「彼女はただの相談相手です」と私を信じなかった王子へ――宮廷薬師の私は辺境で生き直します。今さら毒殺未遂で呼び戻されても、もう遅いです

れおぽん

文字の大きさ
7 / 40

第7話 記録だけは裏切りません

 その日から、私は感情で争うことをやめました。

 やめた、というより、もう意味がないと理解したのです。殿下のお言葉に傷つくたび、ミリア嬢の柔らかな声に立つ場所を削られるたび、私はその場で何かを返したくなりました。違います、と。そうではありません、と。私は嫉妬で申し上げているのではなく、お体のために必要なことを言っているだけです、と。
 けれど、どれだけ言葉を重ねても、その場の空気は変わらない。むしろ私だけが、空気を冷やす女として残っていく。
 でしたら、もうよいのです。言葉ではなく、残すべきものを残しましょう。

 翌朝、私は小部屋の机に新しい帳面を三冊並べました。
 一冊目はこれまで通りの薬歴帳。服薬、食事、睡眠、発熱や頭痛といった体調変化を記すためのもの。
 二冊目は、茶葉と香と甘味の出入りを記すための帳面。王子の私室へ運ばれたもの、持ち込まれたもの、私の指示を通ったものとそうでないものを分けて書く。
 三冊目は、面会記録。殿下の私室や執務室で誰がどれほどの時間を共にし、何を持ち込み、何を勧めたか。ここまでする必要があるとは思いたくなかったけれど、今の状況では必要でした。

 机の上に並んだ帳面を見て、我ながら少し笑ってしまいます。
 まるで監視です。婚約者がここまでするなど、みっともないと思う方もいるでしょう。薬師としても、行き過ぎだと笑われるかもしれません。
 けれど、私はもう、自分の感じてきた違和感を曖昧なままにしておきたくありませんでした。あとから「気にしすぎだった」と自分を丸め込まないためにも、今、ここで何が起きているのかを、はっきり形にしておきたい。

「セレナ様、こちらでよろしいでしょうか」

 リナが抱えてきたのは、ここ一週間分の盆の控えと茶葉庫の補助帳でした。頼んでおいたものです。王子付き侍女たちの間で使われている簡易の控えなので、正式な帳面ほど整ってはいません。けれど、こういうものほど人の手癖が出ます。

「ありがとう。あと、ここ三日の間に殿下の私室へ入った方の名も、分かる範囲で書き出していただける?」
「はい。ただ……」
 リナは少しだけ言いよどみました。
「最近は、ミリア様が急にいらっしゃることも多くて、正確なお時間までは……」
「大丈夫。分かる範囲で十分よ」

 侍女を困らせたいわけではないのです。彼女たちもまた、殿下の機嫌とミリア嬢の親しみやすさと、私の指示の間で揺れているだけなのですから。
 私は控えを受け取り、まず茶葉庫の帳面を開きました。

 白花茶、二回。
 蜜草茶、三回。
 夜用の鎮静茶、一回。
 本来なら私の印が入るはずの欄に、空白がある。
 あるいは、見慣れない筆跡で「殿下ご希望」とだけ添えてある。

 殿下ご希望。
 便利な言葉です。その一言があれば、誰も止めにくい。
 けれど本当に殿下が望まれたのか、それとも、そういう空気を整えた人がいたのか。そこまでは帳面に残りません。

 私は別の帳面を開き、昨日までの分を順番に写していきました。
 白花茶が入った日には、夜に喉の違和感。
 蜜草茶が続いた日には、朝の渇き。
 香油が変わった日は、夕方の頭痛。
 小さな乱ればかりです。誰かに見せれば、気のせいだと言われるかもしれない程度のもの。けれど、何度も見てきた身には分かります。これは偶然ではありません。

 昼前、ユーグ先生が小部屋へ顔を出されました。先生は机に広げられた帳面の山を見て、何も言わずに眼鏡の位置を少し直します。

「……本格的に始めましたな」
「始めたくはありませんでした」
「でしょうな」

 私は手を止めずに答えました。先生は机の端へ寄り、私の書き出した欄を順番に見ていかれます。白花茶の日、香油変更の日、面会記録の偏り。
 そして、ぽつりと。

「よく残しました」
「残さなければ、私まで分からなくなりそうでしたので」
「そういう時ほど、記録は役に立ちます」

 その一言に、胸の奥が少しだけほどけました。役に立つ。そう、私はそれを信じたいのです。言葉はその場の空気に負けることがあっても、紙の上の事実は、少なくともあとからすり替わりにくい。

「先生」
「なんですかな」
「私、ここまで細かく残して……滑稽ではありませんか」
「滑稽に見える者もおりましょう」
 先生は即答しました。
「ですが、滑稽に見えることと、必要であることは別でございます」

