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第3部_「右手に剣を。左手に血を」
第43話:蝕まれる幸せ
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その借家は、王都の外れ、静かな住宅街の片隅にあった。 古びてはいたが、庭には小さな花壇があり、日当たりだけは良い。 アルベルトとレティの新婚生活は、そこで始まった。
朝、鳥のさえずりと共に目覚めると、キッチンからトントンと包丁を叩く音が聞こえる。 漂ってくるコーヒーと、焼きたてのパンの香り。 アルベルトが寝室を出ると、エプロン姿のレティが「おはようございます、あなた」と微笑みかける。 以前の彼なら、朝は泥のように眠るか、即座に武装して戦場へ向かうだけの時間だった。だが今は、彼女と向かい合って食卓を囲み、「いただきます」と言ってスープを飲む時間が、一日の始まりだった。
「アルさん、ネクタイ曲がってますよ」 「……む。自分では直したつもりだったんだが」 「ふふ、貸してください」
玄関先で、彼女が背伸びをして襟元を整えてくれる。 その距離の近さに、未だに心臓が早鐘を打つ自分がおかしくて、アルベルトは苦笑した。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」 「ああ。……行ってくる」
頬に触れる柔らかい感触。 扉を閉めた後も、その温もりが残っている。 守るべきものがある。帰る場所がある。 その事実は、アルベルトにかつてないほどの力と、そして安らぎを与えていた。
この幸せが、永遠に続くと信じていた。 いや、信じたかった。 彼が積み上げてきた罪や、血塗れの過去が、こんな穏やかな結末を許してくれるはずがないと、心のどこかで分かっていたからこそ、彼はこの日々に縋り付いていたのかもしれない。
異変は、静かに、そして確実に忍び寄っていた。
ある休日の午後。 二人はキッチンに立ち、夕食の準備をしていた。 アルベルトが不器用な手つきでジャガイモを剥き、レティが鍋をかき混ぜる。 穏やかな時間。 その時だった。
カチャン。
乾いた音が響いた。 レティの手から、おたまが滑り落ちていた。
「……あ」
彼女は呆然と床を見つめていた。 アルベルトは手を止め、彼女の顔を覗き込んだ。
「どうした? 手が滑ったのか?」
「……はい。ごめんなさい、ちょっとボーッとしてて」
彼女は笑って誤魔化し、おたまを拾おうとかがんだ。 だが、その手が震えているのを、アルベルトは見逃さなかった。 最近、彼女はよく物を落とすようになった。皿を割ったり、つまずいたり。 「ドジでごめんなさい」と彼女は笑うが、その顔色は日に日に白くなっている気がした。
「レティ。……本当に大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「平気ですよ。ちょっと、季節の変わり目で疲れが出ただけ……」
彼女が立ち上がろうとした、その瞬間。 糸が切れた操り人形のように、彼女の膝が折れた。
「レティッ!?」
アルベルトは反射的に彼女の体を抱き止めた。 軽い。恐ろしいほどに軽い。 腕の中の彼女は、浅い呼吸を繰り返しながら、虚ろな目で宙を彷徨っていた。
「……あ、れ? ……力が、入らな……」
「しっかりしろ! レティ!」
彼女の手を握る。氷のように冷たかった。 生命力が、指先から零れ落ちていくような感覚。 アルベルトの背筋を、戦場で感じるものとは全く質の違う、冷たい恐怖が駆け上がった。
「アル、さん……暗い……電気、つけて……」
窓の外はまだ明るい。 彼女の視界が、閉ざされかけている。
アルベルトは彼女を抱き上げ、家を飛び出した。 向かう先は一つ。 王立魔導研究院。あの口うるさいが、誰よりも信頼できる医師、ミトスのもとへ。
***
診断結果が出たのは、夜の帳が下りきった頃だった。 診察室の長椅子に座るアルベルトの前に、ミトスが戻ってきた。 彼女の表情は、今まで見たことがないほど険しく、そして悲痛だった。
「……覚悟して聞いて、アルベルト」
ミトスは、一枚の羊皮紙をテーブルに広げた。 そこには、人体の魔力の流れを示す複雑な図形が描かれていたが、その大半が不吉な黒色で塗りつぶされていた。
「『魔力回路の進行性壊死』。……それが、彼女の病名よ」
聞き慣れない言葉に、アルベルトは眉をひそめた。
