田舎の元騎士団長はどタイプメイドに振り回される

れおぽん

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第3部_「右手に剣を。左手に血を」

第44話:割り切れない想い

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 深夜の王立魔導研究院。  人影の絶えた廊下には、冷え切った静寂だけが横たわっていた。  無機質な魔導ランプの白い光が、等間隔に並ぶ研究室の扉を照らし出している。

 第4研究室。  その扉が、重苦しい音を立てて開かれた。

 入ってきたのは、泥と乾いた血にまみれ、見るも無惨な姿になったアルベルトだった。  
呼吸は荒く、足取りはおぼつかない。それでも、その右手だけは強く握りしめられ、魔力が封じられた小さな小瓶を守っていた。

「……ミトス。『竜種の肝』だ。これなら……薬の、素材に……」

 彼は小瓶を実験台の上に置くと、糸が切れた操り人形のように、その場へ音もなく崩れ落ちた。  
ガタン、と膝が床を打つ音が、静かな部屋に響く。  顔色は死人のように白く、生きているのが不思議なほど消耗しきっている。

「…………」

 デスクで文献を漁っていたミトスは、立ち上がることさえできなかった。  

怒鳴りつけたかった。「馬鹿なことはやめて」と叫びたかった。  けれど、目の前の男があまりにもボロボロで、そしてあまりにも「幸せそう」に、小瓶を見つめている姿を見て、声が喉で凍りついたのだ。

(……どうして、そんな顔をするのよ)

 彼女は奥歯を噛み締め、震える足で彼のそばへ歩み寄った。  カルテを見る必要すらない。彼女の目は、彼の体の悲鳴をすべて「視」てとっていた。  筋繊維は断裂寸前。魔力回路は焼き切れる一歩手前。  彼は自分の命を薪にして、ただひたすらに妻の命を繋ごうとしている。

「……ねえ、アルベルト」

 ミトスは、うずくまる彼の背中に、触れるか触れないかの距離で手を伸ばした。

「貴方の体、もう限界よ。……数値が、泣いてるわ」

 静かな声だった。  医師としての警告ではない。壊れていく宝物を前にした、無力な子供のような響きがあった。

「どうして、ここまで出来るの? あの子――レティちゃんは、貴方のこの傷の理由さえ知らないのに。貴方がどれだけ血を流して、その素材を手に入れたのかも知らないのに」

 ミトスは膝をつき、彼の顔を覗き込んだ。  アルベルトの瞳は、焦点が定まっていない。それでも、その瞳の奥には、確固たる熱があった。レティという一点だけを見つめる、狂信的とも言える光が。

「……彼女が、笑ってくれるなら、それでいい」

 うわ言のように彼が呟く。

「俺がどれだけ傷つこうが、関係ない。……あいつの命が繋がるなら、俺の体など安い」

 その言葉が、ミトスの胸を鋭利なナイフのように抉った。  寂しかった。  どうしようもなく、寂しかった。

 彼女はずっと彼を観てきたしてきた。  彼が「剣聖」と呼ばれ、誰にも理解されず孤独に凍えていた時代から。  誰よりも彼の近くにいて、誰よりも彼のデータを集め、彼の強さも脆さも、すべてを理解しているつもりだった。  いつか、その理解が彼に届く日が来ると信じて。私が一番の理解者なのだと、胸を張れる日が来ると信じて。

 けれど、彼が選んだのは、何も知らない、ただの町娘だった。  そして今、彼はその女性のために、自ら破滅しようとしている。

「……ねえ。」

 ミトスの口から、震える言葉がこぼれ落ちた。

「私の方があなたを知ってる。」

「……え?」

「あの子じゃ無理よ。貴方のその特殊な『研ぎ鞘』のメンテナンスも、魔力回路の微調整も、精神的なケアも……素人のあの子には荷が重すぎる」

 ミトスは、必死に「理屈」を並べた。 そうしなければ、おそらくあふれそうな気持が抑えられない気がしたから。

「私なら、貴方のこと全部わかるわ。どこが痛いのか、どこが苦しいのか……言われなくたって、データを見れば全部わかる。貴方が戦場で何を考えて、どんな風に傷つくのかも、全部予測できる」

