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第3部_「右手に剣を。左手に血を」
第42話:陽だまりのプロポーズ
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その年の冬は、王都の歴史の中でも類を見ないほど厳しく、そして暗いものだった。 空は常に鉛色の雲に覆われ、太陽が顔を出すことは稀だった。だが、人々の心を本当に凍えさせていたのは、寒波ではなく、北の国境から絶え間なく届く凶報だった。
隣国の大規模な侵攻。 国境砦の陥落。 戦死者のリストが毎朝、城門の掲示板に張り出され、その前で泣き崩れる遺族の姿が日常風景となっていた。
「剣聖」アルベルト・ヴィスマルクの日常もまた、限界まで張り詰めていた。 睡眠時間は削られ、食事は移動中に流し込むだけのものとなり、泥と血を洗い流す暇さえない。 彼は王国の守護神として、最も危険な戦場へと投入され続け、その圧倒的な武力で辛うじて戦線を支えていた。
だが、彼の心の内側は、以前とは全く異なっていた。 かつてのような虚無はない。代わりに、焼け付くような焦燥と恐怖が常に渦巻いていた。
(……帰らなければ)
敵を斬り伏せるたびに、彼は思う。 早く帰りたい。あの温かい場所へ。 もし、この一撃を受け損ねたら。もし、背後から矢を受けたら。 二度と彼女のシチューを食べることはできない。彼女の笑顔を見ることもできない。 その想像が、彼の剣を以前よりも鋭く、そして慎重にさせていた。
ある日の午後。 アルベルトは、次の長期遠征への出発命令を受けた。 行き先は北部の最前線。期間は未定。生還率が極めて低い、事実上の決死行だ。
司令室を出た彼は、迷うことなく街の鍛冶屋へと向かった。 華やかな宝石店ではない。彼が剣の整備を頼んでいる、無骨な職人が営む店だ。
「……親父。頼みがある」 「なんだ、また剣の打ち直しか? いい加減にしないと鉄が持たねえぞ」 「違う。……指輪を作ってほしい」
アルベルトの言葉に、頑固そうな鍛冶屋の主人が目を丸くした。 アルベルトは懐から、なけなしの給金が入った革袋を取り出した。宝石などついていなくていい。戦場でも砕けないような、丈夫で、そして何よりも純粋な銀の指輪が欲しかった。
「……相手は、誰だ」 「俺には過ぎた、太陽のような人だ」
主人はニヤリと笑い、金を受け取らずに槌を振るい始めた。
***
その日の夜、王都には冷たい雨が降りしきっていた。 石畳を叩く激しい雨音が、街の喧騒をかき消していく。
『定食屋 ひだまり亭』。 営業時間を終え、客のいなくなった店内で、レティは一人、翌日の仕込みをしていた。 外は嵐のようだ。窓ガラスがガタガタと揺れている。 彼女はふと手を止め、心配そうに窓の外を見上げた。
「……アルさん、大丈夫かな」
彼が忙しいことは知っている。ここ数日、店に来ることもできないほど、過酷な任務に就いていることも。 会いたい。 無事な顔を見たい。 でも、それは贅沢な願いなのだろうか。彼は国を守る立派な騎士様で、自分はただの定食屋の娘なのだから。
その時だった。 店の扉が、ドンドンドンと叩かれた。
「……レティ! いるか!」
聞き間違えるはずもない声。 レティは弾かれたように駆け出し、鍵を開けた。 突風と共に、雨の匂いと冷気が吹き込んでくる。
「アルさん!?」
そこに立っていたのは、傘も差さず、ずぶ濡れになったアルベルトだった。 水滴が銀髪から滴り落ち、肩を濡らしている。息は荒く、まるでどこかから全力で走ってきたようだった。
「どうしたんですか、こんな嵐の日に……! とにかく中へ! 今、タオルを……」 「いや、いい」
アルベルトは、タオルを取りに行こうとしたレティの腕を掴んだ。 彼の手は冷え切っていたが、その握る力は痛いほど強かった。
「……時間がないんだ。明日、また遠征に行く」 「え……」 「今度は、北の最前線だ。……いつ戻れるか、そもそも戻れるかどうかも分からない」
レティの心臓が、早鐘を打った。 彼の瞳が、見たこともないほど切羽詰まっていたからだ。 死を覚悟した人間の目ではない。 生きたいと、強く願い、何かにすがりつこうとする人間の目だ。
「レティ。聞いてくれ」
アルベルトは、その場で片膝をついた。 雨水で濡れた床に、騎士の膝がつく。 彼は震える手で、懐から小さな布包みを取り出した。
「俺は、血塗れの人殺しだ。これまでの人生で、多くの命を奪い、多くの恨みを買ってきた。……君のような綺麗で、優しい人が、関わっていい人間じゃない」
彼は言葉を詰まらせ、それでも視線を逸らさずに続けた。
