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第8話 婚約者ではなく、薬師としても不要なのですね
その言葉は、午前の終わりに、あまりにも軽く落ちてきました。
私はいつものように小部屋で薬を整えていました。昼に入る前の分、午後の外出に備えた頓服、喉の違和感が出た時の煎じ薬。ここ数日で殿下の体調は表向き落ち着いているように見えますが、乱れたものを一度整えたくらいで油断してよいはずがありません。だから私は、以前より細かく薬を分け、紙片に服用のタイミングと注意を書き添えていました。
机の上へ並べた小袋を確認していると、扉が開き、リナが一礼しました。
「セレナ様、殿下がお呼びです」
「今、参ります」
呼ばれること自体は珍しくありません。けれど、その声色が少しだけ固かったのが気になりました。私は小袋を順に盆へ載せ、書きつけも添えてから殿下の私室へ向かいます。
室内へ入ると、レオナルト殿下は窓辺の長椅子に腰掛けておられました。その隣には、やはりミリア嬢がいます。最近では驚きもしません。驚かないことに、自分でも少しだけ疲れを覚えるほどです。
「失礼いたします。昼の前のお薬を」
「うん、そこへ置いてくれ」
殿下は軽く顎をしゃくり、私が盆を机へ置くのを待ちました。私は一礼し、いつものように説明を始めます。
「本日は午後に外出のご予定がございますので、昼前のお薬は少し軽くしております。代わりに、戻られた後にこちらを。喉の違和感が続くようでしたら煎じ薬を」
「それなんだが」
殿下が私の言葉を途中で止めました。
不意打ちのようなその口調に、私は顔を上げます。殿下は困ったように笑っていました。怒っているわけでも、冷たくしているわけでもありません。ただ、こちらをなるべく傷つけずに済ませようとする時の、あの笑みです。
「今後、お薬や体調のことは、一度ミリアを通してくれないか」
私はすぐには意味が分かりませんでした。
聞き取れなかったわけではありません。言葉そのものははっきり耳に入った。ただ、それが何を意味しているのか、理解するまでにほんの少し時間がかかったのです。
「……ミリア嬢を、通すのでございますか」
「うん。君は、どうしても言い方が固くなるだろう」
殿下は気まずそうに視線を逸らしました。
「私も、最近は少し息が詰まる時があってね。ミリアは話し方がやわらかいし、気持ちの整理もしやすい。だから、まず彼女から聞いて、それを私に伝えてもらう方が……その、受け取りやすいんだ」
受け取りやすい。
その言葉が、静かに胸の奥へ沈みました。
ミリア嬢は慌てたように首を振ります。
「まあ、殿下。そんな、わたくしはただ」
「ただ、何ですの」
自分でも驚くほど、平らな声が出ました。
怒っているわけではありません。泣きそうでもない。ただ、きちんと確かめなければならないと思ったのです。
「ただ、殿下のお気持ちが軽くなるよう、間に入るだけですわ。セレナ様のお言葉が間違っているとは、わたくしも思っておりません。ただ、その……殿下が少しお疲れになってしまうこともあるようで」
優しい言い方でした。
誰も傷つけまいとする、いつもの柔らかな声。
でも結局、言っていることは同じです。私の言葉は正しくても、重い。きつい。疲れる。だから、やわらかく包んでくれる誰かを間に挟みたい。
「殿下」
私はレオナルト殿下へ向き直りました。
「薬の量、服用の間隔、食事との兼ね合い、香との相性。そういったことは、伝わり方よりも、正確さが要るのです」
「分かっているよ」
「いいえ、分かっておられません」
その一言で、空気が止まりました。
ミリア嬢が目を見開き、殿下は眉を寄せます。私はそれでも続けました。ここで曖昧にしたら、もう本当に終わる気がしたのです。
「やわらかく受け取れるように言葉を変えることと、薬の指示を別の方を通すことは、まったく違います。殿下のお体に関わることです。間にお一人入れば、それだけ抜けや齟齬が生じます」
「ミリアがそこまで不注意だと言いたいのか」
「そうではございません。分からない方へ預けてはならないと申し上げているのです」
「またそういう言い方をする」
殿下の声に、うっすらと苛立ちが混じりました。
「君はいつも、正しいのだろう。だが、正しいことばかりをまっすぐぶつけられる側の気持ちも考えてくれ」
「考えております」
「なら、どうして少し穏やかにできない」
「穏やかに申し上げた結果が、今のこの状態ではございませんか」
