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第4部_「幸せな気持ちで、帰ってもいい」
第53話:甲斐性なしの旦那様
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屋敷に帰り着いたのは、日付が変わる少し前だった。愛馬を厩舎に入れ、重い足取りで玄関の扉を開ける。
カチャリ、と鍵を開ける音が、静まり返ったホールに響く。いつもなら、この音を聞きつけてノア君がパタパタと小走りで出迎えてくれるはずだ。だが今夜は、静寂だけがそこにあった。リビングに入ると、暖炉の火が消えかけていた。その薄明かりの中に、彼女はいた。ソファに座り、膝の上で両手を組み、ただじっと燃え残った薪を見つめていた。テーブルの上には、すっかり冷めた二人分のティーカップ。
「……ただいま」
俺の声は、枯れ木が擦れるような音がした。ノア君がゆっくりとこちらを向く。その表情は、いつもの鉄壁の無表情だったが、瞳の奥に揺らめく光だけが、彼女の不安を物語っていた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
彼女は立ち上がり、俺のコートを受け取ろうとした。その手が、俺の袖口に触れた瞬間、ピクリと止まった。俺の服に染み付いた、王都の埃と、焦燥の匂い。そして何より、俺自身が放つ、逃亡者のような後ろめたい気配を感じ取ったのだろう。
「……お夕食は?」
「いらない。……食欲がないんだ」
俺は彼女の目を見ることができず、ソファにドサリと座り込んだ。視界を遮断しても、まぶたの裏にはグレイブの顔が焼き付いて離れない。『アンタが幸せなら、俺はそれが一番嬉しいですから』あいつはそう言って笑った。俺の代わりに死にに行くくせに。
カチャン。新しい紅茶が淹れられ、テーブルに置かれる音がした。ノア君が、俺の隣に座る気配がする。
「……ノア君」
「はい」
「俺は、ここ数日、家にいることになりそうだ」
俺は腕で目元を覆ったまま、天井を見上げて言った。
「街の防衛準備がある。……王都の守りを固めるために、俺はこの近辺で指揮を執ることになった」
「そうですか」
彼女の声は平坦だった。
「では、北の山脈に向かう部隊は?」
「……本隊が出る。先行して、足止め部隊が峡谷に向かうことになった」
「指揮官は、どなたですか?」
核心を突く問い。俺は唾を飲み込み、喉に引っかかった名前を、無理やり絞り出した。
「……グレイブだ」
一瞬、ノア君の呼吸が止まったのが分かった。彼女も知っているのだ。グレイブの実力が、対多数の乱戦において俺ほど突出していないことを。そして、ミリアムという大切な妻がいることを。
「……グレイブ様は、戻ってこられるのですか?」
静かな、あまりにも静かな問いだった。嘘をつこうとした。『ああ、あいつなら大丈夫だ』と。だが、俺の口は凍りついたように動かなかった。
「……難しい、だろうな」
俺は呻くように答えた。
「敵は二万だ。……あの峡谷で二日間、不眠不休で支え続けるのは、自殺行為に等しい」
「では、死にに行かれるのですね」
「……ああ」
「貴方の代わりに」
その一言が、俺の心臓を握り潰した。
「……違う!」
叫びたかった。だが考えれば考えるほど、口から出てくる言葉は言い訳でしかなかった。
これは適材適所だ。街を守る最後の砦も必要なんだ。誰かが残らなきゃならない。
どれもこれも。俺である必要はない。
言い訳だ。
「俺はもう嫌なんだよ。泥の中を這いずり回って、血の匂いにむせ返りながら、誰かを殺し続けるのは。……やっと手に入れたんだ。君との生活を。温かい食事を」
俺はノア君の肩を掴んだ。
「君を置いていくのが怖いんだ。あの雪の日みたいに、また『行ってらっしゃい』と言われて、そのまま二度と会えなくなるのが怖い。……俺は臆病者でいい。英雄なんて呼ばれなくていい。ただ、君のそばにいて、君と生きていたいだけなんだ。」
本音を吐ききったところで。俺は自分の不甲斐なさにあきれる。
「こんな時でもまだ。レティを引きずっている俺がいるのも。もう嫌なんだ。」
涙が溢れた。情けない。年下の妻の前で、こんな風に泣き喚くなんて。けれど、これが俺の偽らざる本音だった。
ノア君は、暴れる俺の手を振り払わなかった。ただ、悲しげに眉を寄せ、俺の涙を親指で拭ってくれた。そして、静かに、けれど熱のこもった声で語りかけた。