「俺の手は汚れている。この先も、きっと汚れ続けるだろう。……君を幸せにするどころか、俺と一緒にいることで、君に悲しい思いをさせるかもしれない」
雷鳴が轟く。 店内のランプが揺れる。 アルベルトは、包みを開いた。中には、飾り気のない、けれど月明かりのように静かに輝く、銀の指輪があった。
「でも……俺は、君なしじゃ生きられない」
それは、懇願だった。 最強の剣聖が、全ての鎧を脱ぎ捨て、ただ一人の弱い男として、目の前の女性に救いを求めていた。
「戦場で、死ぬのが怖くなった。……君に会えなくなると思うと、足がすくむんだ。俺を……臆病者にしてほしい」
彼は指輪を差し出した。
「俺に、生きる理由をくれ。……俺の、帰る場所になってくれ」
レティの目から、涙が溢れ出した。 彼女はずっと、この瞬間を待っていたわけではない。 彼が騎士様だから好きになったわけではない。 ただ、不器用で、優しくて、いつも寂しそうな背中をしたこの人が、どうしようもなく愛おしかっただけだ。
「……バカな人」
彼女は泣き笑いのような顔で、アルベルトの前にしゃがみ込んだ。 そして、彼の手を取り、自分の頬に押し当てた。 冷たくて、大きくて、傷だらけの手。
「私が、どれだけ貴方のことを待っていたと思ってるんですか。……随分と、お待たせしましたね」
彼女は、自分の左手を差し出した。 アルベルトは、震える指先で、指輪を彼女の薬指に通した。 関節が太く、無骨な彼の手とは対照的な、白く細い指。 銀の輪は、吸い込まれるように彼女の指に収まった。
「……サイズ、合ってるか?」 「ぴったりです。……まるで、最初から私のためにあったみたい」
レティは指輪を見つめ、それからアルベルトの首に抱きついた。 雨の匂いと、彼の体温。 彼女は力の限り、彼を抱きしめ返した。
「はい。……喜んで。貴方のお嫁さんにしてください」
アルベルトの腕が、彼女の背中に回る。 強く、壊れそうなほど強く抱きしめられる。 彼の鼓動が、痛いほど伝わってくる。
「ありがとう……レティ。ありがとう……」
彼の声が震えていた。 それが、安堵によるものなのか、それともこれから向かう死地への恐怖を振り払うためのものなのか、レティには分からなかった。 ただ一つ確かなことは、今この瞬間、世界で一番孤独だった男と、彼を愛した女が、一つの「家族」になったということだ。
外の嵐は激しさを増していた。 だが、二人の間には、誰も侵すことのできない温かな陽だまりがあった。
これが、彼らの短くも鮮烈な結婚生活の始まりだった。 運命の歯車が、残酷な音を立てて回り始めていることになど、気づく由もなく。
隣国の大規模な侵攻。 国境砦の陥落。 戦死者のリストが毎朝、城門の掲示板に張り出され、その前で泣き崩れる遺族の姿が日常風景となっていた。
「剣聖」アルベルト・ヴィスマルクの日常もまた、限界まで張り詰めていた。 睡眠時間は削られ、食事は移動中に流し込むだけのものとなり、泥と血を洗い流す暇さえない。 彼は王国の守護神として、最も危険な戦場へと投入され続け、その圧倒的な武力で辛うじて戦線を支えていた。
だが、彼の心の内側は、以前とは全く異なっていた。 かつてのような虚無はない。代わりに、焼け付くような焦燥と恐怖が常に渦巻いていた。
(……帰らなければ)
敵を斬り伏せるたびに、彼は思う。 早く帰りたい。あの温かい場所へ。 もし、この一撃を受け損ねたら。もし、背後から矢を受けたら。 二度と彼女のシチューを食べることはできない。彼女の笑顔を見ることもできない。 その想像が、彼の剣を以前よりも鋭く、そして慎重にさせていた。
ある日の午後。 アルベルトは、次の長期遠征への出発命令を受けた。 行き先は北部の最前線。期間は未定。生還率が極めて低い、事実上の決死行だ。
司令室を出た彼は、迷うことなく街の鍛冶屋へと向かった。 華やかな宝石店ではない。彼が剣の整備を頼んでいる、無骨な職人が営む店だ。
「……親父。頼みがある」 「なんだ、また剣の打ち直しか? いい加減にしないと鉄が持たねえぞ」 「違う。……指輪を作ってほしい」
アルベルトの言葉に、頑固そうな鍛冶屋の主人が目を丸くした。 アルベルトは懐から、なけなしの給金が入った革袋を取り出した。宝石などついていなくていい。戦場でも砕けないような、丈夫で、そして何よりも純粋な銀の指輪が欲しかった。
「……相手は、誰だ」 「俺には過ぎた、太陽のような人だ」
主人はニヤリと笑い、金を受け取らずに槌を振るい始めた。
***
その日の夜、王都には冷たい雨が降りしきっていた。 石畳を叩く激しい雨音が、街の喧騒をかき消していく。
