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第1部_「触れないための規則(ルール)
第11話:招かれざるオファー
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森の雪解け水が小川に流れ込み、心地よいせせらぎを奏でる季節になった。 屋敷の庭にも遅い春が訪れ、枯れ木だと思っていた桜の古木が、可愛らしい蕾をつけ始めている。
穏やかな昼下がり。俺、アルベルトはリビングの窓辺で、届いたばかりの一通の手紙を前に腕組みをしていた。
封筒は上質な羊皮紙でできており、封蝋には金粉が混ぜられている。差出人の名は『ガランド商会』。王都でも五指に入る大商会だ。 俺が剣術指南役として出入りしている貴族の紹介だろうか。 だが、問題はその中身だ。
「……引き抜き、か」
俺は重い溜息をついた。 手紙の文面は丁寧だが、要約すればこういうことだ。 『先日、街でお見かけした貴殿のメイドの所作と、彼女が身につけていた制服の仕立てに感銘を受けた。ぜひ我が家の専属として迎え入れたい。給金は現在の三倍を用意する』
先日、というのはマフラーのお礼に街へ出かけた時のことだろう。 あの時、ノア君は普通のワンピースに着替えていたが、あの重装メイド服を着ていた時間もあった。 目ざとい商人のことだ。彼女の立ち居振る舞いの美しさと、あの服が「ただのメイド服」ではない(魔導防護服としての価値)ことを見抜いたのかもしれない。
俺はチラリとキッチンの方を見た。 バサリ、という重厚な衣擦れの音と共に、ノア君が紅茶のワゴンを押してくるところだった。
「お茶が入りました。本日はダージリンのファーストフラッシュです」
彼女は表情一つ変えず、流れるような手つきでカップに紅茶を注ぐ。 春になり、気温も上がってきた。普通なら暑苦しいはずの重装メイド服だが、彼女は涼しい顔をしている。空調魔法が完璧に機能している証拠だ。 その鉄壁の姿は、この数ヶ月ですっかり我が家の日常風景として定着していた。
俺はカップを受け取りながら、迷った末に手紙をテーブルに滑らせた。
「ノア君。君宛て……というよりは、君に関する手紙が来ている」
「私に、ですか?」
彼女が小首を傾げる。 俺は努めて冷静に、経営者としての顔を作った。
「ガランド商会を知っているか? 王都の大手だ。彼らが、君を雇いたいと言ってきている」
「…………」
「条件は破格だ。給金は今の三倍。王都の一等地に住み込みで、休暇も保証されている。……君の技術と能力を高く評価してのことだそうだ」
言いながら、胸の奥がズキリと痛む。 三倍。 俺のような片田舎の隠居騎士が払える給料など、たかが知れている。彼女の腕前なら、もっと華やかな場所で、もっと正当な評価を受けるべきなのは明白だ。 あのマフラーの修繕技術一つとっても、彼女がここにいるのは「才能の無駄遣い」なのかもしれない。
俺は、彼女の将来を一番に考えるべきだ。 それが、雇用主としての責任であり、年長者としての務めだ。
「……悪い話じゃないと思う。君のキャリアを考えれば、王都の大きな屋敷で働くほうが――」
そこまで言った時だった。 カチャン、と硬質な音が響いた。 ノア君が、ティーポットを置いた音だ。いつもなら音もなく置く彼女にしては珍しく、少し乱暴な響きだった。
顔を上げると、彼女は俺を見ていなかった。 視線は手紙に落とされているが、その瞳は氷のように冷え切っている。
「……旦那様」
「ん、なんだ」
「この手紙を、どう処理しろと?」
声のトーンが低い。 俺はたじろぎながらも、言葉を継ぐ。
「いや、処理というか……君の意思を確認したくてな。もし興味があるなら、先方と話を――」
「ゴミ箱でよろしいですか?」
「えっ」
彼女は手紙を指先で摘み上げ、汚いものでも見るような目つきで言った。
「興味がありません。以上です」 「い、いや待ちなさい! 三倍だぞ? それにガランド商会といえば、王室御用達の……」 「お金の問題ではありません」
彼女はぴしゃりと言い放った。 そして、俺の目を真っ直ぐに見据える。その瞳の奥には、怒りのような、あるいは縋るような光が揺れていた。
「私は、今の職場環境に満足しています。静かな森。風通しの良い屋敷。そして……」
彼女は言葉を切り、少しだけ視線を逸らした。
「……従業員の意思を尊重してくれる、今の雇用主のもとで働くことに、誇りを持っています。それとも、旦那様は」
彼女の声が、わずかに震えた気がした。
「……私のような、重くて暗いメイドは、お邪魔でしょうか。もっと愛想の良い、普通のメイドの方がよろしいですか?」