そこまで口にした時、自分の胸がひどく静かなことに気づきました。
不思議でした。もっと取り乱すと思っていたのです。怒ってしまうかもしれないとさえ思っていました。けれど実際には違いました。私の中で何かが、すでに一度冷え切っていたのでしょう。だから今は、ただ確認しているだけなのです。どこまで壊れたのかを。
殿下は黙りました。けれど、それは私の言葉に心を動かされた沈黙ではありません。どう返せば面倒にならないか考えている時の沈黙でした。そういう沈黙の違いも、私はもう知っています。
「……とにかく」
やがて殿下は言いました。
「決めたんだ。今後は、まずミリアに伝えてくれ。薬そのものを作るのはこれまで通り君でいい。ただ、私へ話すのは彼女を通してほしい」
薬そのものを作るのは君でいい。
その響きが、耳の奥で妙に遠く聞こえました。
君でいい。
それはつまり、薬を作る手だけあればよい、ということなのでしょうか。私の判断も、説明も、積み重ねてきた知識も、殿下に直接届く必要はないと。婚約者として隣に立つだけでなく、薬師としての言葉まで、殿下にはもう重いだけなのだと。
私はしばらく殿下を見つめました。
幼い頃から見てきた顔です。薬を嫌がった子どもの頃の顔も、婚約が決まった時の少し照れたような笑みも、体調を崩して苦しそうに伏せた横顔も、私は全部知っています。
その人が今、こんなにも軽く、私の役目を切り分けようとしている。
「……殿下」
名前を呼ぶ代わりのように、その一言だけを落としました。
「婚約者ではなく、薬師としての言葉まで不要なのですね」
殿下が、はっとしたように目を上げます。
「そんな言い方はしていない」
「ですが、意味は同じでございます」
「違う。私はただ、少しやわらかくしてほしいと」
「やわらかく受け取るために、私の言葉を別の方が整えてから殿下へ渡すのでしょう?」
私は自分の声が震えていないことに、少し驚いていました。
「それはもう、私の言葉ではございません」
ミリア嬢が青ざめて、何か言おうとします。
「セレナ様、わたくし、そのようなつもりでは」
「でしょうね」
私は彼女を見ました。
「あなたはきっと、そういうつもりではないのでしょう。でも、つもりで済まないこともございます」
そこから先は、もう殿下へ向けて言いました。
「私は殿下のお気持ちを軽んじたいのではございません。ですが、お体に関わることは、お気持ちの軽さより先に正確さが要ります。そこが煩わしいと仰るのであれば、それはもう……」
喉の奥が少しだけ詰まりました。けれど、ここで止めてはいけない気がしたのです。
「それはもう、私がここにいる理由そのものを、殿下が重いと感じておられるということではございませんか」
長い沈黙が落ちました。
窓の外で鳥が鳴いています。春の、穏やかな昼前の音。こんなにも静かなのに、私の前だけ世界の輪郭が少しずつ変わっていくようでした。
レオナルト殿下は立ち上がり、数歩だけ私の方へ寄りました。
「セレナ、私はそこまで」
「でしたら、お撤回くださいませ」
自分でも驚くほど、きっぱり言えました。
「今後も、薬と体調に関することは私が直接申し上げる。それを重いと思われても、必要なこととして受け取ると、そう仰ってくださいませ」
「……それは」
殿下は言葉に詰まりました。
その一瞬で、十分でした。
撤回できないのです。
言い過ぎたと思っても、引き戻せない。私の言葉を重いと感じていることも、ミリア嬢を間に入れた方が楽だと思っていることも、全部本当だから。
そしてその本当を、今、殿下ご自身が証明してしまった。
私は一礼しました。
「承知いたしました」
「セレナ」
「ご安心くださいませ。薬は作ります。必要な処方も整えます。殿下のお体に不利益が出ぬよう、薬師としての責務は果たします」
そこまで言って、私は顔を上げました。
「ですが、それ以上のことは、少し考えさせていただきます」
殿下の表情が、ようやくはっきり揺れました。けれど、それでも私を引き留める言葉は出てきません。出せないのでしょう。自分が何を言ったのか、どこまで踏み込んだのか、まだ実感しきれていない顔でした。
私は盆の上の薬を整え直し、説明の紙だけを机に残しました。紙の上には、これまでと同じように整った字で、服用時間と注意点が並んでいます。けれど、それを殿下へどう伝えるのかは、もう私の知るところではありません。
小部屋へ戻ると、机の上の帳面が静かに私を待っていました。
