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第3部_「右手に剣を。左手に血を」
第41話:観測者のエラー
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深夜の王立魔導研究院、第4研究室。 無機質な魔導ランプの光が、積み上げられた書類の山と、部屋の主であるミトスの横顔を白く照らしていた。
ペンを走らせる音が、不意に止まる。 廊下の向こうから近づいてくる足音。重く、引きずるような、それでいてどこか焦燥を含んだリズム。 何百回と聞いてきた足音だ。顔を見なくても、誰が来たのか、どれくらい疲弊しているのか、ミトスには「数値」として予測できてしまう。
ガチャリ、と扉が開く。
「……遅かったわね。検体ナンバーワン」
ミトスは椅子を回転させ、努めていつもの憎まれ口を叩いた。 だが、入り口に立つ男――アルベルトの姿を見た瞬間、彼女の喉の奥で軽口が凍りついた。
泥と血にまみれているのは、いつものことだ。 だが、今日の彼は違った。 常に氷のように凪いでいるはずの瞳が、熱を帯び、小刻みに揺れている。肩で息をするたびに、彼が纏っていた「最強」という名の完璧な鎧が、内側から崩れ落ちていくような危うさがあった。
「……ミトス。処置を頼む」
アルベルトは診察台に腰掛け、上着を脱いだ。 露わになった胴体には、肋骨に沿って青黒い痣が広がり、浅い切り傷がいくつも走っていた。
ミトスは無言で消毒液と包帯を手に取り、彼のそばに立った。 傷口を見る。 ――浅い。 致命傷を避けた、というよりは……「避けるのが一瞬遅れた」傷だ。 かつての彼なら、紙一重で見切っていたはずの攻撃。それが皮膚を裂いている。 反射神経の低下? いや、違う。
「……迷ったのね?」
ミトスがガーゼを当てながら問うと、アルベルトの筋肉がビクリと反応した。
「敵の攻撃が見えなかったわけじゃない。……踏み込む瞬間に、ブレーキがかかった。そんな傷の入り方よ」
彼女はずっと彼を観測してきた。 彼の筋肉の動き、魔力の流れ、思考の癖。 誰よりも彼を知っているという自負があった。だからこそ、分かってしまう。 彼の「機能」に、今まで存在しなかった「ノイズ」が混じっていることに。
「……ああ。お前の言う通りだ」
アルベルトは視線を落とし、自嘲気味に笑った。 その表情は、ミトスが一度も見たことのない、ひどく人間臭い弱さを孕んでいた。
「魔獣の爪が迫った時……以前なら、肉を切らせて骨を断つ覚悟で踏み込めた。自分の腕の一本くらい、勝利の対価としては安いと思っていたからな」
彼は自分の掌をじっと見つめた。 泥と血で汚れた、無骨な手。
「だが、足がすくんだ。……死にたくない、と思ってしまった」
ミトスの手が、包帯を巻く途中で止まる。 死を恐れる? この男が? 死ぬことすら「任務完了のためのコスト」と割り切っていた、あの機械のような男が?
「あの温かい場所に、二度と戻れないかもしれない。……彼女に、もう会えなくなるかもしれない。そう思ったら……怖くて、剣が鈍った」
彼女。 その単語が出た瞬間、ミトスの胸の奥で、カシャンと何かが壊れる音がした。
知っていた。最近、彼が変わったことは。 顔色が良くなり、棘が消え、時折柔らかい表情を見せるようになったこと。 その原因が、路地裏の定食屋にいる女性であることも、調査済みだった。
――ああ、そう。 そういうことなのね。
ミトスは唇を噛み締め、再び包帯を巻き始めた。少しきつく、彼を縛り付けるように。
私が治せなかった部分を。 私がどれだけデータを集めても、薬を調合しても、決して埋めることのできなかった彼の心の空洞を。 その「彼女」は、いとも簡単に埋めてしまったのだ。 恐怖という名の、人間としての感情を注ぎ込むことで。
「……弱くなったわね、アルベルト」
ミトスは震えそうになる声を、冷たい理屈で押し込めた。
「恐怖は判断を鈍らせる。生存本能は時に、最適な行動を阻害するわ。……今の貴方は、兵器としては欠陥品よ」
意地悪な言葉だった。 けれど、アルベルトは怒らなかった。それどころか、困ったように眉を下げて、「そうだな」と肯定したのだ。
「欠陥品か。……違いない。だが、ミトス」
彼は顔を上げ、ミトスを真っ直ぐに見た。 その瞳には、かつての虚無ではなく、燃えるような「生」への執着が宿っていた。
「弱くなって初めて分かった。……俺は今まで、生きていなかったんだな」
ミトスは息を呑んだ。 目の前にいるのは、自分の知っているアルベルトではなかった。 データ通りの反応を返さない。予測不能なエラーばかり吐き出す。 そして、そのエラーの原因となっている「誰か」のことを想い、これほどまでに切実な顔をしている。
