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第11話 ここでは肩書より腕が要る
翌朝、目を覚ました時には、窓の外が一面の白になっていました。
王都ではもう春の匂いがしていたのに、北辺の朝はまだ冬の名残を色濃く残しています。番所の小さな窓には薄く霜がつき、昨夜のうちに積もった雪が、低い柵や道の端を静かに覆っていました。
寝台から身を起こすと、隣の仕切りの向こうで、昨日助けた子どもが小さく咳をしています。私はすぐに外套を羽織り、その子のもとへ向かいました。
「おはよう。気分はどう?」
声をかけると、少年はぼんやりした目を上げました。昨日よりは色があります。唇の紫もかなり薄れていた。私は額に手を当て、指先の冷えを確かめ、寝具の中の湿り具合を見る。
「お水は飲めそう?」
少年は小さく頷きました。番所の女が運んできてくれた白湯を少しずつ飲ませると、喉が動く。ここまでくれば大丈夫でしょう。熱は出ても、昨日のような危うさはもうありません。
「助かりましたか」
番所の女が胸を撫で下ろしました。
「ええ。今日は無理をさせず、温かい汁物を少しずつ。夕方までに強い咳が出なければ、おそらく落ち着きます」
「本当に、よかった……」
その安堵の言葉を聞きながら、私は自分の胸の奥も少しだけ緩むのを感じました。
王都を離れてから、初めて手の届くところで誰かを助けられた。そう思った瞬間、昨日まで胸に張りついていた重さがほんの少しだけ剥がれた気がしたのです。
朝食のあと、カイルが再び番所へ現れました。昨日と同じ濃い外套に、雪を払った跡が残っています。扉を開けるなり中の様子を一目で確かめ、私へ短く問いました。
「子どもは」
「峠は越えました。今日一日は様子を見ますが、もう命に関わる段階ではありません」
「そうか」
それだけ言って、彼は番所の女へ少年の家族の確認と、村への連絡を指示しました。無駄のない、簡潔なやり取りです。私はその横顔を見ながら、昨日の印象が間違っていなかったと感じていました。この人は言葉で飾るより先に、必要なことを決めて動く。
「支度ができ次第、領都へ向かう」
カイルは私へ視線を戻しました。
「道は朝よりましだが、油断はできない。馬車は揺れる」
「承知しております」
「酔うなら先に言ってくれ」
「大丈夫です」
「ならいい」
会話はそれで終わりでした。
けれど、不思議と気まずさはありません。王都なら、こういう短さはそっけなく感じたかもしれません。けれど今の私には、その簡潔さがありがたかった。余計な慰めも、探るような気遣いもないからです。私はただ、薬師としてそこにいて、彼もまたそれ以上でも以下でもなく扱ってくれる。
領都までの道は、昨日よりもさらに北の顔をしていました。雪は薄くなったものの、風が鋭い。馬車の窓越しに見える木々は丈が低く、家々の屋根は王都よりずっと傾斜がきつい。雪を落とすためなのでしょう。畑も広くはなく、代わりに薪の山や家畜小屋が目につきます。
生きるための形が、最初から王都とは違うのです。
昼前、ようやくヴァレスト領の領都へ着きました。
石造りの大きな街ではありません。城壁も王都ほど高くはなく、門の前には荷を積んだ馬車と、毛皮をまとった領民たちが数人いるだけです。それでも中へ入ると、通りは思っていたよりずっと活気がありました。肉屋、織物屋、鍛冶場、乾物を並べた店。寒さの中で暮らしを回すための匂いと音がある。
そして、その奥に見えた館もまた、王都の宮殿とは違う現実的な造りをしていました。飾りより、厚い壁と広い倉庫と雪に強い屋根。領主の館というより、冬を越えるための拠点に近い。
馬車を降りると、冷えた空気が頬へ刺さります。すぐに使用人が出てきて荷を受け取りましたが、王都のような大仰な挨拶はありません。好奇の混じった視線はあるものの、それ以上に「来たのか」「使えるのか」という実用の気配が強い。
その空気は嫌ではありませんでした。むしろ、ずっと息がしやすい。
「まずは診療所を見るか」
カイルが言いました。
「お部屋へ先に入られますか」
館の女中頭らしい人がそう挟みましたが、私は首を振ります。
「診療所を先に拝見したいです」
答えた瞬間、カイルの眉がほんのわずかに動きました。驚いたのではなく、測っていた答えが返ってきた時のような表情です。
「長旅のあとだ」
「承知しております。ですが、薬師として来たのですから、最初に見るべきはそこかと」
「……分かった。ついてきてくれ」
