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第1部_「触れないための規則(ルール)
第10話:あくまでメイドとして
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翌朝。 カーテンの隙間から差し込む朝日が、昨晩の雪を照らしてキラキラと輝いている。 徹夜明けの重たい瞼をこすりながら、俺は食堂へと降りた。
昨夜、ノア君は夕食も摂らずに部屋に籠もってしまった。 俺の長年の後悔にも似た想いに、彼女は感情を露わにして応えてくれた。普段の鉄仮面からは想像もつかないほどの熱量で。 嬉しかった反面、無理をさせていないか心配だった。
食堂には、いつものようにコーヒーの香ばしい匂いが漂っていた。
「おはようございます、旦那様」
テーブルの傍らに、ノア君が立っている。 その顔色は少し青白く、目の下には薄っすらと隈ができている。だが、その瞳は奇妙なほど晴れやかで、どこか誇らしげな光を宿していた。 そして、彼女の手には、綺麗に畳まれたチェック柄の布があった。
「……おはよう。それは」 「修理、完了いたしました」
彼女は深々と一礼し、それを俺に差し出した。
俺は震える手で受け取った。 息を呑む。
――完璧だった。 いや、「新品同様」という言葉では足りない。 虫食いの穴も、擦り切れた端も、跡形もなく消えている。けれど、決して「別の布を継ぎ足した」ようには見えない。 不揃いだった編み目はそのまま活かされ、しかし緩んでいた箇所は目に見えないほど細い糸で補強されている。 レティが一生懸命編んだあの形を維持したまま、強度と美しさだけが蘇っていた。
手触りが、温かい。 物理的な温度ではない。布の奥底に眠っていた、妻の祈りが――途切れかけていた魔力の回路が、一本一本丁寧に繋ぎ直され、再び脈動し始めたのを感じる。
「……凄い」
俺の口から、感嘆の息が漏れた。 これはただの裁縫ではない。 かつて彼女がいたという「魔導縫製」の技術の粋と、そして何より、ノア君自身の献身が込められた芸術品だ。
「魔力回路の接続に少し手間取りましたが、奥様の術式は素直でしたので、なんとか。……これで、あと数十年は問題なく使えます」
彼女は事もなげに言うが、それがどれほどの難作業だったか、素人の俺にも想像がつく。 俺はマフラーを顔に近づけた。懐かしい匂いと、新しい石鹸の香りが混じり合っている。
「ありがとう。……本当に、ありがとう」
俺は顔を上げ、彼女を見た。 感謝の言葉だけでは足りない。だが、それ以上の言葉を探すと、胸の奥が詰まって声が出なくなりそうだった。
ふと、我に返る。 俺は今、目の前の女性に、亡き妻の形見を直してもらったのだ。 それは残酷なことではないだろうか。 彼女に「過去の女への未練」を肯定させ、その手伝いをさせてしまった。 俺は彼女に対して、なんと不誠実なことを――。
俺が申し訳なさで眉を下げかけると、それを察したのか、ノア君が一歩下がった。 そして、いつもの涼やかな「無表情なメイド」の顔で、淡々と言った。
「旦那様。そのような顔をなさらないでください」 「え……」
「私は、あくまでメイドです。家の保守、および旦那様の身の回りの管理が仕事です」
彼女は凛として、俺を見据える。
「旦那様が奥様のことを忘れられないのは、当然のことです。それを隠す必要も、私に遠慮する必要もありません」 「ノア君……」 「大切な思い出を守るのも、私の業務の一環ですから。……それに」
そこで彼女は、ほんの少しだけ、口元の端を緩めた。 昨夜の情熱的な表情とは違う、穏やかで、どこか慈愛に満ちた微かな笑み。
「誰かをこれほど大切に想える方が私の主人であることを、私は誇りに思います」
――負けた。 俺は心の中で、完全に白旗を上げた。 敵わない。 俺はずっと、自分が彼女を守っているつもりでいた。 若い娘を雇ってやっている、住む場所を与えてやっていると。 だが、守られていたのは俺のほうだ。 俺の弱さも、過去への未練も、すべて受け入れて、彼女はその小さな体で――あの重厚なメイド服を着て、俺の心ごと守ってくれているのだ。
「……そうか。なら、存分に甘えさせてもらうよ」
俺はマフラーを首に巻いた。 暖かい。 冬の朝の冷気が、嘘のように遮断される。
「行ってきます、ノア君」 「いってらっしゃいませ、旦那様」
俺は仕事へ向かうため、玄関を出た。 背中には、彼女の静かな視線を感じる。 マフラーに手を添える。 そこには、亡き妻の祈りと、今の俺を支えてくれる彼女の想いが、二重の層となって俺を守っていた。
空は高く晴れ渡っている。 俺の足取りは、ここ数年で一番軽かった。
***
旦那様を送り出した後、私は扉に背を預け、大きなあくびを噛み殺した。 さすがに徹夜は堪える。 けれど、マフラーを巻いた時の彼の、あの子供のように安堵した顔を思い出せば、眠気など吹き飛ぶというものだ。
「……あくまでメイド、か」
自分で言った言葉を反芻する。 それは彼への宣言であり、私自身への戒めでもあった。
私は、彼の妻にはなれない。あのマフラーに込められた時間と重みには、どう足掻いたって勝てない。 でも、それでいい。 私は「今の彼」を支える最強のメイドであればいいのだ。
過去は奥様のもの。 けれど、今と未来の彼の世話を焼く権利は、私が持っている。
「さて、二度寝……といきたいところですが」
