日は徹夜です!!」
背後で旦那様が呼ぶ声を振り切り、私は自室へと逃げ込んだ。 扉を閉め、その場にうずくまる。 心臓が早鐘を打っていた。 けれど、腕の中にあるマフラーの温もりだけは、心地よかった。
今夜は長い夜になる。 私は針箱を取り出し、小さく気合を入れた。 私の「想い」も、少しだけ混ぜさせてもらおう。 この不器用で優しい旦那様が、もう二度と凍えることがないように。
「……ただいま」 「お帰りなさいませ、旦那様」
交わした言葉はそれだけ。 いつもなら「寒かったろう」とか「留守中、変わりはなかったか」とか、二、三言の会話があるはずなのに、今日は重苦しい沈黙が降りた。
旦那様は私の顔を見ようとしない。 やはり、まだ怒っているのだろうか。それとも、私の顔など見たくもないほど失望させてしまったのだろうか。 私は俯き、彼がリビングへと通り過ぎるのを待った。
「……あー、ノア君」
不意に、彼が足を止めた。 振り返ると、彼は懐から少し潰れた小箱を取り出し、不器用に差し出した。
「これ。……土産だ。王都のクッキーなんだけど」 「え……」 「甘いものが好きか分からなかったが、嫌いなら捨ててくれて構わない」
彼は視線を泳がせながら、早口で続ける。
「それと、夕食なんだが……今日は外で食べないか? 街に美味いシチューを出す店があるんだ。王都の飯が不味くてね、温かいものが食べたくて」
それは、明らかに不自然な誘いだった。 私の料理が不満なわけではないだろう。彼なりの、不器用極まりない「仲直り」の合図なのだと、鈍感な私でも分かった。 怒っているどころか、彼はずっと気まずさを抱えて帰ってきたのだ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。 私が勝手に聖域を荒らしたのに、この人は自分から歩み寄ろうとしてくれている。
「……はい。喜んで、お供させていただきます」
私が頭を下げると、彼は「そうか」と、心底ほっとしたように肩の力を抜いた。
***
外出の準備をするため、旦那様は一度寝室へと戻った。 私もコートを羽織り、リビングで待つ。
数分後。 戻ってきた彼は、厚手の紺色のコートを着ていた。そしてその手には――あの、チェック柄のマフラーが握られていた。
私は息を呑んだ。 彼は私の視線に気づき、少し苦笑いをして、そのマフラーを見つめた。
「……もう、ボロボロだな」
彼は独り言のように呟き、不器用な手つきでそれを首に巻こうとした。 けれど、虫食いの穴から指が見えているのが痛々しくて、彼は動作を止めた。
「以前、奥様がいらっしゃったのですね」
私の口から、言葉が滑り落ちていた。 「触れてはいけない」と誓ったはずなのに、このまま誤魔化してはいけない気がした。
触れるべきではないからこそ。私は向き合うべきなんだと思った。
彼は驚いたように目を見開き、それから諦めたように小さく息を吐いた。
「……ああ。気づいていたか」 「はい。倉庫に、編み物の本がありましたので」
彼はマフラーを愛おしそうに撫でた。
「レティという女性だった。……もう、何年も前の話だ」
ぽつり、ぽつりと、彼は語り始めた。 彼女が明るい色のリボンが好きだったこと。 魔法使いとしては才能がなくて、いつも失敗ばかりしていたこと。 そして、このマフラーを編むために、指を絆創膏だらけにしていたこと。
「俺が遠征に行く時に、お守りだと言って渡されたんだ。『魔力制御が下手だから、防御効果はないかもしれないけど』なんて笑って」
「……」
「形あるものはいつか壊れる。分かってはいるんだが……これを捨ててしまったら、彼女が俺のために祈ってくれた時間まで、消えてしまうような気がしてな」
彼は自嘲気味に笑った。 その笑顔は泣き出しそうで、見ていられないほど切実だった。 彼は、マフラーの端のほつれた糸を指先で摘んだ。
「もう寿命だ。君が気を使ってくれたのに、怒鳴ったりしてすまなかった。……新しいのを、買うべき時なんだろうな」
諦め。 それは、自分自身への諦めでもあった。 過去にすがりつく自分を恥じ、無理やり前を向こうとする、悲しい決断。
――嫌だ。 私の奥底で、明確に思った。
捨てるべきじゃない。忘れるべきじゃない。
それは、今のあなたの1部なんだ。
魔導縫製師としての矜持か。それとも、ただの個人的な感情か。 私は、彼のそんな顔を見たくなかった。
「……デザインの良し悪しなんて、無いと私は思います」
気がつけば、私は一歩前に踏み出していた。 彼は驚いて私を見る。
「どんなデザインでも、そこには作った人の『想い』が込められています。でも、商会やコンテストといった場では、どうしても優劣をつけたがります」
前の職場の光景がフラッシュバックする。 定規で測られ、魔力数値を計測され、「効率が悪い」と廃棄された数多の作品たち。 そこに込められた祈りを踏みにじり、数字だけを崇める世界。
「これは効果的だとか、今の流行りだとか、そういう物差しで。……このデザインに行き着くまでの迷いや、そこに込められた祈りのようなものを無視して」
私の声は、少し震えていたかもしれない。 普段の「無表情なメイド」の仮面が剥がれ落ち、ただの「私」としての感情が溢れ出す。
「そういった世界は、私には合いませんでした。誰かの『一番』を、数字や順位で汚したくなかった」
私は彼の手にあるマフラーを、真っ直ぐに見つめた。
「そのマフラーには、奥様の……旦那様を想う、切実なほどの祈りが編み込まれています。編み目が不揃いなのは、一目一目、貴方の無事を念じながら編んだからです。私には分かります」
「ノア、君……」
「それは、この世のどんなものよりも尊い、世界で一つのお守りなんです。……寿命なんかじゃありません」
私は彼に手を差し出した。 もう、迷いはなかった。
「直させてください。……私が、繋ぎ止めます。貴方の思い出も、奥様の祈りも、全部」
リビングに、薪が爆ぜる音が響いた。 旦那様は呆然として私を見ていた。 やがて、その瞳が潤み、ゆっくりと、本当にゆっくりと、握りしめていたマフラーを私に手渡してくれた。
「……頼んでも、いいのか?」
「はい。私の腕は、こういう時のためにあるんです」
受け取ったマフラーは、古びた匂いがした。 けれど、私の手には確かに、かつて一人の女性が込めた温かい熱が伝わってきた。
ふと、我に返る。 私は今、雇用主に対して、なんて偉そうな長広舌をぶってしまったのだろう。 自分の過去語りまでして、感情的になって、熱く語って……。
カアアッ、と顔から火が出る音が聞こえた気がした。 恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。 無表情キャラで通していたのに、台無しだ。
「あ、あの! すみません、出過ぎた真似を! ……し、失礼します!」
私はマフラーを胸に抱いたまま、脱兎のごとく踵を返した。
「あ、おいノア君! 夕食は!?」 「いりません! 今日は徹夜です!!」
背後で旦那様が呼ぶ声を振り切り、私は自室へと逃げ込んだ。 扉を閉め、その場にうずくまる。 心臓が早鐘を打っていた。 けれど、腕の中にあるマフラーの温もりだけは、心地よかった。
今夜は長い夜になる。 私は針箱を取り出し、小さく気合を入れた。 私の「想い」も、少しだけ混ぜさせてもらおう。 この不器用で優しい旦那様が、もう二度と凍えることがないように。
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