私は座る前に一度、深く息を吐きます。泣く気はありませんでした。今はただ、残さなければいけない。
薬歴帳ではなく、まず私用の記録帳を開きました。
そこへ、できるだけ崩れない字で書きます。
本日、午前。
殿下より、今後の薬および体調管理に関する説明は、ミリア嬢を通して行うよう要請あり。
薬の調合自体は私が行うよう指示。
殿下は「受け取りやすさ」を理由に挙げる。
直接の説明および進言は、実質的に不要とされた。
書き終えて、しばらく動けませんでした。
直接の説明および進言は、実質的に不要とされた。
事実として書けば、ただそれだけです。けれど、その一行が意味するものは、あまりにも大きかった。
婚約者として軽んじられることには、まだ耐えようと思っていたのかもしれません。
好きだったからです。好きだった時間の分だけ、簡単には切れなかった。
けれど、薬師としての言葉まで要らないと言われてしまえば、もう私がここへ残る理由は何なのでしょう。
私は次の紙を引き寄せました。
婚約解消の手続きに必要な書き付け。
王宮薬師の任を離れる場合の申し出先。
引き継ぎに必要な薬歴帳の整理。
思いつく限りを書き出していきます。
まだ決めたわけではない、と思いながら。
でも、書く手は迷いませんでした。
やがて、紙の上には箇条書きがいくつも並びます。
婚約解消。薬師任の返上。引き継ぎ。移動先の検討。
その中で、ひとつだけ強く浮かんだのは、叔母の住む北辺の領地の名でした。以前、来ないかと声をかけられたことがある。薬師が足りず、厳しい土地だと。それでも、腕のある者なら歓迎すると。
あの時は笑って断りました。自分は王都を離れることなどないと思っていたから。
今は分かりません。
でも少なくとも、今日ここで何かが終わったのだということだけは、はっきりしていました。
私は最後に、帳面の端へ一行だけ書き足しました。
それでは、わたくしはもう、ここにいる理由がありません。
文字を見つめたまま、私はゆっくりとまぶたを閉じます。
苦しいのに、不思議と胸の中は静かでした。ようやく、自分がどこまで軽くされたのかを、曖昧ではなく認められたからかもしれません。
机の上には、薬歴帳と記録帳と、引き継ぎのための白い紙。
私はその一枚を指先でそろえながら、心の中でごく静かに言いました。
もう、終わらせましょう。
私はいつものように小部屋で薬を整えていました。昼に入る前の分、午後の外出に備えた頓服、喉の違和感が出た時の煎じ薬。ここ数日で殿下の体調は表向き落ち着いているように見えますが、乱れたものを一度整えたくらいで油断してよいはずがありません。だから私は、以前より細かく薬を分け、紙片に服用のタイミングと注意を書き添えていました。
机の上へ並べた小袋を確認していると、扉が開き、リナが一礼しました。
「セレナ様、殿下がお呼びです」
「今、参ります」
呼ばれること自体は珍しくありません。けれど、その声色が少しだけ固かったのが気になりました。私は小袋を順に盆へ載せ、書きつけも添えてから殿下の私室へ向かいます。
室内へ入ると、レオナルト殿下は窓辺の長椅子に腰掛けておられました。その隣には、やはりミリア嬢がいます。最近では驚きもしません。驚かないことに、自分でも少しだけ疲れを覚えるほどです。
「失礼いたします。昼の前のお薬を」
「うん、そこへ置いてくれ」
殿下は軽く顎をしゃくり、私が盆を机へ置くのを待ちました。私は一礼し、いつものように説明を始めます。
「本日は午後に外出のご予定がございますので、昼前のお薬は少し軽くしております。代わりに、戻られた後にこちらを。喉の違和感が続くようでしたら煎じ薬を」
「それなんだが」
殿下が私の言葉を途中で止めました。
不意打ちのようなその口調に、私は顔を上げます。殿下は困ったように笑っていました。怒っているわけでも、冷たくしているわけでもありません。ただ、こちらをなるべく傷つけずに済ませようとする時の、あの笑みです。
「今後、お薬や体調のことは、一度ミリアを通してくれないか」
私はすぐには意味が分かりませんでした。
聞き取れなかったわけではありません。言葉そのものははっきり耳に入った。ただ、それが何を意味しているのか、理解するまでにほんの少し時間がかかったのです。
「……ミリア嬢を、通すのでございますか」
「うん。君は、どうしても言い方が固くなるだろう」
殿下は気まずそうに視線を逸らしました。
「私も、最近は少し息が詰まる時があってね。ミリアは話し方がやわらかいし、気持ちの整理もしやすい。だから、まず彼女から聞いて、それを私に伝えてもらう方が……その、受け取りやすいんだ」