 私は小さく息を吐きました。先生はやはり、優しいことだけを言う方ではありません。けれど、その率直さに救われることもあります。

 午後、王子の私室へ届けられる昼食の確認に向かった時でした。扉の前で盆を持った若い侍女が困った顔で立ち尽くしています。上には二種類の菓子皿が載っていました。ひとつは私が指示した、甘みを抑えた柔らかな焼き菓子。もうひとつは、花蜜を煮詰めた、香りの強い菓子です。

「どうしたの」
「あ、セレナ様……その、こちらはミリア様が、殿下がお疲れだから甘いものも必要ではと」
「こちらは?」
「セレナ様のご指示で……」

 並べられた二皿を見て、私はほんの一瞬だけ目を閉じました。
 こういうことです。
 誰かが露骨に私の指示を破っているわけではない。むしろ皆、殿下のためだと思っている。だからこそ、線が曖昧になっていく。善意が混じるぶん、止める側の私ばかりが厳しい人間に見える。

「花蜜の方は下げてください」
「ですが」
「今のお体には合いません。疲れておられるからこそ、刺激の強い甘味は避けます」
「……承知いたしました」

 侍女は胸をなでおろしたように盆を持ち直しました。私はその様子を見て、また一つ記録すべきことが増えたと理解します。
 私の仕事は、殿下のお体を守ることです。けれど今は同時に、誰がどこまで殿下の身の回りへ入ってきているのか、その線引きの崩れも見なければならない。

 私は小部屋へ戻るなり、帳面を開きました。

 本日、昼。私室へ運ばれる昼食に花蜜菓子追加の動きあり。ミリア嬢の意向と侍女が証言。指示により撤回。

 淡々と書き、次に面会記録の欄を埋めていきます。
 午前、秘書官十五分。
 同刻、ミリア嬢二十五分。
 昼前、侍女二名。茶葉持ち込み一件。
 午後、扉前で待機中の従者二名。私の指示と別の指示が併存。

 数字にすると、かえってはっきりしました。ミリア嬢は、もう一時的な慰め役ではありません。殿下の生活の細部へ、かなり深く入り始めている。そしてそれは、婚約者としての私の席だけでなく、薬師としての私の席にも食い込んでいる。

 夕方、控えの整理をしていると、一枚の小さな紙片が盆の控えの間から落ちました。たぶん侍女が挟んだのでしょう。そこには雑な筆跡でこう書かれています。

 “最近は、まずミリア様に確認した方がよいかもしれません”

 私はしばらく、その紙を見つめていました。
 侍女たちを責める気にはなれません。現場で動く者は、場の空気に敏いのです。誰の言葉が今、一番通りやすいか。誰へ先に話を通せば面倒がないか。そうやって自然に判断していく。
 つまりこれは、ただの伝言ではありません。今、王子の周りで何が起きているかの、あまりに分かりやすい証拠でした。

 私はその紙片も、帳面の間へ挟みました。
 証拠と言うにはあまりに小さい。けれど、小さいものほど後から「そんなことはなかった」と言われやすいのです。だから残す。

 日が落ちる頃には、机の上は紙でいっぱいになっていました。
 薬歴。
 茶葉。
 香。
 面会。
 侍女の控え。
 どれもそれぞれは些細です。けれど、並べると見えてくる。
 ここ数日で、殿下の周りの管理は確実に揺らいでいる。
 そして私は、その揺らぎの外へ押しやられつつある。

 私は新しい頁を開き、ゆっくりと書きました。

 これで信じてもらえないのなら、もう終わりにします。

 書いた瞬間、自分でも驚くほど静かにその言葉が胸へ落ちました。衝動ではありません。怒りでもない。ただ、線です。これ以上曖昧に耐え続けて、自分が何に傷ついているのかさえ見失う前に、引かなければならない線。

 窓の外はすでに薄暗く、王宮の灯りが一つずつともり始めていました。遠くで誰かの笑う声がして、その中に、殿下のものに似た気配が一瞬混じった気がします。
 私はもう確かめには行きませんでした。

 確かめるべきことは、十分すぎるほど机の上にあるからです。

 記録だけは裏切りません。
 私が見たことも、飲み込んだことも、誰にどんな顔で退けられたかも。
 好きだったことさえ、ここでは嘘にならない。

 だから、もう少しだけ積み上げましょう。
 その先で、それでもなお私の言葉が軽いのだとしたら――その時こそ、きちんと終わらせるために。
感想 17

あなたにおすすめの小説

愛さないと言われた妻、侍女と出て行く

菜花
ファンタジー
お前を愛することはないと夫に言われたコレットは、その日のうちに侍女のイネスと屋敷を出て行った。カクヨム様でも投稿しています。

片思いの貴方に何度も告白したけど断られ続けてきた

アリス
恋愛
幼馴染で学生の頃から、ずっと好きだった人。 高校生くらいから何十回も告白した。 全て「好きなの」 「ごめん、断る」 その繰り返しだった。 だけど彼は優しいから、時々、ご飯を食べに行ったり、デートはしてくれる。 紛らわしいと思う。 彼に好きな人がいるわけではない。 まだそれなら諦めがつく。 彼はカイル=クレシア23歳 イケメンでモテる。 私はアリア=ナターシャ20歳 普通で人には可愛い方だと言われた。 そんなある日 私が20歳になった時だった。 両親が見合い話を持ってきた。 最後の告白をしようと思った。 ダメなら見合いをすると言った。 その見合い相手に溺愛される。