案内された診療所は、館の裏手にある独立した建物でした。中へ入った瞬間、私は思わず足を止めます。
薬草の匂いはあります。ありますが、整っていない。乾燥の甘い葉、湿気を吸った包み紙、分類の曖昧な小瓶、使いかけのまま封をし直されていない粉薬。棚はあるのに、棚として機能していない。これでは必要な時に必要なものが出てきません。
「……これは」
口をついて出た声に、若い見習いらしい娘がびくりと肩を揺らしました。
「も、申し訳ありません……!」
「責めているのではありません」
私はすぐに言い直し、棚へ近づきます。白花草、乾燥不足。苦枝、袋に日付なし。薄荷葉、虫食いあり。喉薬と腹薬の棚が隣り合い、瓶の形も似ている。これでは取り違えが起きてもおかしくない。
「ここで冬を越してきたのですか」
「なんとか」
見習いの娘がうつむいたまま答えました。
「先の薬師様が亡くなられてから、人手も足りず……分かる者が少なくて」
「診るだけで手一杯だった」
カイルが補足するように言いました。
「整える余裕まではなかった」
私は棚を一つずつ見て回りながら、頭の中で必要なことを数えていきます。分類のやり直し、乾燥の確認、腐りかけの処分、日付の再記入、保管法の見直し、冬場に不足しやすい薬草の洗い出し。半日では足りません。三日でも足りないかもしれない。
でも、やるしかない。
「このままでは冬を越せません」
振り返ってそう言うと、見習いの娘がさらに青ざめました。きつく聞こえたのでしょう。けれど私は事実を口にしただけです。
「いえ、脅しているのではありません。逆です。まだ今なら間に合います。まず棚を空けてください。乾燥が甘いものと虫が入ったものは分けます。包み紙も替えます」
「今から、ですか」
「今からです」
言い切ると、カイルが少しだけ息をつきました。反対するための息ではありません。腹を決めた人間のそれです。
「必要なものは」
「乾いた紙、紐、記録帳、新しい木札。可能なら炭を少し。あとは、ここへ普段出入りする者を全員」
「分かった」
カイルはすぐに部下へ指示を飛ばしました。物資の手配、女中頭の呼び出し、見習いの増員。話が早い。
その動きを見ながら、私は胸の奥でごく小さく驚いていました。王都では、まず理由を説明し、空気を整え、相手の負担を考え、ようやく一つ動く。ここでは違う。必要なら動く。そう決めたら早い。
午後いっぱい、私は診療所へ立ちっぱなしでした。
棚から薬草を出し、使えるものと駄目なものを分ける。見習いたちへ名前と効能を確認し、曖昧なものはすべて横へ避ける。紙に日付を書き、木札をつけ直し、薬が混ざらないよう棚の位置も入れ替える。誰がどこまで理解しているかも、この作業でよく分かりました。覚えの早い子、ただ言われた通りにしかできない子、知識はあるのに順番が苦手な子。それぞれに合わせて役目を振っていく。
日が傾くころには、私の指先は紙と紐で少し赤くなっていました。けれど不思議と疲れは重くありません。頭の中が澄んでいる。何をすべきかが、はっきり見えるからです。
「セレナ様」
振り向くと、見習いの娘が新しくまとめた記録帳を両手で抱えて立っていました。朝の怯えた顔とは違い、少しだけ目がまっすぐです。
「これで、よろしいでしょうか」
差し出された帳面を見る。日付、薬草名、使用量、残量。まだ粗いけれど、十分でした。
「ええ。とてもいいわ。この書き方なら、次の人が見ても分かります」
「……ありがとうございます」
その一言だけで、ここへ来た意味が少しだけ形になった気がしました。
王都では、私が整えることは“いつも通り”でした。ここでは違う。整えれば、ちゃんと変わる。人の顔も、場の空気も。
日が落ちてからようやく館へ戻ると、食堂には簡素な夕食が用意されていました。温かなスープと固めのパン、塩で焼いた肉。飾り気はありませんが、寒さの中で食べるには十分です。
席へ着くと、向かい側にカイルが座りました。
「休む前に一つ聞いておく」
「はい」
「明日も続けられるか」
私は思わず少し笑ってしまいました。
「続けます。まだ始まったばかりですもの」
「そうか」
彼は短く頷き、それ以上は何も言いません。
けれど少ししてから、スープの皿へ視線を落としたまま、ぽつりと続けました。
「ここでは、肩書より腕が要る」
私は顔を上げます。
「王都で何だったかは、正直どうでもいい。使えるなら助かる。使えないなら困る。ただそれだけだ」