受け取りやすい。
その言葉が、静かに胸の奥へ沈みました。
ミリア嬢は慌てたように首を振ります。
「まあ、殿下。そんな、わたくしはただ」
「ただ、何ですの」
自分でも驚くほど、平らな声が出ました。
怒っているわけではありません。泣きそうでもない。ただ、きちんと確かめなければならないと思ったのです。
「ただ、殿下のお気持ちが軽くなるよう、間に入るだけですわ。セレナ様のお言葉が間違っているとは、わたくしも思っておりません。ただ、その……殿下が少しお疲れになってしまうこともあるようで」
優しい言い方でした。
誰も傷つけまいとする、いつもの柔らかな声。
でも結局、言っていることは同じです。私の言葉は正しくても、重い。きつい。疲れる。だから、やわらかく包んでくれる誰かを間に挟みたい。
「殿下」
私はレオナルト殿下へ向き直りました。
「薬の量、服用の間隔、食事との兼ね合い、香との相性。そういったことは、伝わり方よりも、正確さが要るのです」
「分かっているよ」
「いいえ、分かっておられません」
その一言で、空気が止まりました。
ミリア嬢が目を見開き、殿下は眉を寄せます。私はそれでも続けました。ここで曖昧にしたら、もう本当に終わる気がしたのです。
「やわらかく受け取れるように言葉を変えることと、薬の指示を別の方を通すことは、まったく違います。殿下のお体に関わることです。間にお一人入れば、それだけ抜けや齟齬が生じます」
「ミリアがそこまで不注意だと言いたいのか」
「そうではございません。分からない方へ預けてはならないと申し上げているのです」
「またそういう言い方をする」
殿下の声に、うっすらと苛立ちが混じりました。
「君はいつも、正しいのだろう。だが、正しいことばかりをまっすぐぶつけられる側の気持ちも考えてくれ」
「考えております」
「なら、どうして少し穏やかにできない」
「穏やかに申し上げた結果が、今のこの状態ではございませんか」
そこまで口にした時、自分の胸がひどく静かなことに気づきました。
不思議でした。もっと取り乱すと思っていたのです。怒ってしまうかもしれないとさえ思っていました。けれど実際には違いました。私の中で何かが、すでに一度冷え切っていたのでしょう。だから今は、ただ確認しているだけなのです。どこまで壊れたのかを。
殿下は黙りました。けれど、それは私の言葉に心を動かされた沈黙ではありません。どう返せば面倒にならないか考えている時の沈黙でした。そういう沈黙の違いも、私はもう知っています。
「……とにかく」
やがて殿下は言いました。
「決めたんだ。今後は、まずミリアに伝えてくれ。薬そのものを作るのはこれまで通り君でいい。ただ、私へ話すのは彼女を通してほしい」
薬そのものを作るのは君でいい。
その響きが、耳の奥で妙に遠く聞こえました。
君でいい。
それはつまり、薬を作る手だけあればよい、ということなのでしょうか。私の判断も、説明も、積み重ねてきた知識も、殿下に直接届く必要はないと。婚約者として隣に立つだけでなく、薬師としての言葉まで、殿下にはもう重いだけなのだと。
私はしばらく殿下を見つめました。
幼い頃から見てきた顔です。薬を嫌がった子どもの頃の顔も、婚約が決まった時の少し照れたような笑みも、体調を崩して苦しそうに伏せた横顔も、私は全部知っています。
その人が今、こんなにも軽く、私の役目を切り分けようとしている。
「……殿下」
名前を呼ぶ代わりのように、その一言だけを落としました。
「婚約者ではなく、薬師としての言葉まで不要なのですね」
殿下が、はっとしたように目を上げます。
「そんな言い方はしていない」
「ですが、意味は同じでございます」
「違う。私はただ、少しやわらかくしてほしいと」
「やわらかく受け取るために、私の言葉を別の方が整えてから殿下へ渡すのでしょう?」
私は自分の声が震えていないことに、少し驚いていました。
「それはもう、私の言葉ではございません」
ミリア嬢が青ざめて、何か言おうとします。
「セレナ様、わたくし、そのようなつもりでは」
「でしょうね」
私は彼女を見ました。
「あなたはきっと、そういうつもりではないのでしょう。でも、つもりで済まないこともございます」
そこから先は、もう殿下へ向けて言いました。
「私は殿下のお気持ちを軽んじたいのではございません。ですが、お体に関わることは、お気持ちの軽さより先に正確さが要ります。そこが煩わしいと仰るのであれば、それはもう……」