「……旦那様。分かっています」
彼女はそっと俺の手を握りしめた。
「ですが、それでは騎士団の方々が傷ついてしまいます。……グレイブ様も、レオンハルト様も」
彼女の瞳が、俺を射抜く。
「それに、彼らだけではありません。……貴方に憧れて入団した若い騎士の方々も。貴方が過去にその剣で守ってきた街の人たちも。……貴方がいることによって、勇気づけられる人は沢山いるんです」
「……俺は、ただの人殺しだ。勇気なんて……」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
「貴方はご自身を『冷たい剣聖』だったと仰るかもしれません。……でも、その強さは、多くの人にとって間違いなく『勇気の象徴』でもあったはずです。だからこそ、グレイブ様たちは貴方を頼ったのではないですか?」
ハッとした。言葉が出なかった。俺が捨てようとした過去の自分を、彼女は肯定した。冷徹だった俺の剣が、それでも誰かの希望になっていたと。考えたこともなかった。
ノア君は一瞬だけ視線を伏せ、それから潤んだ瞳で俺を見上げた。
「……私だって、本当は旦那様にいてほしい。片時も離れたくありません」
彼女の声が震える。
「戦場なんて大嫌いです。もし貴方が行ってしまって、帰ってこないんじゃないかと……私は絶対、不安になります。怖くて、夜も眠れないと思います」
それは、彼女の偽らざる本音だった。彼女の手が、俺の服を強く握りしめる。
「でも」
彼女は顔を上げ、涙をこらえて微笑んだ。
「そんな人たちを知らんぷりして……死地へ行く人々を見送って待っていられるほど、私の旦那様は『甲斐性なし』じゃないことは、私が一番よく分かっています」
ノアは認めたくない送り出す言葉を。それでもアルのためになるとわかっていて。必死に話す。
甲斐性なし。その言葉が、俺の胸にストンと落ちた。
彼女は知っているのだ。俺がここで残っても、一生後悔し続けることを。グレイブが死んだという報せを聞くたびに、俺の心が壊れていくことを。そして、そんな「友を見捨てて生き延びた俺」を、俺自身が愛せなくなることを。
彼女は、俺を守るために、俺の背中を押そうとしているのだ。自分の寂しさや恐怖を押し殺して。
俺は、深く息を吐いた。肺の中に溜まっていた、黒い澱のような迷いが、涙と一緒に流れ出ていく気がした。
「……参ったな」
俺は顔を上げ、自嘲気味に笑った。不思議と、心は軽かった。
「ノア君も、レティも……僕のことを買いかぶりすぎだよ。僕は、そんなに上等な男じゃない」
俺は立ち上がり、壁に掛けてあった刀を手に取った。
黒漆塗りの鞘。引き抜けば、耳障りな研磨音が鳴る、使い捨ての魔剣。名前は何だったかな。師匠は「鳴斬(なきり)」って言ってたか。
剣をとる後姿を見たノア君が、『あなたはそうでなくちゃ』と言いたげな表情をしているのは見るまでもない。
「自分から剣聖だと名乗ったこともないし、成績が良かったからたまたま騎士団長になっただけの……今はただの、枯れたおっさんだよ」
カチリ、と刀を腰に差す。帯を締める感触が、俺の背筋を一本の鋼に変える。
「でもね、ノア君」
俺は振り返り、彼女を真っ直ぐに見た。愛しい人。俺の帰るべき場所。
「僕は、僕のためなら。……僕を取り巻く、大切な人たちが笑っていてくれるためなら」
俺は拳を握りしめた。
「『英雄』にだって、『修羅』にだって、何にだってなる覚悟はある」
ノア君の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼女は立ち上がり、棚から赤いマフラーを取り出した。そして、俺の前に立ち、背伸びをして、それを俺の首に巻いてくれた。不揃いな編み目。
彼女が修復し、二人の女性の祈りが込められた、最強の防具。
「……行ってらっしゃいませ、旦那様」
彼女の声は、もう震えていなかった。俺はマフラーに手を添え、ニカっと笑った。
「ああ。……晩飯は、シチューがいい。野菜がゴロゴロ入った、熱いやつを頼む」
「承知いたしました。……最高に美味しいのを、用意してお待ちしております」
俺は彼女を一度だけ強く抱きしめ、そして振り返らずに屋敷を出た。
外は闇だ。だが、目指す場所は北ではない。まずは王都、騎士団本部だ。グレイブの馬鹿野郎が、勝手に死に急ぐのを止めなければならない。あいつに英雄ごっこをさせるわけにはいかないのだ。