私はパンと自分の頬を叩いた。 今日は晴れだ。シーツを洗濯するには絶好の日和である。
私は重いスカートを翻し、キッチンへと歩き出した。 足取りに合わせて鳴る衣擦れの音が、今日は勝利の凱歌のように聞こえた。
昨夜、ノア君は夕食も摂らずに部屋に籠もってしまった。 俺の長年の後悔にも似た想いに、彼女は感情を露わにして応えてくれた。普段の鉄仮面からは想像もつかないほどの熱量で。 嬉しかった反面、無理をさせていないか心配だった。
食堂には、いつものようにコーヒーの香ばしい匂いが漂っていた。
「おはようございます、旦那様」
テーブルの傍らに、ノア君が立っている。 その顔色は少し青白く、目の下には薄っすらと隈ができている。だが、その瞳は奇妙なほど晴れやかで、どこか誇らしげな光を宿していた。 そして、彼女の手には、綺麗に畳まれたチェック柄の布があった。
「……おはよう。それは」 「修理、完了いたしました」
彼女は深々と一礼し、それを俺に差し出した。
俺は震える手で受け取った。 息を呑む。
――完璧だった。 いや、「新品同様」という言葉では足りない。 虫食いの穴も、擦り切れた端も、跡形もなく消えている。けれど、決して「別の布を継ぎ足した」ようには見えない。 不揃いだった編み目はそのまま活かされ、しかし緩んでいた箇所は目に見えないほど細い糸で補強されている。 レティが一生懸命編んだあの形を維持したまま、強度と美しさだけが蘇っていた。
手触りが、温かい。 物理的な温度ではない。布の奥底に眠っていた、妻の祈りが――途切れかけていた魔力の回路が、一本一本丁寧に繋ぎ直され、再び脈動し始めたのを感じる。
「……凄い」
俺の口から、感嘆の息が漏れた。 これはただの裁縫ではない。 かつて彼女がいたという「魔導縫製」の技術の粋と、そして何より、ノア君自身の献身が込められた芸術品だ。
「魔力回路の接続に少し手間取りましたが、奥様の術式は素直でしたので、なんとか。……これで、あと数十年は問題なく使えます」
彼女は事もなげに言うが、それがどれほどの難作業だったか、素人の俺にも想像がつく。 俺はマフラーを顔に近づけた。懐かしい匂いと、新しい石鹸の香りが混じり合っている。
「ありがとう。……本当に、ありがとう」
俺は顔を上げ、彼女を見た。 感謝の言葉だけでは足りない。だが、それ以上の言葉を探すと、胸の奥が詰まって声が出なくなりそうだった。
ふと、我に返る。 俺は今、目の前の女性に、亡き妻の形見を直してもらったのだ。 それは残酷なことではないだろうか。 彼女に「過去の女への未練」を肯定させ、その手伝いをさせてしまった。 俺は彼女に対して、なんと不誠実なことを――。
俺が申し訳なさで眉を下げかけると、それを察したのか、ノア君が一歩下がった。 そして、いつもの涼やかな「無表情なメイド」の顔で、淡々と言った。
「旦那様。そのような顔をなさらないでください」 「え……」
「私は、あくまでメイドです。家の保守、および旦那様の身の回りの管理が仕事です」
彼女は凛として、俺を見据える。
「旦那様が奥様のことを忘れられないのは、当然のことです。それを隠す必要も、私に遠慮する必要もありません」 「ノア君……」 「大切な思い出を守るのも、私の業務の一環ですから。……それに」
そこで彼女は、ほんの少しだけ、口元の端を緩めた。 昨夜の情熱的な表情とは違う、穏やかで、どこか慈愛に満ちた微かな笑み。
「誰かをこれほど大切に想える方が私の主人であることを、私は誇りに思います」
――負けた。 俺は心の中で、完全に白旗を上げた。 敵わない。 俺はずっと、自分が彼女を守っているつもりでいた。 若い娘を雇ってやっている、住む場所を与えてやっていると。 だが、守られていたのは俺のほうだ。 俺の弱さも、過去への未練も、すべて受け入れて、彼女はその小さな体で――あの重厚なメイド服を着て、俺の心ごと守ってくれているのだ。
「……そうか。なら、存分に甘えさせてもらうよ」
俺はマフラーを首に巻いた。 暖かい。 冬の朝の冷気が、嘘のように遮断される。
「行ってきます、ノア君」 「いってらっしゃいませ、旦那様」
俺は仕事へ向かうため、玄関を出た。 背中には、彼女の静かな視線を感じる。 マフラーに手を添える。 そこには、亡き妻の祈りと、今の俺を支えてくれる彼女の想いが、二重の層となって俺を守っていた。
空は高く晴れ渡っている。 俺の足取りは、ここ数年で一番軽かった。
***
旦那様を送り出した後、私は扉に背を預け、大きなあくびを噛み殺した。 さすがに徹夜は堪える。 けれど、マフラーを巻いた時の彼の、あの子供のように安堵した顔を思い出せば、眠気など吹き飛ぶというものだ。
「……あくまでメイド、か」
自分で言った言葉を反芻する。 それは彼への宣言であり、私自身への戒めでもあった。
私は、彼の妻にはなれない。あのマフラーに込められた時間と重みには、どう足掻いたって勝てない。 でも、それでいい。 私は「今の彼」を支える最強のメイドであればいいのだ。
過去は奥様のもの。 けれど、今と未来の彼の世話を焼く権利は、私が持っている。
「さて、二度寝……といきたいところですが」
私はパンと自分の頬を叩いた。 今日は晴れだ。シーツを洗濯するには絶好の日和である。
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