 彼女の手が、泥だらけのアルベルトの頬に触れた。  冷たい指先。だが、そこには悲痛なほどの熱情が込められていた。

「私なら……貴方を一番効率よく、一番長く生かしてあげられる。あの子みたいに、貴方をボロボロにさせたりしない。貴方という人物を、完璧に守ってあげられるのよ……ッ!」


 ――だから、私を見て。  
 ――私のほうが、貴方の役に立つのよ。  
 ――こんなに貴方のことを考えているのは、世界で私だけなのよ。


 言葉の裏にある、痛々しいほどの「寂しさ」が溢れ出していた。  それは提案ではない。  『私じゃ、ダメなの?』という、敗北を悟りながらの問いかけだった。

 アルベルトは、ぼんやりとした目でミトスを見た。  そして、困ったように眉を下げ、優しく――あまりにも優しく、彼女の手を自分の体から遠ざけた。

「……ありがとう、ミトス。お前は本当に、優秀な研究員だな」

 ミトスの心臓が、ヒュッと音を立てて冷えた。

「俺の体のことを、そこまで考えてくれていたとはな。……確かに、お前なら最高のメンテナンスができるだろう。効率よく傷を治し、無駄のない戦い方をさせ、俺を『最高の剣聖』として維持できるはずだ」

 彼は、ミトスの手をゆっくりと離した。  拒絶ではない。ただ、彼の世界には「それ」が必要ないという、静かな事実の提示だった。

「だが、違うんだ」

 アルベルトは、ポケットからくしゃくしゃになったハンカチを取り出し、泥だらけの手を拭った。

「俺は、効率よく生きたいわけじゃない。……レティが淹れてくれた、味の薄いスープを飲んで、『ああ、生きてるな』って感じたいだけなんだ」

 彼の言葉には、悪意など微塵もなかった。  ただ純粋に、彼の中には「レティとの生活」以外の選択肢が存在していないのだ。  ミトスが提示した「完璧な理解」も「最高の管理」も、彼にとっては幸せの範囲外でしかなかった。

「彼女は俺の傷の理由なんて知らなくていい。魔力のことも、剣のことも知らなくていい。……ただ、笑っていてくれれば、それだけで俺の傷は癒えるんだよ」

議論の余地すらなかった。  彼はミトスの好意に気づかないのではない。
「好意を受け取るための心の器」が、レティ一人で満たされていて、他の一滴すら入り込む余地がないのだ。

 どんなに理屈を積み上げても、どんなに献身を示しても。  彼の心を動かすのは、完璧なデータではなく、あの不器用な妻の笑顔だけ。



『土俵にすら立てていない』



「……そう」

 ミトスは、力なく笑った。  伸ばしかけた手は、虚空を掴んで、白衣のポケットに戻った。

「……バカな男。非合理的で、生産性がなくて……最低の男ね」

「はは。全くだ。……ほら、素材だ。頼んだぞ」

 アルベルトはよろめきながら立ち上がり、出口へと向かった。  その背中は、一度もミトスを振り返らなかった。  彼にとって、今のミトスは「薬を作ってくれる優秀な仲間」であり、それ以上でも以下でもなかった。

 バタン、と重い扉が閉まる。  再び訪れた静寂の中で、ミトスはその場に崩れ落ちた。  実験台の上の小瓶が、無情に輝いている。彼が命がけで持ち帰った、妻への愛の結晶。

「……ずるいわよ」

 眼鏡の奥から、熱いものが溢れて止まらなかった。

「『優秀な研究員』……? そんな肩書き、欲しくなかった……」

 ただの「女」として見てほしかった。  彼の隣で、彼の弱音を聞きたかった。  データを取るためじゃなく、ただ不安な夜に手を握りたかった。

 でも、彼女は最初から「ただの研究員」だったのだ。  レンズ越しに彼を見るだけの存在。彼の物語のヒロインには、絶対になれない存在。

「……データじゃ……割り切れないじゃない……」

 彼女は声を殺して泣いた。  どれだけ彼を解析しても、彼が欲しがっている「温もり」だけは、ミトスには永遠に提供できないのだと思い知らされた夜だった。

 それでも、彼女は立ち上がらなければならない。  彼が命がけで持ってきたこの素材を、薬にしなければならない。  それが、叶わぬ恋をした女ができる、唯一の、そして最後の「彼への愛し方」なのだから。

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