その執事は、十三番目の愛を叫ぶ

れおぽん

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第17話「儀式前夜」

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夜。部屋の窓から青白い月光が差し込んでいる。

トルソーに飾られた明日の儀礼服が、月明かりを浴びて白く浮き上がっている。
 分厚い絹地に、金糸で国章が刺繍されている。
 総重量は十キロを超える。
 一度着れば、一人では脱ぐことも、自由に走ることもできない構造だ。

私はベッドの端に座り、その衣装を見つめていた。

明日、私は「第十三皇女候補」という肩書きを失う。
 継承の儀を経て、正式に皇位継承権を持つ「皇女」として登録される。
 それは私が、国家というシステムの構成部品として、正式に稼働し始めることを意味する。

この部屋で過ごす夜は、これが最後だ。

コン、コン。

ノックの音がした。
 私の返事を待たずに、扉が開く。

彼が入ってきた。
 手には銀の盆を持っている。
 陶器のカップが、盆の上でカチャカチャと細かく音を立てていた。
 彼の手が震えているからだ。

彼はサイドテーブルに盆を置く。
 カップの中のハーブティーが波打ち、数滴がソーサーにこぼれた。
 彼はそれを拭おうともしない。

「……明日の準備は、全て整ったようね」

私が背中を向けたまま話しかける。

「……はい」

返事は短かった。
 声が掠れている。

「馬車の手配、警護の配置、全て予定通りでございます」

彼は直立不動の姿勢をとっている。
 だが、その呼吸は浅く、速い。
 静かな部屋に、彼の乱れた呼気だけが響いている。

私は振り返り、彼を見た。

彼の顔色は紙のように白い。
 額には脂汗が滲んでいる。
 視線は定まらず、床の一点を見つめたまま、瞬きすらしていない。

右手には包帯が巻かれている。昨日、自らの爪で掌を突き破った傷だ。
 包帯の白地には、すでに新しい赤色が滲んでいた。
 今も、強く拳を握りしめている証拠だ。

「……貴女様」

彼が口を開く。
 喉の奥から絞り出したような、低い音だ。

「明日になれば、貴女様は皇女となります」

「ええ」

「個人の名前は公文書から消え、一生を城の奥で、象徴として過ごすことになります」

彼は一歩、私に近づいた。
 使用人が主人に対して許される距離を、明確に踏み越えている。

「それでも……よろしいのですか」

「私はそのために作られたわ。役割を果たせるなら、それは正しいことよ」

私が淡々と答えた瞬間だった。

ドン、と鈍い音がした。

彼が床に膝をついた音だ。
 礼拝の姿勢ではない。
 足の力が抜け、崩れ落ちた形だ。

彼は両手を床につき、肩を大きく上下させている。
 過呼吸気味の息遣いが、部屋の空気を震わせる。

「……私は、無力です」

床に向かって、彼が呻く。

「貴女様を……一人の人間として扱うことのできない、この場所から……連れ出すこともできない」

床についた拳が、じりじりとカーペットを握りしめる。
 包帯の赤色が、さらに濃く広がる。
 血が滴り、床に落ちる。

「顔を上げて。血が出ているわ」

私が指摘しても、彼は動かない。
 聞こえていないようだった。
 彼の全身の筋肉が硬直し、血管が浮き上がっている。
 彼は今、何かを叫び出したい衝動や、何かを破壊したい衝動を、肉体の限界まで使って抑え込んでいる。

数秒、あるいは数分。
 彼は床に伏せたまま、荒い呼吸を繰り返していた。

やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。

そこに表情はなかった。
 汗も、涙も、動揺も消えていた。
 瞳孔が開いたままの、暗い瞳だけが私を映している。

「……失礼いたしました」

彼は立ち上がる。
 その動作にふらつきはない。

「おやすみなさいませ。第十三皇女候補様」

彼は深く一礼した。
 その角度、静止する時間、すべてが完璧な使用人の礼儀作法に則っている。
 先ほどまでの乱れが嘘のように、彼は整然と踵を返し、部屋を出て行った。

バタン、と扉が閉まる。

私は残されたハーブティーを見る。
 液面はもう揺れていない。

彼が去った後の部屋には、微かな鉄の匂いだけが残っていた。
 彼の手から落ちた血の匂いだ。

私は明かりを消し、ベッドに入る。
 遠くで雷鳴が聞こえた。
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