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第3部_「右手に剣を。左手に血を」
第45話:英雄の妻たる覚悟
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ミトスが作った薬のおかげで、レティの病状は一時的に小康状態を保っていた。 だが、それは砂時計の砂が落ちる速度を、ほんの少し緩めたに過ぎない。 彼女は一日の大半をベッドの上で過ごすようになり、頬はこけ、あの明るかった笑顔にも疲労の色が滲むようになっていた。
それでも、彼女の手は止まらなかった。 ベッドの上で、赤い毛糸と編み棒を握りしめ、来る日も来る日も編み物を続けていた。 不揃いな編み目。時折、力が足りずに飛んでしまう結び目。 それは、夫であるアルベルトへの、彼女に残された最後の贈り物を形にする作業だった。
「……無理をするな。横になっていてくれ」
見舞いに来たアルベルトが、痛ましそうに声をかける。 だが、レティは首を横に振った。
「いいえ。……これだけは、完成させたいの。貴方が寒い場所に行っても、凍えないように」
彼女は知っていたのだ。 アルベルトが無理をして笑っていることを。 そして、窓の外で世界の情勢が急激に悪化し、彼がいつ戦場に呼ばれてもおかしくない状況であることを。
運命の日が訪れたのは、雪が降り始めたある朝のことだった。
屋敷の玄関を、王宮からの使者が叩いた。 手渡されたのは、真紅の封蝋が押された一通の書状。 『緊急招集状』。 それは、国が存亡の危機に瀕した際にのみ発令される、騎士に対する絶対的な出撃命令だった。
リビングで書状を開いたアルベルトの表情が、凍りついた。 行き先は北の最果て。敵国の主力部隊が結集している決戦の地。 期間は未定。いや、勝つか負けるか、決着がつくまで帰還は許されない。
「……ふざけるな」
アルベルトは、書状を握りつぶした。 今、行けば。 レティの死に目に会えない可能性が高い。 彼女を一人残して、あるいはミトスに任せたとしても、最期の瞬間に手を握っていてやることができない。
国? 国民? 名誉? そんなものが何だ。 俺は、たった一人の女性を守ると誓ったんだ。彼女のために生きると決めたんだ。 世界が滅びようが知ったことか。俺の世界は、この家の、あの寝室の中にしかないのだから。
「……断る」
彼は書状を暖炉に放り込もうとした。 その時。
「――アルさん」
背後から、静かな声がした。 振り返ると、寝室にいるはずのレティが、壁に手をついて立っていた。 彼女はふらつく足取りでアルベルトに歩み寄り、彼の手からくしゃくしゃになった書状を取り上げた。
「……レティ。寝ていろと言っただろう」
「王宮からの、お手紙ですね」
彼女は書状を広げ、内容を一瞥した。そして、静かに畳んでテーブルに置いた。 その顔は、病人のものではなかった。 どこか透き通るような、覚悟を決めた人間の凛々しさを湛えていた。
「……行ってください」
「なっ……何を言うんだ」
アルベルトは耳を疑った。
「行けるわけがないだろう! お前を置いて、あんな遠くへ……! 俺は行かない。誰になんと言われようと、俺はここに残る!」
彼はレティの肩を掴んだ。 縋るような、必死の形相だった。
「俺は騎士団長である前に、お前の夫だ。……お前のそばにいさせてくれ」
それは、最強の騎士が初めて吐露した、弱音であり、本音だった。 国を守る英雄ではなく、ただの愛妻家でありたいという願い。
レティは、アルベルトの胸に顔を埋めた。 彼の匂い。彼の体温。 ずっと、ずっと触れていたい。離れたくない。 「行かないで」と泣き叫んで、彼の足にしがみつきたい。 死ぬのが怖い。一人になるのが怖い。最期まで、この大きくて温かい手に包まれていたい。
――でも。――彼女は知っている。
アルベルトという男が、どれほど責任感が強く、どれほど優しい人なのかを。 もし今、彼が私のために国を見捨てたら。 多くの人々が死に、国が焼かれることになるだろう。 そして彼は、一生自分を責め続けることになる。「俺が選ばなかったせいで、守れたはずの命が消えた」と、後悔の鎖に繋がれたまま生きていくことになる。
そんな未来を、彼に歩ませるわけにはいかない。 私が愛した彼は、不器用で、泥だらけで、それでも誰かのために剣を振るう「英雄」だったのだから。
