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ガタゴトと揺れる馬車の中で、キサキは優雅にクロワッサンを口に運んでいた。
八時三十分発、領地行きの特急定期便。
一等車を貸し切りにするのではなく、あえて乗合の特急を選ぶのが彼女の流儀だ。
「貸し切り馬車は移動コストが三倍かかるわりに、到着時間は変わりませんものね。このクロワッサンも、焼きたてから五分以内。実に効率的な栄養摂取ですわ」
サクサクと小気味よい音を立てながら、キサキは手元の書類に目を通す。
それは先ほどアラルド皇太子に突きつけた請求書の控えだった。
「……さて。王宮の会計局がこの金額を素直に支払う確率は、現在の政情から見て二十パーセント。ですが、私が『公爵家の看板』を盾に交渉すれば、八十パーセントまで引き上げられます」
キサキは独り言を言いながら、魔法具のペンを走らせる。
彼女の頭の中には、王国の全予算と、各貴族家の資産状況がデータとして叩き込まれていた。
悲しみに暮れて涙を流す時間は、彼女の計算式には一秒たりとも含まれていない。
やがて馬車は、アデレード公爵家の本邸へと到着した。
深夜にもかかわらず、屋敷の玄関前には父であるアデレード公爵が、顔を青くして待ち構えていた。
「キサキ! たったいま王宮から早馬が来た! お前、パーティーで婚約破棄されたというのは本当か!?」
馬車から降り立ったキサキは、父の動揺を無視して手元の時計を確認した。
「お父様、こんばんは。予定より二分遅れの到着です。婚約破棄については事実です。はい、これが受理された合意書の写しです」
「受理された……!? お前、あのアラルド殿下を説得して、その場でサインさせたというのか?」
「説得などという非効率なことはいたしません。殿下が望む結論を、私が最短ルートで提示しただけです。お父様、立ち話は時間の無駄です。応接室へ」
キサキは呆然とする父を追い越し、迷いのない足取りで屋敷の中へ入っていく。
応接室に座るなり、彼女はカバンから分厚い書類の束を取り出し、机の上に並べた。
「これが今回の婚約解消に伴う、我が家の損失と利益の対照表です」
「……利益?」
「ええ。まず損失ですが、将来の王妃という地位を失いました。しかし、これに伴う『王宮での無益な派閥争いへの参加コスト』および『殿下の浮気調査に費やす精神的リソース』がゼロになります。これは年間で金貨二千枚以上の節約に相当します」
キサキは淡々と、しかし高速で説明を続ける。
「対して利益ですが、私は明日から自由の身です。領地の経営にフルタイムで専念できます。現在の領地の収益成長率は年率五パーセントですが、私の直接指揮により、これを十五パーセントまで引き上げることが可能です。つまり、婚約破棄は我が家にとって『巨大な黒字案件』なのです」
公爵は、娘のあまりの勢いに言葉を失った。
普通の娘であれば、「お父様、ひどいわ!」と泣きついてくる場面だ。
だが目の前の娘は、まるで新規事業のプレゼンでもしているかのような熱量で数字を語っている。
「……キサキ。お前、殿下のことは愛していなかったのか?」
「愛、ですか。その定義は曖昧ですが、私は彼との関係を『国家間の安定を維持するための長期契約』と定義しておりました。契約が破棄された以上、愛という不確かな概念に固執するのは、減価償却の終わった機械を使い続けるようなものです」
「お前の情緒はどうなっているんだ……」
「極めて健全ですよ。あ、それからお父様。こちらが王宮へ送る正式な慰謝料請求書です。既製品の請求書では項目が足りなかったので、特注で作成しました」
公爵が渡された紙を見ると、そこには恐ろしいほど細かな項目が並んでいた。
『殿下の教育係へのアドバイス料(一時間につき金貨五枚)』
『殿下の悪癖を隠蔽するための工作費』
『殿下がリリィ様に贈った宝石の選定代行手数料』
「キサキ……これは、いくらなんでも細かすぎないか?」