冷たい言葉にも聞こえるはずなのに、不思議とそうは感じませんでした。慰めではないからです。哀れみでもない。ただ、必要な人間かどうかで見ている。
それは今の私にとって、何よりまっすぐな扱いでした。
「でしたら」
私は匙を置いて、静かに答えます。
「役に立てるよう努めます」
「もう十分役に立っている」
その一言に、私は少しだけ息を止めました。
王都では長く聞かなかった類いの言葉です。ありがとうとも、ご苦労とも違う。役に立っている。必要だと、そのまま言う言葉。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がじわりと熱くなる。
けれど私はすぐに視線を落とし、湯気の上がるスープへ手を戻しました。ここでその熱に縋ってはいけないと思ったのです。これは恋ではありません。まだ、そういうものではない。ただ、自分のしていることが、ちゃんと届いた。それが嬉しかっただけ。
夜、自室へ案内されると、王都の部屋よりずっと簡素な室内が待っていました。厚い毛布、実用的な机、小さな暖炉。窓の外には白く凍えた夜の気配が広がっています。
私は机へ座り、持ってきた記録帳の新しい頁を開きました。
本日、ヴァレスト領診療所を確認。
薬棚、保管、記録、いずれも不備多数。だが整備可能。
見習い複数。基礎知識にばらつきあり。再編で改善の余地大。
領主代行カイル・ヴァレスト、指示に対する動き早い。
そこまで書いて、少しだけ考えます。
王都にいた頃の私は、いつも誰かのそばに立つための記録ばかり取っていました。今は違う。ここでは、場所そのものを立て直すための記録になる。
その違いが、なんだか妙に新鮮でした。
最後に、私用の欄へ小さく書き足します。
ここでは、ちゃんと薬師でいられるかもしれない。
書いたあと、しばらくその文字を見つめていました。
かもしれない。まだ断言はできません。今日一日だけで何もかも分かった気になるほど、私は軽くなれない。
それでも、王都を出て初めて、前ではなく先を見た気がしました。
暖炉の火が小さく鳴り、窓の外で風が雪を払う音がする。
私は帳面を閉じ、ようやく深く息を吐きました。
明日も忙しくなるでしょう。薬棚も、見習いたちも、領都全体の事情も、まだ何も終わっていない。
でも、それでよかった。
終わっていないからこそ、ここで私は、また働けるのですから。
王都ではもう春の匂いがしていたのに、北辺の朝はまだ冬の名残を色濃く残しています。番所の小さな窓には薄く霜がつき、昨夜のうちに積もった雪が、低い柵や道の端を静かに覆っていました。
寝台から身を起こすと、隣の仕切りの向こうで、昨日助けた子どもが小さく咳をしています。私はすぐに外套を羽織り、その子のもとへ向かいました。
「おはよう。気分はどう?」
声をかけると、少年はぼんやりした目を上げました。昨日よりは色があります。唇の紫もかなり薄れていた。私は額に手を当て、指先の冷えを確かめ、寝具の中の湿り具合を見る。
「お水は飲めそう?」
少年は小さく頷きました。番所の女が運んできてくれた白湯を少しずつ飲ませると、喉が動く。ここまでくれば大丈夫でしょう。熱は出ても、昨日のような危うさはもうありません。
「助かりましたか」
番所の女が胸を撫で下ろしました。
「ええ。今日は無理をさせず、温かい汁物を少しずつ。夕方までに強い咳が出なければ、おそらく落ち着きます」
「本当に、よかった……」
その安堵の言葉を聞きながら、私は自分の胸の奥も少しだけ緩むのを感じました。
王都を離れてから、初めて手の届くところで誰かを助けられた。そう思った瞬間、昨日まで胸に張りついていた重さがほんの少しだけ剥がれた気がしたのです。
朝食のあと、カイルが再び番所へ現れました。昨日と同じ濃い外套に、雪を払った跡が残っています。扉を開けるなり中の様子を一目で確かめ、私へ短く問いました。
「子どもは」
「峠は越えました。今日一日は様子を見ますが、もう命に関わる段階ではありません」
「そうか」
それだけ言って、彼は番所の女へ少年の家族の確認と、村への連絡を指示しました。無駄のない、簡潔なやり取りです。私はその横顔を見ながら、昨日の印象が間違っていなかったと感じていました。この人は言葉で飾るより先に、必要なことを決めて動く。
「支度ができ次第、領都へ向かう」
カイルは私へ視線を戻しました。
「道は朝よりましだが、油断はできない。馬車は揺れる」
「承知しております」
「酔うなら先に言ってくれ」
「大丈夫です」
「ならいい」
会話はそれで終わりでした。