ドキリとした。 とんでもない。邪魔なものか。 彼女がいなくなったら、俺の生活は――いや、俺の心は、またあの色のない冬に逆戻りだ。
「そんなわけがない!」
俺は思わず立ち上がっていた。 大きな声を出してしまい、自分で驚く。
「き、君がいてくれて助かっている。それはもう、痛いほどに。ただ……俺のようなおっさんの所に縛り付けておくのが、申し訳ないと思っただけで……」
言い訳がましい自分の言葉に、自己嫌悪が募る。 すると、ノア君はキョトンと目を丸くし、それからふわりと、安堵のため息を吐いた。
「……縛り付けてなどいません。私が、ここにいたいのです」 「ノア君……」 「ですから、このお話はお断りします。よろしいですね?」
彼女の断言に、俺は力が抜けて椅子に座り込んだ。 なんだ。 俺が勝手に気を使っていただけか。
「……ああ。君が良いなら、俺は何も言わない。むしろ、いてくれるなら嬉しい」
「はい。では、そのように返信しておきます」
彼女は手紙を丁寧に(しかし躊躇なく)折り畳み、エプロンのポケットに仕舞い込んだ。 その仕草が「これは私の獲物です」と言っているようで、少し可笑しかった。
***
その夜。 キッチンで洗い物をしながら、私は大きく息を吐き出した。 心臓が止まるかと思った。
旦那様が手紙を見せてきた時、私は「ああ、ついに解雇通告か」と本気で覚悟したのだ。 『もっと良い条件のところがあるから、そっちに行きなさい』。 それは体の良い厄介払いの定型句だ。 私のことが邪魔になったのか。それとも、やはりあのマフラーの一件以来、私と一緒にいるのが辛くなったのか。
けれど、彼の言葉は違った。 『俺のようなおっさんの所に縛り付けておくのが申し訳ない』。
(……この人は、本当に)
どこまでも自己評価が低くて、誠実すぎる人だ。 私の幸せを本気で考えて、自分の寂しさを押し殺して送り出そうとしてくれた。その不器用な優しさが、痛いほど伝わってきた。
三倍の給金? 王都での生活? そんなもの、今の私には紙切れほどの価値もない。 数字や効率に追われる日々に戻るくらいなら、この森の屋敷で、彼と一緒に静かにお茶を飲んでいる時間のほうが、何億倍も価値がある。
私は窓の外を見た。 春の月が明るい。
断りの手紙は明日出すつもりだ。 けれど、相手はあのガランド商会。強欲で有名な商人だ。手紙一本で引き下がるとは思えない。 嫌な予感がする。
私は無意識に、重装メイド服の袖を握りしめた。 誰が来ようと、関係ない。 ここは私の職場だ。私の居場所だ。 誰にも――たとえ王様だろうと、奪わせたりはしない。
穏やかな昼下がり。俺、アルベルトはリビングの窓辺で、届いたばかりの一通の手紙を前に腕組みをしていた。
封筒は上質な羊皮紙でできており、封蝋には金粉が混ぜられている。差出人の名は『ガランド商会』。王都でも五指に入る大商会だ。 俺が剣術指南役として出入りしている貴族の紹介だろうか。 だが、問題はその中身だ。
「……引き抜き、か」
俺は重い溜息をついた。 手紙の文面は丁寧だが、要約すればこういうことだ。 『先日、街でお見かけした貴殿のメイドの所作と、彼女が身につけていた制服の仕立てに感銘を受けた。ぜひ我が家の専属として迎え入れたい。給金は現在の三倍を用意する』
先日、というのはマフラーのお礼に街へ出かけた時のことだろう。 あの時、ノア君は普通のワンピースに着替えていたが、あの重装メイド服を着ていた時間もあった。 目ざとい商人のことだ。彼女の立ち居振る舞いの美しさと、あの服が「ただのメイド服」ではない(魔導防護服としての価値)ことを見抜いたのかもしれない。
俺はチラリとキッチンの方を見た。 バサリ、という重厚な衣擦れの音と共に、ノア君が紅茶のワゴンを押してくるところだった。
「お茶が入りました。本日はダージリンのファーストフラッシュです」
彼女は表情一つ変えず、流れるような手つきでカップに紅茶を注ぐ。 春になり、気温も上がってきた。普通なら暑苦しいはずの重装メイド服だが、彼女は涼しい顔をしている。空調魔法が完璧に機能している証拠だ。 その鉄壁の姿は、この数ヶ月ですっかり我が家の日常風景として定着していた。
俺はカップを受け取りながら、迷った末に手紙をテーブルに滑らせた。
「ノア君。君宛て……というよりは、君に関する手紙が来ている」
「私に、ですか?」
彼女が小首を傾げる。 俺は努めて冷静に、経営者としての顔を作った。
「ガランド商会を知っているか? 王都の大手だ。彼らが、君を雇いたいと言ってきている」
「…………」
「条件は破格だ。給金は今の三倍。王都の一等地に住み込みで、休暇も保証されている。……君の技術と能力を高く評価してのことだそうだ」
