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第4部_「幸せな気持ちで、帰ってもいい」
第59話:一番早い「おかえり」
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翌日の夕方。王都の空は、血を滲ませたような茜色に染まっていた。王立魔導研究院の通信室に、前線からの魔導通信が入ったのは、その時だった。
『――作戦成功。峡谷の防衛ライン死守。敵軍の九割を無力化し、スタンピードは鎮圧された』
通信士の声が響いた瞬間、詰めかけていた研究員たちから歓声が上がった。ミリアムは机に手をつき、深々と息を吐いた。膝から力が抜けていくのがわかる。ミトスはその場にへたり込み、両手で顔を覆って肩を震わせていた。
勝った。あの絶望的な数に対し、彼らは勝ったのだ。
だが、通信には続きがあった。歓声が少しずつ静まり、通信士が重苦しい口調で読み上げる。
『……現在、各部隊の損耗率を集計中。および、行方不明者の安否確認中。……本隊の帰還は、明後日を予定』
安否確認中。その無機質な言葉が、部屋の空気を再び凍らせた。勝ったことは事実だ。だが、誰が生き残り、誰が還らぬ人となったのかは、まだ誰にも分からない。
「……待つしかないわね」
ミリアムが、自分に言い聞かせるように言った。明後日。あと二日。その時間が、永遠のように長く感じられた。
その時。部屋の隅で、静かにエプロンの紐を締め直す音がした。
「……ノア?」
ミリアムが振り返ると、ノアはいつものように背筋を伸ばし、身支度を整えていた。その表情に、迷いはなかった。
「私は、迎えに行きます」
「え?ノアちゃん、まだ早いわよ。帰還は明後日って……」
「いいえ」
ノアは首を横に振った。その瞳は、通信機ではなく、窓の外の北の空を見据えていた。
「旦那様なら……彼なら、傷だらけでも、這ってでも、誰よりも早く帰ってくると分かりますから」
根拠などない。けれど、彼女には確信があった。あの人は、「待たせること」を何よりも嫌う人だから。そして、「ただいま」と言うためなら、物理法則も常識もねじ伏せて帰ってくる人だと知っているから。
「……夕食の準備がありますので、お先に失礼します」
ノアは深々と一礼し、足音も立てずに部屋を出て行った。残されたミリアムとミトスは、顔を見合わせ、それからふっと笑った。彼女の揺るぎない信頼が、二人の不安をも吹き飛ばしてくれた気がした。
***
王都の北門。巨大な石造りの門の向こうには、荒野へと続く街道が伸びている。夕闇が迫り、行き交う旅人も途絶えたその場所に、ノアは一人で立っていた。
風が冷たい。重装メイド服の裾がバサリと煽られる。彼女は微動だにしなかった。瞬きさえ惜しんで、地平線の彼方を凝視し続けていた。
「おや、ノアちゃんじゃないか」
背後から声をかけられた。振り返ると、家政婦ギルドのギルドマスターだった。恰幅の良い中年女性で、仕事帰りのようだ。
「こんなところで何をしてるんだい?旦那さんの帰り待ちかい?」
「……はい」
「噂じゃ、騎士団が戻るのはまだ先だって聞いたけどねぇ。こんな寒い中、風邪引いちまうよ」
マスターは心配そうに眉を下げた。普通に考えれば、ノアの行動は無駄足だ。軍隊の行軍速度を考えれば、今日中に戻れるはずがない。だが、ノアは静かに微笑んだ。
「大丈夫です。……彼なら、早馬よりも早く……誰よりも早く、私の元へ帰ってくると約束しましたから」
その言葉には、一点の曇りもなかった。マスターは目を丸くし、それからやれやれと肩をすくめて笑った。
「……そうかい。アンタがそう言うなら、帰ってくるんだろうね」
彼女はノアの肩を、温かい手でポンと叩いた。
「健気だねぇ。……あたしはアンタの、その旦那想いで頑固なところが大好きだよ」
「ありがとうございます」
その時だった。薄暗くなりかけた地平線の彼方に、小さな黒い点が現れた。
一つ。揺れる影。
ノアの息が止まる。心臓が、痛いほど強く脈打つ。
馬だ。一騎の馬が、最後の力を振り絞るように、よろめきながら、それでも真っ直ぐにこちらへ向かってくる。鞍上の人物は、ボロボロだった。鎧は砕け、包帯は血に染まり、泥だらけで誰かも判別がつかないほどだ。馬上で揺られ、今にも落ちそうになっている。