レティは顔を上げた。 涙をこらえ、唇を噛み締め、ありったけの力を振り絞って――笑った。 それは、彼女の人生で最高の名演技だった。
「……だめですよ、アルさん」
彼女は、アルベルトの頬を、パチンと両手で挟んだ。
「私の夫は、たった一人の女のために国を危険に晒すような、そんな小さな男じゃありません」
「レティ……」
「速く行って。……貴方は、王国騎士団の騎士団長なのよ」
彼女の声は震えていなかった。 瞳は真っ直ぐにアルベルトを射抜いていた。
「みんなが、貴方を待っています。貴方の剣を、貴方の強さを頼りにしている人たちがいます。……その人たちを見捨てるような人を、私は愛せません」
それは、優しい脅迫だった。 彼女に愛される資格を持ち続けたいのなら、英雄であれという命令。
アルベルトは、彼女の手を握りしめた。 その手が、微かに震えていることに気づかないふりをした。 彼女がそう望むなら。彼女が誇れる夫でありたいと願うなら。 俺は、行かなければならないのだ。
「……分かった」
アルベルトは涙を飲み込み、頷いた。
「必ず、勝つ。……最短で終わらせて、必ず戻ってくる」 「はい。待っています」
レティは微笑んだ。 アルベルトは彼女を一度だけ強く抱きしめ、それから意を決して背を向けた。 振り返れば、決意が鈍る。 彼は逃げるように部屋を出て、玄関へと向かった。
バタン、と重い扉が閉まる音がした。 足音が遠ざかっていく。
部屋には、静寂が戻った。 レティは、その場に崩れ落ちそうになった。 それを支えたのは、部屋の外で成り行きを聞いていたミトスだった。
「……レティちゃん!」
ミトスは彼女を抱きかかえ、ベッドへと運んだ。 レティの体は、糸が切れたように脱力していた。顔色は土気色で、荒い呼吸を繰り返している。 限界だったのだ。立っていることさえ、本当は不可能だったはずなのに。
「……どうして」
ミトスは、悔し涙を流しながら問いかけた。
「どうして止まらなかったの!? 貴方の体、もう持たないかもしれないのよ!? これが最期になるかもしれないのに……いいの!?」
ミトスには分かっていた。 レティの命の灯火が、もう風前の灯であることなど。 アルベルトが戻ってくる頃には、きっともう――。
レティは、天井を見上げたまま、虚ろな目で呟いた。
「……いいのよ」
その目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。 先ほどまでの気丈な「騎士団長の妻」の仮面が剥がれ落ち、ただの死に怯える少女の顔が露わになる。
「ここであの人に、『行かないで』なんて言ってしまったら……それは『呪い』になっちゃう」
「呪い……?」
「アルさんは優しいから。……もし私を選んで、そのせいで国が酷いことになったら、彼は一生自分を許せないわ。私のことも、心のどこかで憎んでしまうかもしれない」
レティは、ミトスの白衣の袖をギュッと握りしめた。
「言えるわけないじゃない……。『行かないで』なんて。『私を置いていかないで』なんて……『寂しい』なんて……ッ!」
彼女は声を上げて泣いた。 子供のように、しゃくり上げながら。
「怖いよぉ……ミトスちゃん……死にたくない……っ! アルさんと、もっと一緒にいたいよぉ……!」
それは、誰にも見せなかった本音。 夫の前では必死に隠し通した、真実の気持ち。
ミトスは、彼女を抱きしめることしかできなかった。 あまりにも残酷な愛の形だった。 愛する男の未来と誇りを守るために、彼女は自分のたった一つの願い――「最期までそばにいてほしい」という願いを、自らの手で殺したのだ。
「……馬鹿よ、貴女たちは」
ミトスもまた、泣いていた。 不器用すぎる夫婦。互いを想い合うがゆえに、一番大切な時間を犠牲にしてしまう二人。
「……お願い、ミトスちゃん」
泣き疲れたレティが、消え入りそうな声で言った。
「アルさんには……黙っていて。私が泣いていたこと、絶対に言わないで」
「……」
「彼を、『国を見捨てた男』にしたくない。……彼を、後悔で縛りたくないの」
それは。 アルベルトを英雄のまま生かすための、優しく、そして悲しい秘密の共有。
ミトスは唇を噛み締め、そして震える声で答えた。
「……分かったわ。私は何も言わない」
約束した。 この秘密は、墓場まで持っていく。