「どういうことだ。……薬で治るのか?」
「……いいえ」
ミトスは首を横に振った。その目が潤んでいる。
「彼女の体の中で、生命力を維持するための根幹となる回路が、原因不明のまま死滅し始めているの。……これは病気というより、寿命の前借りのようなものだわ」
アルベルトは言葉を失った。 壊死。死滅。寿命。 幸せな新婚生活を送っていたはずの妻に、突きつけられるにはあまりに残酷な単語たち。
「治療法は……現代の魔導医学では確立されていない。進行を遅らせる薬はあるけれど、それは砂時計の穴を少し狭めるだけの処置に過ぎないわ」
「遅らせるだけ? ……治せないのか?」
「……ごめんなさい」
ミトスは唇を噛み締め、視線を落とした。
「この冬を越せるかどうか。……それが、医学的な見解よ」
冬。 窓の外では、木枯らしが吹き始めている。 あと数ヶ月。 そんな馬鹿なことがあるか。 やっと手に入れたんだ。 戦い続け、奪い続けてきた俺が、ようやく見つけた小さな光だ。 それを、神様はこんなにあっさりと取り上げるというのか。
アルベルトはゆっくりと立ち上がった。 その瞳から、動揺の色が消え、代わりにどす黒い執念の炎が灯り始めていた。
「……ふざけるな」
低く、地を這うような声。
「神が決めた寿命だというなら、俺が捻じ曲げてやる」
「アルベルト……?」
「お前は天才だろう、ミトス。王都中の文献をあさってでも、過去の事例を探せ。金ならいくらでも作る。どんな希少な素材でも、俺が地の果てまで行って取ってくる」
彼はミトスの肩を掴んだ。その指が肉に食い込む。
「治せ。……絶対にだ。彼女を死なせたら、俺は世界を許さない」
それは、英雄の顔ではなかった。 愛する者を奪われまいと牙を剥く、手負いの獣の顔だった。 ミトスは恐怖と、そして彼をここまで狂わせるレティへの嫉妬にも似た感情を押し殺し、強く頷いた。
「……分かったわ。私も、あの子を死なせたくない。できる限りのことはする」
その日から、アルベルトの戦いが始まった。 敵は国を脅かす魔獣ではない。妻の命を蝕む、見えざる病魔。 彼は騎士団の任務の合間を縫って、高難度の依頼を片っ端から受け始めた。
噂に聞く霊薬、万病に効くと言われる幻の果実。 藁にもすがる思いで、彼は剣を取り、死地へと向かうようになった。 家に帰る時間すら惜しんで。
皮肉にも、彼女の命を救おうとすればするほど、彼女と共に過ごせるはずだった「残された時間」を削り取っていくことになるのだとは、気づかないまま。
朝、鳥のさえずりと共に目覚めると、キッチンからトントンと包丁を叩く音が聞こえる。 漂ってくるコーヒーと、焼きたてのパンの香り。 アルベルトが寝室を出ると、エプロン姿のレティが「おはようございます、あなた」と微笑みかける。 以前の彼なら、朝は泥のように眠るか、即座に武装して戦場へ向かうだけの時間だった。だが今は、彼女と向かい合って食卓を囲み、「いただきます」と言ってスープを飲む時間が、一日の始まりだった。
「アルさん、ネクタイ曲がってますよ」 「……む。自分では直したつもりだったんだが」 「ふふ、貸してください」
玄関先で、彼女が背伸びをして襟元を整えてくれる。 その距離の近さに、未だに心臓が早鐘を打つ自分がおかしくて、アルベルトは苦笑した。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」 「ああ。……行ってくる」
頬に触れる柔らかい感触。 扉を閉めた後も、その温もりが残っている。 守るべきものがある。帰る場所がある。 その事実は、アルベルトにかつてないほどの力と、そして安らぎを与えていた。
この幸せが、永遠に続くと信じていた。 いや、信じたかった。 彼が積み上げてきた罪や、血塗れの過去が、こんな穏やかな結末を許してくれるはずがないと、心のどこかで分かっていたからこそ、彼はこの日々に縋り付いていたのかもしれない。
異変は、静かに、そして確実に忍び寄っていた。
ある休日の午後。 二人はキッチンに立ち、夕食の準備をしていた。 アルベルトが不器用な手つきでジャガイモを剥き、レティが鍋をかき混ぜる。 穏やかな時間。 その時だった。
カチャン。
乾いた音が響いた。 レティの手から、おたまが滑り落ちていた。
「……あ」
彼女は呆然と床を見つめていた。 アルベルトは手を止め、彼女の顔を覗き込んだ。
「どうした? 手が滑ったのか?」
「……はい。ごめんなさい、ちょっとボーッとしてて」