けれど。その背筋だけは、まるで鋼鉄が入っているかのように、ピンと伸びていた。そして首元には、泥に汚れながらも鮮やかな、赤い色がなびいていた。
「……ほら、来た」
マスターは満足そうに頷くと、「さて、明日のシフトでも組むかねぇー」と大げさに伸びをして、空気を読んで去っていった。
蹄の音が近づく。ノアは一歩、前に出た。視界が滲む。涙でぼやけないように、必死で目を見開く。
馬が、城門の前で止まった。限界だったのだろう。馬も、そして乗り手も。アルベルトは、降りるというより、転げ落ちるように地面に足をつけた。足がもつれ、膝をつく。それでも、彼は顔を上げ、ノアの姿を見つけると、泥だらけの顔をくしゃりと歪めて笑った。
「……っ!」
ノアは駆け出した。淑女の作法も、メイドの矜持もかなぐり捨てて。スカートの裾を掴み、なりふり構わず走った。
アルベルトの元へ。彼の胸に飛び込み、その重みと、血と汗の匂いと、そして確かな体温を全身で受け止める。
「……ぁ……」
声にならない。生きてる。心臓が動いてる。帰ってきた。本当に、私のもとへ。
何から言おう。大好き。愛してる。よかった。生きて帰ってありがとう。感情が入り混じりすぎてどれから声に出していいかわからない。
少しの静寂。アルベルトは荒い息を整え、震える手でノアの背中に腕を回した。強く、壊れ物を扱うように優しく、抱きしめる。
「……ノア」
掠れた、ひどい声だった。でも、世界で一番聞きたかった声だった。
ノアの脳内で感情が一気に吹き出る。
しかし、っ口から出た言葉は。妻としての最大限の強がりだった。
「…………遅いです」
ノアは、彼の胸に顔を埋めたまま、震える声で文句を言った。
「夕食の時間、とっくに過ぎてます。……スープ、冷めちゃいました」
それが彼女にとっての精一杯の強がりと、ありったけの愛情の裏返しだった。アルベルトは苦笑し、泥だらけの手で彼女の頭を撫でた。
「……ああ。申し訳ない」
彼は力を込めて、言った。
「でも……ただいま」
ノアは顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、世界で一番美しい笑顔を咲かせた。
「……おかえりなさい、あなた!」
王都に夜の帳が下りる。二人の影が一つに重なる。それは、長い戦いの終わりと、新しい日々の始まりを告げる、静かな抱擁だった。
『――作戦成功。峡谷の防衛ライン死守。敵軍の九割を無力化し、スタンピードは鎮圧された』
通信士の声が響いた瞬間、詰めかけていた研究員たちから歓声が上がった。ミリアムは机に手をつき、深々と息を吐いた。膝から力が抜けていくのがわかる。ミトスはその場にへたり込み、両手で顔を覆って肩を震わせていた。
勝った。あの絶望的な数に対し、彼らは勝ったのだ。
だが、通信には続きがあった。歓声が少しずつ静まり、通信士が重苦しい口調で読み上げる。
『……現在、各部隊の損耗率を集計中。および、行方不明者の安否確認中。……本隊の帰還は、明後日を予定』
安否確認中。その無機質な言葉が、部屋の空気を再び凍らせた。勝ったことは事実だ。だが、誰が生き残り、誰が還らぬ人となったのかは、まだ誰にも分からない。
「……待つしかないわね」
ミリアムが、自分に言い聞かせるように言った。明後日。あと二日。その時間が、永遠のように長く感じられた。
その時。部屋の隅で、静かにエプロンの紐を締め直す音がした。
「……ノア?」
ミリアムが振り返ると、ノアはいつものように背筋を伸ばし、身支度を整えていた。その表情に、迷いはなかった。
「私は、迎えに行きます」
「え?ノアちゃん、まだ早いわよ。帰還は明後日って……」
「いいえ」
ノアは首を横に振った。その瞳は、通信機ではなく、窓の外の北の空を見据えていた。
「旦那様なら……彼なら、傷だらけでも、這ってでも、誰よりも早く帰ってくると分かりますから」
根拠などない。けれど、彼女には確信があった。あの人は、「待たせること」を何よりも嫌う人だから。そして、「ただいま」と言うためなら、物理法則も常識もねじ伏せて帰ってくる人だと知っているから。
「……夕食の準備がありますので、お先に失礼します」