それが、恋敵であり、親友でもあったこの健気な女性への、最後の手向けだと知っていたから。
窓の外では、雪が激しく降り始めていた。 王都を白く染める雪は、すべての音を、そして悲しみさえも覆い隠そうとしているようだった。
それでも、彼女の手は止まらなかった。 ベッドの上で、赤い毛糸と編み棒を握りしめ、来る日も来る日も編み物を続けていた。 不揃いな編み目。時折、力が足りずに飛んでしまう結び目。 それは、夫であるアルベルトへの、彼女に残された最後の贈り物を形にする作業だった。
「……無理をするな。横になっていてくれ」
見舞いに来たアルベルトが、痛ましそうに声をかける。 だが、レティは首を横に振った。
「いいえ。……これだけは、完成させたいの。貴方が寒い場所に行っても、凍えないように」
彼女は知っていたのだ。 アルベルトが無理をして笑っていることを。 そして、窓の外で世界の情勢が急激に悪化し、彼がいつ戦場に呼ばれてもおかしくない状況であることを。
運命の日が訪れたのは、雪が降り始めたある朝のことだった。
屋敷の玄関を、王宮からの使者が叩いた。 手渡されたのは、真紅の封蝋が押された一通の書状。 『緊急招集状』。 それは、国が存亡の危機に瀕した際にのみ発令される、騎士に対する絶対的な出撃命令だった。
リビングで書状を開いたアルベルトの表情が、凍りついた。 行き先は北の最果て。敵国の主力部隊が結集している決戦の地。 期間は未定。いや、勝つか負けるか、決着がつくまで帰還は許されない。
「……ふざけるな」
アルベルトは、書状を握りつぶした。 今、行けば。 レティの死に目に会えない可能性が高い。 彼女を一人残して、あるいはミトスに任せたとしても、最期の瞬間に手を握っていてやることができない。
国? 国民? 名誉? そんなものが何だ。 俺は、たった一人の女性を守ると誓ったんだ。彼女のために生きると決めたんだ。 世界が滅びようが知ったことか。俺の世界は、この家の、あの寝室の中にしかないのだから。
「……断る」
彼は書状を暖炉に放り込もうとした。 その時。
「――アルさん」
背後から、静かな声がした。 振り返ると、寝室にいるはずのレティが、壁に手をついて立っていた。 彼女はふらつく足取りでアルベルトに歩み寄り、彼の手からくしゃくしゃになった書状を取り上げた。
「……レティ。寝ていろと言っただろう」
「王宮からの、お手紙ですね」
彼女は書状を広げ、内容を一瞥した。そして、静かに畳んでテーブルに置いた。 その顔は、病人のものではなかった。 どこか透き通るような、覚悟を決めた人間の凛々しさを湛えていた。
「……行ってください」
「なっ……何を言うんだ」
アルベルトは耳を疑った。
「行けるわけがないだろう! お前を置いて、あんな遠くへ……! 俺は行かない。誰になんと言われようと、俺はここに残る!」
彼はレティの肩を掴んだ。 縋るような、必死の形相だった。
「俺は騎士団長である前に、お前の夫だ。……お前のそばにいさせてくれ」
それは、最強の騎士が初めて吐露した、弱音であり、本音だった。 国を守る英雄ではなく、ただの愛妻家でありたいという願い。
レティは、アルベルトの胸に顔を埋めた。 彼の匂い。彼の体温。 ずっと、ずっと触れていたい。離れたくない。 「行かないで」と泣き叫んで、彼の足にしがみつきたい。 死ぬのが怖い。一人になるのが怖い。最期まで、この大きくて温かい手に包まれていたい。
――でも。――彼女は知っている。
アルベルトという男が、どれほど責任感が強く、どれほど優しい人なのかを。 もし今、彼が私のために国を見捨てたら。 多くの人々が死に、国が焼かれることになるだろう。 そして彼は、一生自分を責め続けることになる。「俺が選ばなかったせいで、守れたはずの命が消えた」と、後悔の鎖に繋がれたまま生きていくことになる。
そんな未来を、彼に歩ませるわけにはいかない。 私が愛した彼は、不器用で、泥だらけで、それでも誰かのために剣を振るう「英雄」だったのだから。
レティは顔を上げた。 涙をこらえ、唇を噛み締め、ありったけの力を振り絞って――笑った。 それは、彼女の人生で最高の名演技だった。
「……だめですよ、アルさん」
彼女は、アルベルトの頬を、パチンと両手で挟んだ。
「私の夫は、たった一人の女のために国を危険に晒すような、そんな小さな男じゃありません」