悔しかった。 彼を変えたのが、私の言葉でも、私の技術でもないことが。 一番近くで観測していたはずなのに、私は彼にとって、ただの「修理屋」でしかなかったことが。
(……帰りなさいよ)
心の中で、悲鳴のように呟いた。 ここにいてほしくない。こんな、他の女のために人間になった貴方を、これ以上見ていたくない。 でも、口をついて出たのは、研究員としての、精一杯の強がりだった。
「……なら、証明してみせなさいよ」
ミトスは包帯を止め、パチンと留め具をはめた。 そして、白衣のポケットに両手を突っ込み、彼から視線を逸らした。
「その『恐怖』とやらが、貴方を弱くしたのか。それとも、生きて帰るための新しい駆動力になるのか。……データを取らないと分からないわ」
アルベルトが上着を羽織る。 立ち上がった彼の背中は、来た時よりも大きく、そして遠く感じられた。
「ありがとう、ミトス。……行ってくる」
彼は駆け出した。 痛みなど忘れたかのように。ミトスがいる研究室のことなど、もう頭の片隅にもないかのように。 ただ一つの、愛しい場所へ向かって。
バタン、と扉が閉まる。 静寂が戻った部屋に、魔導ランプの低い唸りだけが残された。
ミトスは、彼が座っていた診察台に、そっと手を置いた。 まだ、微かに温かい。 けれど、この体温は、決して自分に向けられることはない。
「……馬鹿な男」
眼鏡を外すと、視界が滲んで歪んだ。 「私は……壊れないように直してあげたかっただけなのに」
人間になんてならなくてよかった。 ただの兵器のままでいてくれれば、ずっと私が管理してあげられたのに。 恐怖なんて知らないままでいれば、こんな風に、誰かのもとへ必死に走っていく後ろ姿を見なくて済んだのに。
ポタリ、と机の上に雫が落ちる。 ミトスはそれを指で拭い、自嘲気味に笑った。
「……観測終了。……対象は、正常に『人間』へと移行しました」
誰もいない部屋で、報告する相手もいない観測結果を呟く。 それが、彼女の長く秘めた想いに打たれた、静かな終止符だった。
ペンを走らせる音が、不意に止まる。 廊下の向こうから近づいてくる足音。重く、引きずるような、それでいてどこか焦燥を含んだリズム。 何百回と聞いてきた足音だ。顔を見なくても、誰が来たのか、どれくらい疲弊しているのか、ミトスには「数値」として予測できてしまう。
ガチャリ、と扉が開く。
「……遅かったわね。検体ナンバーワン」
ミトスは椅子を回転させ、努めていつもの憎まれ口を叩いた。 だが、入り口に立つ男――アルベルトの姿を見た瞬間、彼女の喉の奥で軽口が凍りついた。
泥と血にまみれているのは、いつものことだ。 だが、今日の彼は違った。 常に氷のように凪いでいるはずの瞳が、熱を帯び、小刻みに揺れている。肩で息をするたびに、彼が纏っていた「最強」という名の完璧な鎧が、内側から崩れ落ちていくような危うさがあった。
「……ミトス。処置を頼む」
アルベルトは診察台に腰掛け、上着を脱いだ。 露わになった胴体には、肋骨に沿って青黒い痣が広がり、浅い切り傷がいくつも走っていた。
ミトスは無言で消毒液と包帯を手に取り、彼のそばに立った。 傷口を見る。 ――浅い。 致命傷を避けた、というよりは……「避けるのが一瞬遅れた」傷だ。 かつての彼なら、紙一重で見切っていたはずの攻撃。それが皮膚を裂いている。 反射神経の低下? いや、違う。
「……迷ったのね?」
ミトスがガーゼを当てながら問うと、アルベルトの筋肉がビクリと反応した。
「敵の攻撃が見えなかったわけじゃない。……踏み込む瞬間に、ブレーキがかかった。そんな傷の入り方よ」
彼女はずっと彼を観測してきた。 彼の筋肉の動き、魔力の流れ、思考の癖。 誰よりも彼を知っているという自負があった。だからこそ、分かってしまう。 彼の「機能」に、今まで存在しなかった「ノイズ」が混じっていることに。
「……ああ。お前の言う通りだ」
アルベルトは視線を落とし、自嘲気味に笑った。 その表情は、ミトスが一度も見たことのない、ひどく人間臭い弱さを孕んでいた。
「魔獣の爪が迫った時……以前なら、肉を切らせて骨を断つ覚悟で踏み込めた。自分の腕の一本くらい、勝利の対価としては安いと思っていたからな」
彼は自分の掌をじっと見つめた。 泥と血で汚れた、無骨な手。
「だが、足がすくんだ。……死にたくない、と思ってしまった」
ミトスの手が、包帯を巻く途中で止まる。 死を恐れる? この男が? 死ぬことすら「任務完了のためのコスト」と割り切っていた、あの機械のような男が?