ノアは深々と一礼し、足音も立てずに部屋を出て行った。残されたミリアムとミトスは、顔を見合わせ、それからふっと笑った。彼女の揺るぎない信頼が、二人の不安をも吹き飛ばしてくれた気がした。
***
王都の北門。巨大な石造りの門の向こうには、荒野へと続く街道が伸びている。夕闇が迫り、行き交う旅人も途絶えたその場所に、ノアは一人で立っていた。
風が冷たい。重装メイド服の裾がバサリと煽られる。彼女は微動だにしなかった。瞬きさえ惜しんで、地平線の彼方を凝視し続けていた。
「おや、ノアちゃんじゃないか」
背後から声をかけられた。振り返ると、家政婦ギルドのギルドマスターだった。恰幅の良い中年女性で、仕事帰りのようだ。
「こんなところで何をしてるんだい?旦那さんの帰り待ちかい?」
「……はい」
「噂じゃ、騎士団が戻るのはまだ先だって聞いたけどねぇ。こんな寒い中、風邪引いちまうよ」
マスターは心配そうに眉を下げた。普通に考えれば、ノアの行動は無駄足だ。軍隊の行軍速度を考えれば、今日中に戻れるはずがない。だが、ノアは静かに微笑んだ。
「大丈夫です。……彼なら、早馬よりも早く……誰よりも早く、私の元へ帰ってくると約束しましたから」
その言葉には、一点の曇りもなかった。マスターは目を丸くし、それからやれやれと肩をすくめて笑った。
「……そうかい。アンタがそう言うなら、帰ってくるんだろうね」
彼女はノアの肩を、温かい手でポンと叩いた。
「健気だねぇ。……あたしはアンタの、その旦那想いで頑固なところが大好きだよ」
「ありがとうございます」
その時だった。薄暗くなりかけた地平線の彼方に、小さな黒い点が現れた。
一つ。揺れる影。
ノアの息が止まる。心臓が、痛いほど強く脈打つ。
馬だ。一騎の馬が、最後の力を振り絞るように、よろめきながら、それでも真っ直ぐにこちらへ向かってくる。鞍上の人物は、ボロボロだった。鎧は砕け、包帯は血に染まり、泥だらけで誰かも判別がつかないほどだ。馬上で揺られ、今にも落ちそうになっている。
けれど。その背筋だけは、まるで鋼鉄が入っているかのように、ピンと伸びていた。そして首元には、泥に汚れながらも鮮やかな、赤い色がなびいていた。
「……ほら、来た」
マスターは満足そうに頷くと、「さて、明日のシフトでも組むかねぇー」と大げさに伸びをして、空気を読んで去っていった。
蹄の音が近づく。ノアは一歩、前に出た。視界が滲む。涙でぼやけないように、必死で目を見開く。
馬が、城門の前で止まった。限界だったのだろう。馬も、そして乗り手も。アルベルトは、降りるというより、転げ落ちるように地面に足をつけた。足がもつれ、膝をつく。それでも、彼は顔を上げ、ノアの姿を見つけると、泥だらけの顔をくしゃりと歪めて笑った。
「……っ!」
ノアは駆け出した。淑女の作法も、メイドの矜持もかなぐり捨てて。スカートの裾を掴み、なりふり構わず走った。
アルベルトの元へ。彼の胸に飛び込み、その重みと、血と汗の匂いと、そして確かな体温を全身で受け止める。
「……ぁ……」
声にならない。生きてる。心臓が動いてる。帰ってきた。本当に、私のもとへ。
何から言おう。大好き。愛してる。よかった。生きて帰ってありがとう。感情が入り混じりすぎてどれから声に出していいかわからない。
少しの静寂。アルベルトは荒い息を整え、震える手でノアの背中に腕を回した。強く、壊れ物を扱うように優しく、抱きしめる。
「……ノア」
掠れた、ひどい声だった。でも、世界で一番聞きたかった声だった。
ノアの脳内で感情が一気に吹き出る。
しかし、っ口から出た言葉は。妻としての最大限の強がりだった。
「…………遅いです」
ノアは、彼の胸に顔を埋めたまま、震える声で文句を言った。
「夕食の時間、とっくに過ぎてます。……スープ、冷めちゃいました」
それが彼女にとっての精一杯の強がりと、ありったけの愛情の裏返しだった。アルベルトは苦笑し、泥だらけの手で彼女の頭を撫でた。
「……ああ。申し訳ない」
彼は力を込めて、言った。
「でも……ただいま」
ノアは顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、世界で一番美しい笑顔を咲かせた。
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