「レティ……」
「速く行って。……貴方は、王国騎士団の騎士団長なのよ」
彼女の声は震えていなかった。 瞳は真っ直ぐにアルベルトを射抜いていた。
「みんなが、貴方を待っています。貴方の剣を、貴方の強さを頼りにしている人たちがいます。……その人たちを見捨てるような人を、私は愛せません」
それは、優しい脅迫だった。 彼女に愛される資格を持ち続けたいのなら、英雄であれという命令。
アルベルトは、彼女の手を握りしめた。 その手が、微かに震えていることに気づかないふりをした。 彼女がそう望むなら。彼女が誇れる夫でありたいと願うなら。 俺は、行かなければならないのだ。
「……分かった」
アルベルトは涙を飲み込み、頷いた。
「必ず、勝つ。……最短で終わらせて、必ず戻ってくる」 「はい。待っています」
レティは微笑んだ。 アルベルトは彼女を一度だけ強く抱きしめ、それから意を決して背を向けた。 振り返れば、決意が鈍る。 彼は逃げるように部屋を出て、玄関へと向かった。
バタン、と重い扉が閉まる音がした。 足音が遠ざかっていく。
部屋には、静寂が戻った。 レティは、その場に崩れ落ちそうになった。 それを支えたのは、部屋の外で成り行きを聞いていたミトスだった。
「……レティちゃん!」
ミトスは彼女を抱きかかえ、ベッドへと運んだ。 レティの体は、糸が切れたように脱力していた。顔色は土気色で、荒い呼吸を繰り返している。 限界だったのだ。立っていることさえ、本当は不可能だったはずなのに。
「……どうして」
ミトスは、悔し涙を流しながら問いかけた。
「どうして止まらなかったの!? 貴方の体、もう持たないかもしれないのよ!? これが最期になるかもしれないのに……いいの!?」
ミトスには分かっていた。 レティの命の灯火が、もう風前の灯であることなど。 アルベルトが戻ってくる頃には、きっともう――。
レティは、天井を見上げたまま、虚ろな目で呟いた。
「……いいのよ」
その目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。 先ほどまでの気丈な「騎士団長の妻」の仮面が剥がれ落ち、ただの死に怯える少女の顔が露わになる。
「ここであの人に、『行かないで』なんて言ってしまったら……それは『呪い』になっちゃう」
「呪い……?」
「アルさんは優しいから。……もし私を選んで、そのせいで国が酷いことになったら、彼は一生自分を許せないわ。私のことも、心のどこかで憎んでしまうかもしれない」
レティは、ミトスの白衣の袖をギュッと握りしめた。
「言えるわけないじゃない……。『行かないで』なんて。『私を置いていかないで』なんて……『寂しい』なんて……ッ!」
彼女は声を上げて泣いた。 子供のように、しゃくり上げながら。
「怖いよぉ……ミトスちゃん……死にたくない……っ! アルさんと、もっと一緒にいたいよぉ……!」
それは、誰にも見せなかった本音。 夫の前では必死に隠し通した、真実の気持ち。
ミトスは、彼女を抱きしめることしかできなかった。 あまりにも残酷な愛の形だった。 愛する男の未来と誇りを守るために、彼女は自分のたった一つの願い――「最期までそばにいてほしい」という願いを、自らの手で殺したのだ。
「……馬鹿よ、貴女たちは」
ミトスもまた、泣いていた。 不器用すぎる夫婦。互いを想い合うがゆえに、一番大切な時間を犠牲にしてしまう二人。
「……お願い、ミトスちゃん」
泣き疲れたレティが、消え入りそうな声で言った。
「アルさんには……黙っていて。私が泣いていたこと、絶対に言わないで」
「……」
「彼を、『国を見捨てた男』にしたくない。……彼を、後悔で縛りたくないの」
それは。 アルベルトを英雄のまま生かすための、優しく、そして悲しい秘密の共有。
ミトスは唇を噛み締め、そして震える声で答えた。
「……分かったわ。私は何も言わない」
約束した。 この秘密は、墓場まで持っていく。
それが、恋敵であり、親友でもあったこの健気な女性への、最後の手向けだと知っていたから。
窓の外では、雪が激しく降り始めていた。 王都を白く染める雪は、すべての音を、そして悲しみさえも覆い隠そうとしているようだった。
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