けれど、不思議と気まずさはありません。王都なら、こういう短さはそっけなく感じたかもしれません。けれど今の私には、その簡潔さがありがたかった。余計な慰めも、探るような気遣いもないからです。私はただ、薬師としてそこにいて、彼もまたそれ以上でも以下でもなく扱ってくれる。
領都までの道は、昨日よりもさらに北の顔をしていました。雪は薄くなったものの、風が鋭い。馬車の窓越しに見える木々は丈が低く、家々の屋根は王都よりずっと傾斜がきつい。雪を落とすためなのでしょう。畑も広くはなく、代わりに薪の山や家畜小屋が目につきます。
生きるための形が、最初から王都とは違うのです。
昼前、ようやくヴァレスト領の領都へ着きました。
石造りの大きな街ではありません。城壁も王都ほど高くはなく、門の前には荷を積んだ馬車と、毛皮をまとった領民たちが数人いるだけです。それでも中へ入ると、通りは思っていたよりずっと活気がありました。肉屋、織物屋、鍛冶場、乾物を並べた店。寒さの中で暮らしを回すための匂いと音がある。
そして、その奥に見えた館もまた、王都の宮殿とは違う現実的な造りをしていました。飾りより、厚い壁と広い倉庫と雪に強い屋根。領主の館というより、冬を越えるための拠点に近い。
馬車を降りると、冷えた空気が頬へ刺さります。すぐに使用人が出てきて荷を受け取りましたが、王都のような大仰な挨拶はありません。好奇の混じった視線はあるものの、それ以上に「来たのか」「使えるのか」という実用の気配が強い。
その空気は嫌ではありませんでした。むしろ、ずっと息がしやすい。
「まずは診療所を見るか」
カイルが言いました。
「お部屋へ先に入られますか」
館の女中頭らしい人がそう挟みましたが、私は首を振ります。
「診療所を先に拝見したいです」
答えた瞬間、カイルの眉がほんのわずかに動きました。驚いたのではなく、測っていた答えが返ってきた時のような表情です。
「長旅のあとだ」
「承知しております。ですが、薬師として来たのですから、最初に見るべきはそこかと」
「……分かった。ついてきてくれ」
案内された診療所は、館の裏手にある独立した建物でした。中へ入った瞬間、私は思わず足を止めます。
薬草の匂いはあります。ありますが、整っていない。乾燥の甘い葉、湿気を吸った包み紙、分類の曖昧な小瓶、使いかけのまま封をし直されていない粉薬。棚はあるのに、棚として機能していない。これでは必要な時に必要なものが出てきません。
「……これは」
口をついて出た声に、若い見習いらしい娘がびくりと肩を揺らしました。
「も、申し訳ありません……!」
「責めているのではありません」
私はすぐに言い直し、棚へ近づきます。白花草、乾燥不足。苦枝、袋に日付なし。薄荷葉、虫食いあり。喉薬と腹薬の棚が隣り合い、瓶の形も似ている。これでは取り違えが起きてもおかしくない。
「ここで冬を越してきたのですか」
「なんとか」
見習いの娘がうつむいたまま答えました。
「先の薬師様が亡くなられてから、人手も足りず……分かる者が少なくて」
「診るだけで手一杯だった」
カイルが補足するように言いました。
「整える余裕まではなかった」
私は棚を一つずつ見て回りながら、頭の中で必要なことを数えていきます。分類のやり直し、乾燥の確認、腐りかけの処分、日付の再記入、保管法の見直し、冬場に不足しやすい薬草の洗い出し。半日では足りません。三日でも足りないかもしれない。
でも、やるしかない。
「このままでは冬を越せません」
振り返ってそう言うと、見習いの娘がさらに青ざめました。きつく聞こえたのでしょう。けれど私は事実を口にしただけです。
「いえ、脅しているのではありません。逆です。まだ今なら間に合います。まず棚を空けてください。乾燥が甘いものと虫が入ったものは分けます。包み紙も替えます」
「今から、ですか」
「今からです」
言い切ると、カイルが少しだけ息をつきました。反対するための息ではありません。腹を決めた人間のそれです。
「必要なものは」
「乾いた紙、紐、記録帳、新しい木札。可能なら炭を少し。あとは、ここへ普段出入りする者を全員」
「分かった」
カイルはすぐに部下へ指示を飛ばしました。物資の手配、女中頭の呼び出し、見習いの増員。話が早い。
その動きを見ながら、私は胸の奥でごく小さく驚いていました。王都では、まず理由を説明し、空気を整え、相手の負担を考え、ようやく一つ動く。ここでは違う。必要なら動く。そう決めたら早い。
午後いっぱい、私は診療所へ立ちっぱなしでした。