俺は愛馬に跨り、手綱を強く引いた。待っていろ、騎士団長。甲斐性なしの先輩が、とびきりのお節介を焼きに行ってやる。
馬蹄の音が、夜の森に高らかに響き渡った。
カチャリ、と鍵を開ける音が、静まり返ったホールに響く。いつもなら、この音を聞きつけてノア君がパタパタと小走りで出迎えてくれるはずだ。だが今夜は、静寂だけがそこにあった。リビングに入ると、暖炉の火が消えかけていた。その薄明かりの中に、彼女はいた。ソファに座り、膝の上で両手を組み、ただじっと燃え残った薪を見つめていた。テーブルの上には、すっかり冷めた二人分のティーカップ。
「……ただいま」
俺の声は、枯れ木が擦れるような音がした。ノア君がゆっくりとこちらを向く。その表情は、いつもの鉄壁の無表情だったが、瞳の奥に揺らめく光だけが、彼女の不安を物語っていた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
彼女は立ち上がり、俺のコートを受け取ろうとした。その手が、俺の袖口に触れた瞬間、ピクリと止まった。俺の服に染み付いた、王都の埃と、焦燥の匂い。そして何より、俺自身が放つ、逃亡者のような後ろめたい気配を感じ取ったのだろう。
「……お夕食は?」
「いらない。……食欲がないんだ」
俺は彼女の目を見ることができず、ソファにドサリと座り込んだ。視界を遮断しても、まぶたの裏にはグレイブの顔が焼き付いて離れない。『アンタが幸せなら、俺はそれが一番嬉しいですから』あいつはそう言って笑った。俺の代わりに死にに行くくせに。
カチャン。新しい紅茶が淹れられ、テーブルに置かれる音がした。ノア君が、俺の隣に座る気配がする。
「……ノア君」
「はい」
「俺は、ここ数日、家にいることになりそうだ」
俺は腕で目元を覆ったまま、天井を見上げて言った。
「街の防衛準備がある。……王都の守りを固めるために、俺はこの近辺で指揮を執ることになった」
「そうですか」
彼女の声は平坦だった。
「では、北の山脈に向かう部隊は?」
「……本隊が出る。先行して、足止め部隊が峡谷に向かうことになった」
「指揮官は、どなたですか?」
核心を突く問い。俺は唾を飲み込み、喉に引っかかった名前を、無理やり絞り出した。
「……グレイブだ」
一瞬、ノア君の呼吸が止まったのが分かった。彼女も知っているのだ。グレイブの実力が、対多数の乱戦において俺ほど突出していないことを。そして、ミリアムという大切な妻がいることを。
「……グレイブ様は、戻ってこられるのですか?」
静かな、あまりにも静かな問いだった。嘘をつこうとした。『ああ、あいつなら大丈夫だ』と。だが、俺の口は凍りついたように動かなかった。
「……難しい、だろうな」
俺は呻くように答えた。
「敵は二万だ。……あの峡谷で二日間、不眠不休で支え続けるのは、自殺行為に等しい」
「では、死にに行かれるのですね」
「……ああ」
「貴方の代わりに」
その一言が、俺の心臓を握り潰した。
「……違う!」
叫びたかった。だが考えれば考えるほど、口から出てくる言葉は言い訳でしかなかった。
これは適材適所だ。街を守る最後の砦も必要なんだ。誰かが残らなきゃならない。
どれもこれも。俺である必要はない。
言い訳だ。
「俺はもう嫌なんだよ。泥の中を這いずり回って、血の匂いにむせ返りながら、誰かを殺し続けるのは。……やっと手に入れたんだ。君との生活を。温かい食事を」
俺はノア君の肩を掴んだ。
「君を置いていくのが怖いんだ。あの雪の日みたいに、また『行ってらっしゃい』と言われて、そのまま二度と会えなくなるのが怖い。……俺は臆病者でいい。英雄なんて呼ばれなくていい。ただ、君のそばにいて、君と生きていたいだけなんだ。」
本音を吐ききったところで。俺は自分の不甲斐なさにあきれる。
「こんな時でもまだ。レティを引きずっている俺がいるのも。もう嫌なんだ。」
涙が溢れた。情けない。年下の妻の前で、こんな風に泣き喚くなんて。けれど、これが俺の偽らざる本音だった。
ノア君は、暴れる俺の手を振り払わなかった。ただ、悲しげに眉を寄せ、俺の涙を親指で拭ってくれた。そして、静かに、けれど熱のこもった声で語りかけた。
「……旦那様。分かっています」
彼女はそっと俺の手を握りしめた。
「ですが、それでは騎士団の方々が傷ついてしまいます。……グレイブ様も、レオンハルト様も」
彼女の瞳が、俺を射抜く。