『定食屋 ひだまり亭』。 営業時間を終え、客のいなくなった店内で、レティは一人、翌日の仕込みをしていた。 外は嵐のようだ。窓ガラスがガタガタと揺れている。 彼女はふと手を止め、心配そうに窓の外を見上げた。
「……アルさん、大丈夫かな」
彼が忙しいことは知っている。ここ数日、店に来ることもできないほど、過酷な任務に就いていることも。 会いたい。 無事な顔を見たい。 でも、それは贅沢な願いなのだろうか。彼は国を守る立派な騎士様で、自分はただの定食屋の娘なのだから。
その時だった。 店の扉が、ドンドンドンと叩かれた。
「……レティ! いるか!」
聞き間違えるはずもない声。 レティは弾かれたように駆け出し、鍵を開けた。 突風と共に、雨の匂いと冷気が吹き込んでくる。
「アルさん!?」
そこに立っていたのは、傘も差さず、ずぶ濡れになったアルベルトだった。 水滴が銀髪から滴り落ち、肩を濡らしている。息は荒く、まるでどこかから全力で走ってきたようだった。
「どうしたんですか、こんな嵐の日に……! とにかく中へ! 今、タオルを……」 「いや、いい」
アルベルトは、タオルを取りに行こうとしたレティの腕を掴んだ。 彼の手は冷え切っていたが、その握る力は痛いほど強かった。
「……時間がないんだ。明日、また遠征に行く」 「え……」 「今度は、北の最前線だ。……いつ戻れるか、そもそも戻れるかどうかも分からない」
レティの心臓が、早鐘を打った。 彼の瞳が、見たこともないほど切羽詰まっていたからだ。 死を覚悟した人間の目ではない。 生きたいと、強く願い、何かにすがりつこうとする人間の目だ。
「レティ。聞いてくれ」
アルベルトは、その場で片膝をついた。 雨水で濡れた床に、騎士の膝がつく。 彼は震える手で、懐から小さな布包みを取り出した。
「俺は、血塗れの人殺しだ。これまでの人生で、多くの命を奪い、多くの恨みを買ってきた。……君のような綺麗で、優しい人が、関わっていい人間じゃない」
彼は言葉を詰まらせ、それでも視線を逸らさずに続けた。
「俺の手は汚れている。この先も、きっと汚れ続けるだろう。……君を幸せにするどころか、俺と一緒にいることで、君に悲しい思いをさせるかもしれない」
雷鳴が轟く。 店内のランプが揺れる。 アルベルトは、包みを開いた。中には、飾り気のない、けれど月明かりのように静かに輝く、銀の指輪があった。
「でも……俺は、君なしじゃ生きられない」
それは、懇願だった。 最強の剣聖が、全ての鎧を脱ぎ捨て、ただ一人の弱い男として、目の前の女性に救いを求めていた。
「戦場で、死ぬのが怖くなった。……君に会えなくなると思うと、足がすくむんだ。俺を……臆病者にしてほしい」
彼は指輪を差し出した。
「俺に、生きる理由をくれ。……俺の、帰る場所になってくれ」
レティの目から、涙が溢れ出した。 彼女はずっと、この瞬間を待っていたわけではない。 彼が騎士様だから好きになったわけではない。 ただ、不器用で、優しくて、いつも寂しそうな背中をしたこの人が、どうしようもなく愛おしかっただけだ。
「……バカな人」
彼女は泣き笑いのような顔で、アルベルトの前にしゃがみ込んだ。 そして、彼の手を取り、自分の頬に押し当てた。 冷たくて、大きくて、傷だらけの手。
「私が、どれだけ貴方のことを待っていたと思ってるんですか。……随分と、お待たせしましたね」
彼女は、自分の左手を差し出した。 アルベルトは、震える指先で、指輪を彼女の薬指に通した。 関節が太く、無骨な彼の手とは対照的な、白く細い指。 銀の輪は、吸い込まれるように彼女の指に収まった。
「……サイズ、合ってるか?」 「ぴったりです。……まるで、最初から私のためにあったみたい」
レティは指輪を見つめ、それからアルベルトの首に抱きついた。 雨の匂いと、彼の体温。 彼女は力の限り、彼を抱きしめ返した。
「はい。……喜んで。貴方のお嫁さんにしてください」
アルベルトの腕が、彼女の背中に回る。 強く、壊れそうなほど強く抱きしめられる。 彼の鼓動が、痛いほど伝わってくる。
「ありがとう……レティ。ありがとう……」
彼の声が震えていた。 それが、安堵によるものなのか、それともこれから向かう死地への恐怖を振り払うためのものなのか、レティには分からなかった。 ただ一つ確かなことは、今この瞬間、世界で一番孤独だった男と、彼を愛した女が、一つの「家族」になったということだ。
外の嵐は激しさを増していた。 だが、二人の間には、誰も侵すことのできない温かな陽だまりがあった。
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