言いながら、胸の奥がズキリと痛む。 三倍。 俺のような片田舎の隠居騎士が払える給料など、たかが知れている。彼女の腕前なら、もっと華やかな場所で、もっと正当な評価を受けるべきなのは明白だ。 あのマフラーの修繕技術一つとっても、彼女がここにいるのは「才能の無駄遣い」なのかもしれない。
俺は、彼女の将来を一番に考えるべきだ。 それが、雇用主としての責任であり、年長者としての務めだ。
「……悪い話じゃないと思う。君のキャリアを考えれば、王都の大きな屋敷で働くほうが――」
そこまで言った時だった。 カチャン、と硬質な音が響いた。 ノア君が、ティーポットを置いた音だ。いつもなら音もなく置く彼女にしては珍しく、少し乱暴な響きだった。
顔を上げると、彼女は俺を見ていなかった。 視線は手紙に落とされているが、その瞳は氷のように冷え切っている。
「……旦那様」
「ん、なんだ」
「この手紙を、どう処理しろと?」
声のトーンが低い。 俺はたじろぎながらも、言葉を継ぐ。
「いや、処理というか……君の意思を確認したくてな。もし興味があるなら、先方と話を――」
「ゴミ箱でよろしいですか?」
「えっ」
彼女は手紙を指先で摘み上げ、汚いものでも見るような目つきで言った。
「興味がありません。以上です」 「い、いや待ちなさい! 三倍だぞ? それにガランド商会といえば、王室御用達の……」 「お金の問題ではありません」
彼女はぴしゃりと言い放った。 そして、俺の目を真っ直ぐに見据える。その瞳の奥には、怒りのような、あるいは縋るような光が揺れていた。
「私は、今の職場環境に満足しています。静かな森。風通しの良い屋敷。そして……」
彼女は言葉を切り、少しだけ視線を逸らした。
「……従業員の意思を尊重してくれる、今の雇用主のもとで働くことに、誇りを持っています。それとも、旦那様は」
彼女の声が、わずかに震えた気がした。
「……私のような、重くて暗いメイドは、お邪魔でしょうか。もっと愛想の良い、普通のメイドの方がよろしいですか?」
ドキリとした。 とんでもない。邪魔なものか。 彼女がいなくなったら、俺の生活は――いや、俺の心は、またあの色のない冬に逆戻りだ。
「そんなわけがない!」
俺は思わず立ち上がっていた。 大きな声を出してしまい、自分で驚く。
「き、君がいてくれて助かっている。それはもう、痛いほどに。ただ……俺のようなおっさんの所に縛り付けておくのが、申し訳ないと思っただけで……」
言い訳がましい自分の言葉に、自己嫌悪が募る。 すると、ノア君はキョトンと目を丸くし、それからふわりと、安堵のため息を吐いた。
「……縛り付けてなどいません。私が、ここにいたいのです」 「ノア君……」 「ですから、このお話はお断りします。よろしいですね?」
彼女の断言に、俺は力が抜けて椅子に座り込んだ。 なんだ。 俺が勝手に気を使っていただけか。
「……ああ。君が良いなら、俺は何も言わない。むしろ、いてくれるなら嬉しい」
「はい。では、そのように返信しておきます」
彼女は手紙を丁寧に(しかし躊躇なく)折り畳み、エプロンのポケットに仕舞い込んだ。 その仕草が「これは私の獲物です」と言っているようで、少し可笑しかった。
***
その夜。 キッチンで洗い物をしながら、私は大きく息を吐き出した。 心臓が止まるかと思った。
旦那様が手紙を見せてきた時、私は「ああ、ついに解雇通告か」と本気で覚悟したのだ。 『もっと良い条件のところがあるから、そっちに行きなさい』。 それは体の良い厄介払いの定型句だ。 私のことが邪魔になったのか。それとも、やはりあのマフラーの一件以来、私と一緒にいるのが辛くなったのか。
けれど、彼の言葉は違った。 『俺のようなおっさんの所に縛り付けておくのが申し訳ない』。
(……この人は、本当に)
どこまでも自己評価が低くて、誠実すぎる人だ。 私の幸せを本気で考えて、自分の寂しさを押し殺して送り出そうとしてくれた。その不器用な優しさが、痛いほど伝わってきた。
三倍の給金? 王都での生活? そんなもの、今の私には紙切れほどの価値もない。 数字や効率に追われる日々に戻るくらいなら、この森の屋敷で、彼と一緒に静かにお茶を飲んでいる時間のほうが、何億倍も価値がある。
私は窓の外を見た。 春の月が明るい。
断りの手紙は明日出すつもりだ。 けれど、相手はあのガランド商会。強欲で有名な商人だ。手紙一本で引き下がるとは思えない。 嫌な予感がする。
私は無意識に、重装メイド服の袖を握りしめた。 誰が来ようと、関係ない。 ここは私の職場だ。私の居場所だ。 誰にも――たとえ王様だろうと、奪わせたりはしない。
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