「それに、彼らだけではありません。……貴方に憧れて入団した若い騎士の方々も。貴方が過去にその剣で守ってきた街の人たちも。……貴方がいることによって、勇気づけられる人は沢山いるんです」
「……俺は、ただの人殺しだ。勇気なんて……」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
「貴方はご自身を『冷たい剣聖』だったと仰るかもしれません。……でも、その強さは、多くの人にとって間違いなく『勇気の象徴』でもあったはずです。だからこそ、グレイブ様たちは貴方を頼ったのではないですか?」
ハッとした。言葉が出なかった。俺が捨てようとした過去の自分を、彼女は肯定した。冷徹だった俺の剣が、それでも誰かの希望になっていたと。考えたこともなかった。
ノア君は一瞬だけ視線を伏せ、それから潤んだ瞳で俺を見上げた。
「……私だって、本当は旦那様にいてほしい。片時も離れたくありません」
彼女の声が震える。
「戦場なんて大嫌いです。もし貴方が行ってしまって、帰ってこないんじゃないかと……私は絶対、不安になります。怖くて、夜も眠れないと思います」
それは、彼女の偽らざる本音だった。彼女の手が、俺の服を強く握りしめる。
「でも」
彼女は顔を上げ、涙をこらえて微笑んだ。
「そんな人たちを知らんぷりして……死地へ行く人々を見送って待っていられるほど、私の旦那様は『甲斐性なし』じゃないことは、私が一番よく分かっています」
ノアは認めたくない送り出す言葉を。それでもアルのためになるとわかっていて。必死に話す。
甲斐性なし。その言葉が、俺の胸にストンと落ちた。
彼女は知っているのだ。俺がここで残っても、一生後悔し続けることを。グレイブが死んだという報せを聞くたびに、俺の心が壊れていくことを。そして、そんな「友を見捨てて生き延びた俺」を、俺自身が愛せなくなることを。
彼女は、俺を守るために、俺の背中を押そうとしているのだ。自分の寂しさや恐怖を押し殺して。
俺は、深く息を吐いた。肺の中に溜まっていた、黒い澱のような迷いが、涙と一緒に流れ出ていく気がした。
「……参ったな」
俺は顔を上げ、自嘲気味に笑った。不思議と、心は軽かった。
「ノア君も、レティも……僕のことを買いかぶりすぎだよ。僕は、そんなに上等な男じゃない」
俺は立ち上がり、壁に掛けてあった刀を手に取った。
黒漆塗りの鞘。引き抜けば、耳障りな研磨音が鳴る、使い捨ての魔剣。名前は何だったかな。師匠は「鳴斬(なきり)」って言ってたか。
剣をとる後姿を見たノア君が、『あなたはそうでなくちゃ』と言いたげな表情をしているのは見るまでもない。
「自分から剣聖だと名乗ったこともないし、成績が良かったからたまたま騎士団長になっただけの……今はただの、枯れたおっさんだよ」
カチリ、と刀を腰に差す。帯を締める感触が、俺の背筋を一本の鋼に変える。
「でもね、ノア君」
俺は振り返り、彼女を真っ直ぐに見た。愛しい人。俺の帰るべき場所。
「僕は、僕のためなら。……僕を取り巻く、大切な人たちが笑っていてくれるためなら」
俺は拳を握りしめた。
「『英雄』にだって、『修羅』にだって、何にだってなる覚悟はある」
ノア君の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼女は立ち上がり、棚から赤いマフラーを取り出した。そして、俺の前に立ち、背伸びをして、それを俺の首に巻いてくれた。不揃いな編み目。
彼女が修復し、二人の女性の祈りが込められた、最強の防具。
「……行ってらっしゃいませ、旦那様」
彼女の声は、もう震えていなかった。俺はマフラーに手を添え、ニカっと笑った。
「ああ。……晩飯は、シチューがいい。野菜がゴロゴロ入った、熱いやつを頼む」
「承知いたしました。……最高に美味しいのを、用意してお待ちしております」
俺は彼女を一度だけ強く抱きしめ、そして振り返らずに屋敷を出た。
外は闇だ。だが、目指す場所は北ではない。まずは王都、騎士団本部だ。グレイブの馬鹿野郎が、勝手に死に急ぐのを止めなければならない。あいつに英雄ごっこをさせるわけにはいかないのだ。
俺は愛馬に跨り、手綱を強く引いた。待っていろ、騎士団長。甲斐性なしの先輩が、とびきりのお節介を焼きに行ってやる。
馬蹄の音が、夜の森に高らかに響き渡った。
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