棚から薬草を出し、使えるものと駄目なものを分ける。見習いたちへ名前と効能を確認し、曖昧なものはすべて横へ避ける。紙に日付を書き、木札をつけ直し、薬が混ざらないよう棚の位置も入れ替える。誰がどこまで理解しているかも、この作業でよく分かりました。覚えの早い子、ただ言われた通りにしかできない子、知識はあるのに順番が苦手な子。それぞれに合わせて役目を振っていく。
日が傾くころには、私の指先は紙と紐で少し赤くなっていました。けれど不思議と疲れは重くありません。頭の中が澄んでいる。何をすべきかが、はっきり見えるからです。
「セレナ様」
振り向くと、見習いの娘が新しくまとめた記録帳を両手で抱えて立っていました。朝の怯えた顔とは違い、少しだけ目がまっすぐです。
「これで、よろしいでしょうか」
差し出された帳面を見る。日付、薬草名、使用量、残量。まだ粗いけれど、十分でした。
「ええ。とてもいいわ。この書き方なら、次の人が見ても分かります」
「……ありがとうございます」
その一言だけで、ここへ来た意味が少しだけ形になった気がしました。
王都では、私が整えることは“いつも通り”でした。ここでは違う。整えれば、ちゃんと変わる。人の顔も、場の空気も。
日が落ちてからようやく館へ戻ると、食堂には簡素な夕食が用意されていました。温かなスープと固めのパン、塩で焼いた肉。飾り気はありませんが、寒さの中で食べるには十分です。
席へ着くと、向かい側にカイルが座りました。
「休む前に一つ聞いておく」
「はい」
「明日も続けられるか」
私は思わず少し笑ってしまいました。
「続けます。まだ始まったばかりですもの」
「そうか」
彼は短く頷き、それ以上は何も言いません。
けれど少ししてから、スープの皿へ視線を落としたまま、ぽつりと続けました。
「ここでは、肩書より腕が要る」
私は顔を上げます。
「王都で何だったかは、正直どうでもいい。使えるなら助かる。使えないなら困る。ただそれだけだ」
冷たい言葉にも聞こえるはずなのに、不思議とそうは感じませんでした。慰めではないからです。哀れみでもない。ただ、必要な人間かどうかで見ている。
それは今の私にとって、何よりまっすぐな扱いでした。
「でしたら」
私は匙を置いて、静かに答えます。
「役に立てるよう努めます」
「もう十分役に立っている」
その一言に、私は少しだけ息を止めました。
王都では長く聞かなかった類いの言葉です。ありがとうとも、ご苦労とも違う。役に立っている。必要だと、そのまま言う言葉。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がじわりと熱くなる。
けれど私はすぐに視線を落とし、湯気の上がるスープへ手を戻しました。ここでその熱に縋ってはいけないと思ったのです。これは恋ではありません。まだ、そういうものではない。ただ、自分のしていることが、ちゃんと届いた。それが嬉しかっただけ。
夜、自室へ案内されると、王都の部屋よりずっと簡素な室内が待っていました。厚い毛布、実用的な机、小さな暖炉。窓の外には白く凍えた夜の気配が広がっています。
私は机へ座り、持ってきた記録帳の新しい頁を開きました。
本日、ヴァレスト領診療所を確認。
薬棚、保管、記録、いずれも不備多数。だが整備可能。
見習い複数。基礎知識にばらつきあり。再編で改善の余地大。
領主代行カイル・ヴァレスト、指示に対する動き早い。
そこまで書いて、少しだけ考えます。
王都にいた頃の私は、いつも誰かのそばに立つための記録ばかり取っていました。今は違う。ここでは、場所そのものを立て直すための記録になる。
その違いが、なんだか妙に新鮮でした。
最後に、私用の欄へ小さく書き足します。
ここでは、ちゃんと薬師でいられるかもしれない。
書いたあと、しばらくその文字を見つめていました。
かもしれない。まだ断言はできません。今日一日だけで何もかも分かった気になるほど、私は軽くなれない。
それでも、王都を出て初めて、前ではなく先を見た気がしました。
暖炉の火が小さく鳴り、窓の外で風が雪を払う音がする。
私は帳面を閉じ、ようやく深く息を吐きました。
明日も忙しくなるでしょう。薬棚も、見習いたちも、領都全体の事情も、まだ何も終わっていない。
でも、それでよかった。
終わっていないからこそ、ここで私は、また働けるのですから。
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