彼女は笑って誤魔化し、おたまを拾おうとかがんだ。 だが、その手が震えているのを、アルベルトは見逃さなかった。 最近、彼女はよく物を落とすようになった。皿を割ったり、つまずいたり。 「ドジでごめんなさい」と彼女は笑うが、その顔色は日に日に白くなっている気がした。
「レティ。……本当に大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「平気ですよ。ちょっと、季節の変わり目で疲れが出ただけ……」
彼女が立ち上がろうとした、その瞬間。 糸が切れた操り人形のように、彼女の膝が折れた。
「レティッ!?」
アルベルトは反射的に彼女の体を抱き止めた。 軽い。恐ろしいほどに軽い。 腕の中の彼女は、浅い呼吸を繰り返しながら、虚ろな目で宙を彷徨っていた。
「……あ、れ? ……力が、入らな……」
「しっかりしろ! レティ!」
彼女の手を握る。氷のように冷たかった。 生命力が、指先から零れ落ちていくような感覚。 アルベルトの背筋を、戦場で感じるものとは全く質の違う、冷たい恐怖が駆け上がった。
「アル、さん……暗い……電気、つけて……」
窓の外はまだ明るい。 彼女の視界が、閉ざされかけている。
アルベルトは彼女を抱き上げ、家を飛び出した。 向かう先は一つ。 王立魔導研究院。あの口うるさいが、誰よりも信頼できる医師、ミトスのもとへ。
***
診断結果が出たのは、夜の帳が下りきった頃だった。 診察室の長椅子に座るアルベルトの前に、ミトスが戻ってきた。 彼女の表情は、今まで見たことがないほど険しく、そして悲痛だった。
「……覚悟して聞いて、アルベルト」
ミトスは、一枚の羊皮紙をテーブルに広げた。 そこには、人体の魔力の流れを示す複雑な図形が描かれていたが、その大半が不吉な黒色で塗りつぶされていた。
「『魔力回路の進行性壊死』。……それが、彼女の病名よ」
聞き慣れない言葉に、アルベルトは眉をひそめた。
「どういうことだ。……薬で治るのか?」
「……いいえ」
ミトスは首を横に振った。その目が潤んでいる。
「彼女の体の中で、生命力を維持するための根幹となる回路が、原因不明のまま死滅し始めているの。……これは病気というより、寿命の前借りのようなものだわ」
アルベルトは言葉を失った。 壊死。死滅。寿命。 幸せな新婚生活を送っていたはずの妻に、突きつけられるにはあまりに残酷な単語たち。
「治療法は……現代の魔導医学では確立されていない。進行を遅らせる薬はあるけれど、それは砂時計の穴を少し狭めるだけの処置に過ぎないわ」
「遅らせるだけ? ……治せないのか?」
「……ごめんなさい」
ミトスは唇を噛み締め、視線を落とした。
「この冬を越せるかどうか。……それが、医学的な見解よ」
冬。 窓の外では、木枯らしが吹き始めている。 あと数ヶ月。 そんな馬鹿なことがあるか。 やっと手に入れたんだ。 戦い続け、奪い続けてきた俺が、ようやく見つけた小さな光だ。 それを、神様はこんなにあっさりと取り上げるというのか。
アルベルトはゆっくりと立ち上がった。 その瞳から、動揺の色が消え、代わりにどす黒い執念の炎が灯り始めていた。
「……ふざけるな」
低く、地を這うような声。
「神が決めた寿命だというなら、俺が捻じ曲げてやる」
「アルベルト……?」
「お前は天才だろう、ミトス。王都中の文献をあさってでも、過去の事例を探せ。金ならいくらでも作る。どんな希少な素材でも、俺が地の果てまで行って取ってくる」
彼はミトスの肩を掴んだ。その指が肉に食い込む。
「治せ。……絶対にだ。彼女を死なせたら、俺は世界を許さない」
それは、英雄の顔ではなかった。 愛する者を奪われまいと牙を剥く、手負いの獣の顔だった。 ミトスは恐怖と、そして彼をここまで狂わせるレティへの嫉妬にも似た感情を押し殺し、強く頷いた。
「……分かったわ。私も、あの子を死なせたくない。できる限りのことはする」
その日から、アルベルトの戦いが始まった。 敵は国を脅かす魔獣ではない。妻の命を蝕む、見えざる病魔。 彼は騎士団の任務の合間を縫って、高難度の依頼を片っ端から受け始めた。
噂に聞く霊薬、万病に効くと言われる幻の果実。 藁にもすがる思いで、彼は剣を取り、死地へと向かうようになった。 家に帰る時間すら惜しんで。
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