三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで

狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。 一度目は信じた。 二度目は耐えた。 三度目は――すべてを失った。 そして私は、屋上から身を投げた。 ……はずだった。 目を覚ますと、そこは過去。 すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。 ――四度目の人生。 これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、 同じように裏切られ、すべてを失ってきた。 だから今度は、もう決めている。 「もう、陸翔はいらない」 愛していた。 けれど、もう疲れた。 今度こそ―― 自分を守るために、家族を守るために、 私は、自分から手を放す。 これは、三度裏切られた女が、 四度目の人生で「選び直す」物語。

愛される女と利用される女 ~すぐ怪我する義妹と心配する王子、私はお見合いで何を見せられているのでしょうか~

夢窓(ゆめまど)
恋愛
スミッシィ公爵家のひとり娘ハーミヤは、王太子のお見合い相手に選ばれた。 しかし何度会っても、会話は天気と花だけ。毎回、王子の義妹が怪我をして乱入してお見合いは、途中で終わる。 断ったはずのプロポーズ。サインしていない婚約書類。気づけば結婚式の準備だけが、勝手に進んでいた。 これは、思い込みの激しい王子と、巻き込まれた公爵令嬢の話。

【完結】病弱な妹に魔力を分け続け死ぬ寸前の私を、宮廷魔術師になった旧友が攫ってくれました。家族を捨てて幸せになっていいんですか?

未知香
恋愛
「あなたはもう十分楽しんだでしょう? 今度はミアーラの番よ」 膨大な魔力と知識を持ち、聖女候補とまで言われた、天才魔術師エリアーナ。 彼女は、病弱な妹ミアーラの為、家族に言われるまま自らの膨大な魔力を差し出すことにした。 「そうだ。私は健康で、今まで十分に楽しんできた。だから、あげるのは当然だ」 魔力を与え続けた結果、彼女は魔力を失い、容姿も衰え、社交界から姿を消してしまう事となった。 一方、妹ミアーラは姉から与えられた魔力を使い、聖女候補として称賛されるように。 家族の呪縛に縛られ、「今まで多くを貰いすぎていたのだ」と信じ、利用され続けるエリアーナ。 そんな彼女の前に現れたのは、かつての旧友であり宮廷魔術師となった青年だった。 ハッピーエンドです!

「病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?

さんけい
恋愛
婚約者リチャードは、約束のたびに「病弱な従妹エミリーが」と言ってイブリンを後回しにした。最初は思いやりだと信じていた。だが、それが一度や二度ではなく、婚約者としての敬意も誠実さも踏みにじられ続けた末、イブリンはついに婚約の継続を拒む。 ところが、事はただの婚約破棄では終わらなかった。 弱々しく見える従妹エミリーは、どうにも“ただ可哀想なだけの娘”ではない。人によって態度を変え、相手の良心につけ込み、じわじわと人間関係を侵していくその姿に、イブリンの家族は次第に違和感を強めていく。やがてその違和感は、婚約者個人の未熟さだけでなく、相手の家そのものが抱える歪みへとつながっていき――。 家族に守られながら婚約解消へ進むヒロインと、見えているのに見誤り続けた婚約者。 そして“病弱な従妹”の奥に潜んでいたものとは。 婚約破棄から始まる、じわりと不穏で、最後にはきっちり決着する人間ドラマ。 全90回。予約投稿済みです。 6時と17時に更新致します。

【完結】王子は聖女と結婚するらしい。私が聖女であることは一生知らないままで

雪野原よる
恋愛
「聖女と結婚するんだ」──私の婚約者だった王子は、そう言って私を追い払った。でも、その「聖女」、私のことなのだけど。  ※王国は滅びます。

「仲睦まじい夫婦」であるはずのわたしの夫は、わたしの葬儀で本性をあらわした

ぽんた
恋愛
サヤ・ラドフォード侯爵夫人が死んだ。その葬儀で、マッケイン王国でも「仲睦まじい夫婦」であるはずの彼女の夫が、妻を冒涜した。その聞くに堪えない本音。そんな夫の横には、夫が従妹だというレディが寄り添っている。サヤ・ラドフォードの棺の前で、夫とその従妹はサヤを断罪する。サヤは、ほんとうに彼らがいうような悪女だったのか?  ※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。