喉の奥が少しだけ詰まりました。けれど、ここで止めてはいけない気がしたのです。
「それはもう、私がここにいる理由そのものを、殿下が重いと感じておられるということではございませんか」
長い沈黙が落ちました。
窓の外で鳥が鳴いています。春の、穏やかな昼前の音。こんなにも静かなのに、私の前だけ世界の輪郭が少しずつ変わっていくようでした。
レオナルト殿下は立ち上がり、数歩だけ私の方へ寄りました。
「セレナ、私はそこまで」
「でしたら、お撤回くださいませ」
自分でも驚くほど、きっぱり言えました。
「今後も、薬と体調に関することは私が直接申し上げる。それを重いと思われても、必要なこととして受け取ると、そう仰ってくださいませ」
「……それは」
殿下は言葉に詰まりました。
その一瞬で、十分でした。
撤回できないのです。
言い過ぎたと思っても、引き戻せない。私の言葉を重いと感じていることも、ミリア嬢を間に入れた方が楽だと思っていることも、全部本当だから。
そしてその本当を、今、殿下ご自身が証明してしまった。
私は一礼しました。
「承知いたしました」
「セレナ」
「ご安心くださいませ。薬は作ります。必要な処方も整えます。殿下のお体に不利益が出ぬよう、薬師としての責務は果たします」
そこまで言って、私は顔を上げました。
「ですが、それ以上のことは、少し考えさせていただきます」
殿下の表情が、ようやくはっきり揺れました。けれど、それでも私を引き留める言葉は出てきません。出せないのでしょう。自分が何を言ったのか、どこまで踏み込んだのか、まだ実感しきれていない顔でした。
私は盆の上の薬を整え直し、説明の紙だけを机に残しました。紙の上には、これまでと同じように整った字で、服用時間と注意点が並んでいます。けれど、それを殿下へどう伝えるのかは、もう私の知るところではありません。
小部屋へ戻ると、机の上の帳面が静かに私を待っていました。
私は座る前に一度、深く息を吐きます。泣く気はありませんでした。今はただ、残さなければいけない。
薬歴帳ではなく、まず私用の記録帳を開きました。
そこへ、できるだけ崩れない字で書きます。
本日、午前。
殿下より、今後の薬および体調管理に関する説明は、ミリア嬢を通して行うよう要請あり。
薬の調合自体は私が行うよう指示。
殿下は「受け取りやすさ」を理由に挙げる。
直接の説明および進言は、実質的に不要とされた。
書き終えて、しばらく動けませんでした。
直接の説明および進言は、実質的に不要とされた。
事実として書けば、ただそれだけです。けれど、その一行が意味するものは、あまりにも大きかった。
婚約者として軽んじられることには、まだ耐えようと思っていたのかもしれません。
好きだったからです。好きだった時間の分だけ、簡単には切れなかった。
けれど、薬師としての言葉まで要らないと言われてしまえば、もう私がここへ残る理由は何なのでしょう。
私は次の紙を引き寄せました。
婚約解消の手続きに必要な書き付け。
王宮薬師の任を離れる場合の申し出先。
引き継ぎに必要な薬歴帳の整理。
思いつく限りを書き出していきます。
まだ決めたわけではない、と思いながら。
でも、書く手は迷いませんでした。
やがて、紙の上には箇条書きがいくつも並びます。
婚約解消。薬師任の返上。引き継ぎ。移動先の検討。
その中で、ひとつだけ強く浮かんだのは、叔母の住む北辺の領地の名でした。以前、来ないかと声をかけられたことがある。薬師が足りず、厳しい土地だと。それでも、腕のある者なら歓迎すると。
あの時は笑って断りました。自分は王都を離れることなどないと思っていたから。
今は分かりません。
でも少なくとも、今日ここで何かが終わったのだということだけは、はっきりしていました。
私は最後に、帳面の端へ一行だけ書き足しました。
それでは、わたくしはもう、ここにいる理由がありません。
文字を見つめたまま、私はゆっくりとまぶたを閉じます。
苦しいのに、不思議と胸の中は静かでした。ようやく、自分がどこまで軽くされたのかを、曖昧ではなく認められたからかもしれません。
机の上には、薬歴帳と記録帳と、引き継ぎのための白い紙。
私はその一枚を指先でそろえながら、心の中でごく静かに言いました。
もう、終わらせましょう。
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