「彼女はただの相談相手です」と私を信じなかった王子へ――宮廷薬師の私は辺境で生き直します。今さら毒殺未遂で呼び戻されても、もう遅いです

れおぽん

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第29話 遅すぎた告白

 その日の夜、王宮の空気はひどく静かでした。

 静かというより、皆が息を潜めているのです。第二王子の容体は朝より安定している。だからこそ、誰もが大きな音を立てるのを恐れている。ようやく整い始めたものを、自分の不用意でまた崩したくないのでしょう。
 私も同じでした。夜の処方を終え、小部屋へ戻って議事録の続きを追っていたのですが、紙の上へ目を落としていても、意識の半分は隣室の呼吸の深さへ向いていました。咳が増えていないか。水の減り方はどうか。熱の戻りはないか。考えることはいくらでもあるのに、今夜はどこか落ち着かない。
 たぶん、レオナルト殿下の意識がかなりはっきりしてきたからでしょう。昨日までなら熱の向こうに沈んでいたものが、今夜はもう目の前へ戻ってきている。その分だけ、避けていた会話も避けきれなくなる。

「セレナ殿」
 扉が控えめに叩かれ、年配の侍女が顔を出しました。
「殿下が、少しお話をしたいと」
 私はペンを置きました。ユーグ先生は別の薬室へ下がっておられ、マルタもすでに記録の整理を終えて休ませてあります。今なら、たしかに私が行くしかない。
「お体に障るようなら、すぐ切り上げます」
「はい」

 私室へ入ると、灯りは夜用に落とされ、寝台の周りだけがやわらかく明るくなっていました。レオナルト殿下は上体を少しだけ起こし、枕へ寄りかかっています。顔色はまだ悪い。けれど目の焦点はもうぶれず、こちらをまっすぐ見ていました。
 熱は下がっている。呼吸も昨日より整っている。だからこそ、今夜は“病人の譫言”では済まない。
 私は寝台の脇まで歩み、まず脈を取りました。少し速い。けれど危険な速さではない。

「お加減は」
「少し、楽だ」
 その声も、まだ弱いながら、昨日よりずっと芯があります。
「なら何よりです」
 私はそれだけ返し、手を離しました。そこから先をどう始めるか迷う必要はありません。話したいと言われて来たのです。必要なら聞き、不要なら切る。それだけ。

 しばらく沈黙が落ちました。窓の外の遠い音だけが、王都の夜を知らせています。
 先に口を開いたのは、やはり殿下でした。

「……君がいなくなってから」
 言いかけて、一度息を整える。
「私は、自分が思っていたより何も分かっていなかったのだと知った」
 私は何も言いませんでした。続きを待ちます。
「薬のことも、食事のことも、香のこともだ。だが、それだけじゃない」
 殿下の視線が、寝台の上の布へ落ちました。
「朝、杯の水がどの温度なら飲みやすいかも。夜、灯りをどこまで落とすと眠りやすいかも。疲れている日にどの書類から先に片づけると余計な苛立ちが出ないかも」
 その一つひとつは、全部、私が何年もかけて覚えてきたことでした。薬歴には残らないものもある。記録へ書くまでもなく、体が覚えていたことも多い。
 私はそれを表へ出しません。出してはいけない気がしたのです。今ここで「そうです」と答えてしまえば、それはまた私が飲み込む側へ戻ることになる。

「君がしていたことは」
 殿下は絞り出すように続けました。
「私が思っていたより、ずっと多かった」
「そうでしょうね」
 口から出た言葉は、思っていたよりずっと静かでした。
 皮肉にしたつもりはありません。ただ、事実としてそうとしか言えなかった。
 殿下はそれに傷ついたような顔をしました。けれど私は、その顔のために言葉をやわらげるつもりはありませんでした。今さらそこを曖昧にしたくなかったからです。

「私は……」
 殿下は一度目を閉じました。
「君が、いつもそこにいてくれるものだと思っていた」
 その一言が、小さく部屋へ落ちました。
 ああ、とうとうそこまで来たのだと、私はどこか他人事のように思います。ずっと記録を読み、症状を追い、会話の端を拾ってきて、やっと本人の口からその形が出た。
 そこにあるのは愛の告白ではありません。後悔の中心です。私を好きだったかどうかよりも前に、「いなくならない」と思っていた。その甘さこそが一番深い。

「君は理解してくれると思っていた」
 さらに続いた言葉に、私はゆっくりと息を吸いました。
「少し無神経でも、少し言葉が足りなくても、最後には分かってくれると」
 昨日も、似た言葉を聞きました。けれど今日は少し違う。熱の向こうから出たものではなく、本人が自分でそこへ触れようとしている声です。
 だからこそ、私はきちんと返さなければならないと思いました。

「殿下」
 私はまっすぐにその青い瞳を見返しました。
「それは、信頼ではありません」
 言った瞬間、殿下の喉が動きます。痛むだろうと思いました。でも、ここを避けてはいけません。
「信頼なら、私の言葉が耳に心地よくなくても、必要なものとして受け取ってくださるはずです。けれど殿下は、そうではなかった」
 殿下は否定しませんでした。できないのでしょう。
「私が何を言っても、最後には飲み込むと考えておられた。だから、重いと感じた時に、直接は要らないと仰った」
 私は一度言葉を切りました。胸の奥へ古い痛みが少しだけ戻ってくるのを感じます。でも、それはもう私を沈めません。
「その時、私には十分でした」

