「彼女はただの相談相手です」と私を信じなかった王子へ――宮廷薬師の私は辺境で生き直します。今さら毒殺未遂で呼び戻されても、もう遅いです

れおぽん

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第18話 あの人は、よく笑うようになった

 カイルは、自分が人の変化に敏い方だとは思っていなかった。

 領地を預かる立場にある以上、誰が無理をしているか、どこに綻びが出るかを見る必要はある。けれどそれは、あくまで崩れる前の兆しを拾うための目だ。誰かが以前よりよく笑うようになったとか、声が少し柔らかくなったとか、そういうものへ心を割く余裕は、これまでほとんどなかった。

 だからこそ、セレナの変化に気づいた時、自分でも少しだけ意外だった。

 最初に会った日の彼女は、ひどく張りつめていた。
 倒れた子どもを前にした時の判断は早く、手元にも迷いがなかったが、その後に見せる顔はずっと固かった。礼を言われてもどこか遠慮があり、必要なこと以外は口にしない。こちらが何かを問えば答えるが、それ以上は差し出さない。
 あれは警戒だったのだろうと、今なら分かる。王都から来た薬師令嬢という触れ込みだけでなく、本人の背中に、何かをこぼさぬよう耐えてきた硬さがあった。

 それが、ここ数日で少しずつ変わってきている。

 朝、診療所の前を通ると、セレナが子どもの額へ手を当てながら何かを言っていた。聞こえたのは最後だけだ。
「元気でも、元気になりかけの時が一番大事なの」
 そう言って、小さな頭を軽く撫でる。子どもは不満そうに頬をふくらませ、それを見た母親が笑った。するとセレナも、つられるように口元をゆるめる。
 前なら、ああいう笑い方はしていなかった。

 カイルはそのまま診療所へ入らず、少し離れた場所から一度だけ中を見た。棚の前では見習いが二人、薬包紙をそろえている。南の通りの流行りを抑えたあと、診療所の空気そのものが変わった。前は誰もが慌てていて、必要なものを探すだけで時間が削られていた。今は違う。誰が何を持ち、どこへ運び、どの記録を残すかが見えている。
 それを変えたのは間違いなくセレナだ。

 けれどカイルが気になっていたのは、診療所の変化だけではなかった。

 昼過ぎ、館の裏で乾燥棚の具合を確認していると、見習いのエラが慌てた様子で走ってきた。
「領主代行様、先生が、あの、上の棚へ届かなくて」
 届かなくて、の続きはなくとも分かる。カイルは診療所へ向かった。

 案の定、セレナは乾燥棚の一番上へ手を伸ばし、少しだけ困った顔をしていた。背伸びをすれば届かなくはないが、危なっかしい高さだ。
「呼べ」
 そう言うと、セレナは振り返って、ほんの一瞬だけ目を丸くした。
「すぐそこでしたので」
「すぐそこでも落ちれば同じだ」
 言いながら棚の上段へ手を伸ばし、彼女が欲しかった束を取る。渡すと、セレナは少しだけ眉を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼は要らん」
「最近、そればかりですね」
「そうか」
「そうです」
 言い返しながら、彼女はふっと笑った。ごく小さい、でも前よりずっと自然な笑い方だった。

 その顔を見た時、カイルは妙な感覚を覚えた。
 安心、と言えば近い。だが、それだけでは足りない気もする。張りつめていた弦が少しゆるみ、ようやく本来の音が出始めたような、そういう感覚だった。

 館へ戻る途中、女中頭がカイルへ声をかけた。
「最近、セレナ様がよく食べてくださるようになりました」
「……そうか」
「最初の頃は、お疲れでもほとんど口をつけない時がありましたので」
 それは気づいていなかった。いや、正確には、気づいてもそこまで目を向けていなかっただけかもしれない。診療所のこと、物資のこと、春先の融雪で崩れた道のこと。見るべきものが多い中で、彼女がどれだけ食べたかまで数えてはいなかった。
 だが今、その話を聞いて、自分が少しだけ安堵していることに気づく。
 きちんと食べて、眠れて、働いた分だけ笑える。それでいい。いや、そうであってほしいと思った。

 夕方、カイルは帳場で南の通りの報告を受けていた。流行りは収まりつつあり、診療所へ来る人数は増えているが、重くなる前に手を打てている。悪くない流れだ。報告を読み終えたところで、紙の端に挟まれた走り書きが目に入る。見習いの誰かが残したものらしい。

 ――先生がいると、みんな落ち着く。

 短い一文だった。
 カイルはその紙をしばらく見つめ、それから静かに折りたたんだ。

 皆が落ち着く。
 あの女は、そういう人間なのだろう。
 薬が作れるとか、記録が正確だとか、もちろんそれも大きい。だがそれだけではない。言葉の選び方、場の整え方、取り乱した者を立て直す間の取り方。そういうものを、彼女は最初から持っていたのだと思う。
 たぶん王都でも、同じようにやっていたのだろう。誰かが熱を出す前に気づき、崩れる前に支えて、回るように整える。
 それを、向こうでは見失った者がいた。

 そこまで考えて、カイルは小さく息を吐いた。
 人の過去へ勝手な想像を重ねるのは好きではない。セレナ自身が細かく語らない以上、分からぬことは分からぬままでいい。けれど一つだけ確かなのは、彼女はここで、ちゃんと必要とされ始めているということだった。

 夜、館の廊下で偶然セレナとすれ違った。彼女は腕に帳面を抱え、診療所から戻るところらしい。
「まだ仕事か」
「今日の分をまとめておりました」
「働きすぎるな」
「今日はそこまでではありません」
 そう答えたあと、彼女は少し考えるように視線を落とし、それから静かに続けた。
「……でも、ありがとうございます」
「何に対してだ」
「そうやって、働きすぎるなと声をかけてくださることにです」
 言葉は淡々としていたが、そこに以前のような壁はなかった。礼を言うための礼ではなく、本当にそう思っているのだと分かる声だった。

 カイルは返事に少し迷い、結局いつも通りの言葉しか出せなかった。
「必要な人間には、倒れられると困る」
「ふふ」
 セレナはまた笑った。今度は昼間よりはっきりと。
「それでも構いません」
 そう言って一礼し、廊下の向こうへ去っていく。その背を見送りながら、カイルはしばらく動かなかった。

 必要だから、では足りないのかもしれない。
 ふとそんな考えがよぎり、自分でそれを追い払うように首を振った。今はまだ、そこまで考えるべきではない。彼女はこの領へ来たばかりで、ようやく呼吸を戻し始めたところだ。自分が勝手にその先を思うのは違う。
 だが、それでも。

 あの人は、よく笑うようになった。
 その変化が嬉しいと思う自分を、カイルはもう無視しきれなくなっていた。
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