「あの温かい場所に、二度と戻れないかもしれない。……彼女に、もう会えなくなるかもしれない。そう思ったら……怖くて、剣が鈍った」
彼女。 その単語が出た瞬間、ミトスの胸の奥で、カシャンと何かが壊れる音がした。
知っていた。最近、彼が変わったことは。 顔色が良くなり、棘が消え、時折柔らかい表情を見せるようになったこと。 その原因が、路地裏の定食屋にいる女性であることも、調査済みだった。
――ああ、そう。 そういうことなのね。
ミトスは唇を噛み締め、再び包帯を巻き始めた。少しきつく、彼を縛り付けるように。
私が治せなかった部分を。 私がどれだけデータを集めても、薬を調合しても、決して埋めることのできなかった彼の心の空洞を。 その「彼女」は、いとも簡単に埋めてしまったのだ。 恐怖という名の、人間としての感情を注ぎ込むことで。
「……弱くなったわね、アルベルト」
ミトスは震えそうになる声を、冷たい理屈で押し込めた。
「恐怖は判断を鈍らせる。生存本能は時に、最適な行動を阻害するわ。……今の貴方は、兵器としては欠陥品よ」
意地悪な言葉だった。 けれど、アルベルトは怒らなかった。それどころか、困ったように眉を下げて、「そうだな」と肯定したのだ。
「欠陥品か。……違いない。だが、ミトス」
彼は顔を上げ、ミトスを真っ直ぐに見た。 その瞳には、かつての虚無ではなく、燃えるような「生」への執着が宿っていた。
「弱くなって初めて分かった。……俺は今まで、生きていなかったんだな」
ミトスは息を呑んだ。 目の前にいるのは、自分の知っているアルベルトではなかった。 データ通りの反応を返さない。予測不能なエラーばかり吐き出す。 そして、そのエラーの原因となっている「誰か」のことを想い、これほどまでに切実な顔をしている。
悔しかった。 彼を変えたのが、私の言葉でも、私の技術でもないことが。 一番近くで観測していたはずなのに、私は彼にとって、ただの「修理屋」でしかなかったことが。
(……帰りなさいよ)
心の中で、悲鳴のように呟いた。 ここにいてほしくない。こんな、他の女のために人間になった貴方を、これ以上見ていたくない。 でも、口をついて出たのは、研究員としての、精一杯の強がりだった。
「……なら、証明してみせなさいよ」
ミトスは包帯を止め、パチンと留め具をはめた。 そして、白衣のポケットに両手を突っ込み、彼から視線を逸らした。
「その『恐怖』とやらが、貴方を弱くしたのか。それとも、生きて帰るための新しい駆動力になるのか。……データを取らないと分からないわ」
アルベルトが上着を羽織る。 立ち上がった彼の背中は、来た時よりも大きく、そして遠く感じられた。
「ありがとう、ミトス。……行ってくる」
彼は駆け出した。 痛みなど忘れたかのように。ミトスがいる研究室のことなど、もう頭の片隅にもないかのように。 ただ一つの、愛しい場所へ向かって。
バタン、と扉が閉まる。 静寂が戻った部屋に、魔導ランプの低い唸りだけが残された。
ミトスは、彼が座っていた診察台に、そっと手を置いた。 まだ、微かに温かい。 けれど、この体温は、決して自分に向けられることはない。
「……馬鹿な男」
眼鏡を外すと、視界が滲んで歪んだ。 「私は……壊れないように直してあげたかっただけなのに」
人間になんてならなくてよかった。 ただの兵器のままでいてくれれば、ずっと私が管理してあげられたのに。 恐怖なんて知らないままでいれば、こんな風に、誰かのもとへ必死に走っていく後ろ姿を見なくて済んだのに。
ポタリ、と机の上に雫が落ちる。 ミトスはそれを指で拭い、自嘲気味に笑った。
「……観測終了。……対象は、正常に『人間』へと移行しました」
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