 殿下は枕元の布を握りしめていました。昔から、つらい時にそういう癖があった。幼い頃はそれを見るたび、私は少し困って、でも放ってはおけなくて、薬を持って近づいたものです。
 今は違う。
 違うのだと、自分へ言い聞かせる必要もないくらい、体がもう覚えていました。

「……好きだった」
 ぽつりと、殿下がそう言いました。
 私は瞬きを一つだけしました。予想していなかったわけではありません。でも、いざ言葉にされると、胸のどこかが少しだけ鈍く痛みます。
「今も、たぶん」
 かすれた声が続く。
「君を失いたくないと思っている」
 それは真実なのでしょう。今のこの人は、少なくとも嘘をつけるほど余裕がありません。だから、その言葉に嘘はないのだと思います。
 でも、真実であることと、遅くないことは別です。

「……そうですか」
 私は静かに返しました。
「はい」
 殿下は少しだけ身を起こしかけ、すぐに咳き込みます。私は反射的に水差しへ手を伸ばしかけて、途中で止めました。侍女が一歩早く杯を差し出し、殿下がそれを受け取る。私はそれを見届けるだけに留めます。
 殿下はひと口飲み、息を整え、それから私へ視線を戻しました。
「だから、もう一度」
「できません」
 私は殿下の言葉を最後まで聞かずに、はっきり言いました。

 沈黙が落ちます。
 たぶん、それが一番残酷に響いたでしょう。けれど私は、ここを曖昧にできませんでした。遅れてきた想いをやさしさで受け止めてしまえば、今までの全部がまた溶けてしまう気がしたからです。

「……まだ、話していない」
「十分です」
 私は答えます。
「殿下のお気持ちは分かりました」
「なら」
「でも、遅いのです」
 その一言を口にすると、胸の奥が少しだけ熱くなりました。怒りではありません。これが、たぶん今の私の一番本当のところなのでしょう。
「私は、殿下が私を軽んじておられたとだけ思っているわけではございません。好きだったことも、必要としてくださった時間があったことも、全部嘘だったとは思っておりません」
 そこは否定したくありませんでした。否定してしまえば、昔の私が報われないからです。
「ですが、その好きだった時間の中で、殿下は一番大切なところで私を信じなかった」
 私は言いました。
「その事実は、今さら気持ちを告げられても、もう変わりません」

 レオナルト殿下は何も言えずに私を見ていました。弱っているからではなく、本当に言葉を失っているのだと分かる顔です。
 私はそこで初めて、少しだけ息を吐きました。ずっと先送りにしてきた線を、今ようやく口にできた気がしたのです。

「殿下」
 声を落として続けます。
「私は今、ここで殿下を助けるためにおります。薬師として。そこに私情を混ぜたくはありません」
「……私情、か」
「はい」
「君は、もう私を」
 言いかけた殿下へ、私は首を振りました。
「違います」
 その一言に、殿下が少しだけ目を見開きます。
「何もなかったことにするつもりはございません。好きだった時間も、苦しかった時間も、全部ありました」
 だからこそ、簡単には戻れない。
 その続きを私は口にはしませんでした。言わなくても伝わると思ったからです。

 長い沈黙のあと、殿下はようやく目を閉じました。疲れたのかもしれません。あるいは、これ以上を続けるだけの力がないのか。
 私はその横顔をしばらく見て、それから静かに一礼しました。

「今夜はお休みくださいませ」
 返事はありませんでした。
 でも、それでよかったのです。今ここで何かを決着させるために来たのではない。ただ、曖昧なまま残していたものへ、ようやく言葉を与えただけ。

 小部屋へ戻ると、マルタが立ち上がりかけました。けれど私の顔を見て、何も聞かずにまた座り直します。気を遣ったのかもしれませんし、聞くべきではないと分かったのかもしれません。どちらでもありがたかった。
 私は帳面を開き、今日の薬歴の追記を先に済ませました。熱の下がり方、咳の間隔、水分量。必要なことは必要な形で残す。そのあと、私用の欄へペンを移します。

 好きだったと言われた。
 たぶんそれは本当だ。
 でも、本当であることと、間に合うことは違う。

 書いた瞬間、胸の奥へ小さく痛みが走りました。けれど、それは涙になるほどではありません。もう私は、その痛みの深さも重さも、自分で分かるようになっている。
 だから、飲み込む必要も、誤魔化す必要もない。

 帳面を閉じ、灯りを少し落とす。
 窓の外の王都は相変わらず明るいのに、今夜の私の中は不思議なくらい静かでした。
 たぶん、これで本当に、過去の恋へ区切りをつけ始められたのだと思います。
 完全に切れるには、まだ少しかかるのでしょう。
 それでも、もう戻らない。その手応えだけは、はっきりと胸の中へ残っていました。
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