「いいえ。無駄を許せば、それが積み重なって大きな損失となります。あのアラルド殿下をここまで見栄えのいい王子に育て上げたのは、私の徹底したスケジュール管理とプロデュースがあったからです。そのコンサルティング料を請求するのは当然の権利ですわ」
キサキはペンを置き、キリッとした表情で父を見つめた。
「お父様。私は明朝五時の便で領地へ向かいます。王都にいても、野次馬や記者の対応で時間を奪われるだけですから。王宮との交渉は、この書類を財務官の鼻先に突きつければ十分です」
「明朝五時……。お前、少しは休んだらどうだ?」
「睡眠時間は六時間を確保しております。それ以上は、ただの怠惰です。それではお父様、おやすみなさいませ。あ、朝食は馬車の中で取りますので、サンドイッチの用意をお願いします。具材はタンパク質とビタミンが同時に摂れるハムエッグで。パンの耳はカットして時間を短縮してください」
嵐のように用件だけを告げると、キサキは自室へと引き上げていった。
一人残された公爵は、手元の計算書を眺め、深くため息をついた。
「アラルド殿下……。あなたは大変な女性を敵に回したな。この娘に『無駄な存在』と判定されることが、どれほど恐ろしいことか……」
翌朝、定刻通りに屋敷を出発したキサキの瞳は、すでに領地の改革という「次なる目標」に向けて、鋭く輝いていた。
彼女の辞書に、「停滞」という二文字はない。
たとえ世界がひっくり返ろうとも、キサキは最短ルートで幸福を掴み取る女なのである。
八時三十分発、領地行きの特急定期便。
一等車を貸し切りにするのではなく、あえて乗合の特急を選ぶのが彼女の流儀だ。
「貸し切り馬車は移動コストが三倍かかるわりに、到着時間は変わりませんものね。このクロワッサンも、焼きたてから五分以内。実に効率的な栄養摂取ですわ」
サクサクと小気味よい音を立てながら、キサキは手元の書類に目を通す。
それは先ほどアラルド皇太子に突きつけた請求書の控えだった。
「……さて。王宮の会計局がこの金額を素直に支払う確率は、現在の政情から見て二十パーセント。ですが、私が『公爵家の看板』を盾に交渉すれば、八十パーセントまで引き上げられます」
キサキは独り言を言いながら、魔法具のペンを走らせる。
彼女の頭の中には、王国の全予算と、各貴族家の資産状況がデータとして叩き込まれていた。
悲しみに暮れて涙を流す時間は、彼女の計算式には一秒たりとも含まれていない。
やがて馬車は、アデレード公爵家の本邸へと到着した。
深夜にもかかわらず、屋敷の玄関前には父であるアデレード公爵が、顔を青くして待ち構えていた。
「キサキ! たったいま王宮から早馬が来た! お前、パーティーで婚約破棄されたというのは本当か!?」
馬車から降り立ったキサキは、父の動揺を無視して手元の時計を確認した。
「お父様、こんばんは。予定より二分遅れの到着です。婚約破棄については事実です。はい、これが受理された合意書の写しです」
「受理された……!? お前、あのアラルド殿下を説得して、その場でサインさせたというのか?」
「説得などという非効率なことはいたしません。殿下が望む結論を、私が最短ルートで提示しただけです。お父様、立ち話は時間の無駄です。応接室へ」
キサキは呆然とする父を追い越し、迷いのない足取りで屋敷の中へ入っていく。
応接室に座るなり、彼女はカバンから分厚い書類の束を取り出し、机の上に並べた。
「これが今回の婚約解消に伴う、我が家の損失と利益の対照表です」
「……利益?」
「ええ。まず損失ですが、将来の王妃という地位を失いました。しかし、これに伴う『王宮での無益な派閥争いへの参加コスト』および『殿下の浮気調査に費やす精神的リソース』がゼロになります。これは年間で金貨二千枚以上の節約に相当します」
キサキは淡々と、しかし高速で説明を続ける。
「対して利益ですが、私は明日から自由の身です。領地の経営にフルタイムで専念できます。現在の領地の収益成長率は年率五パーセントですが、私の直接指揮により、これを十五パーセントまで引き上げることが可能です。つまり、婚約破棄は我が家にとって『巨大な黒字案件』なのです」
公爵は、娘のあまりの勢いに言葉を失った。
普通の娘であれば、「お父様、ひどいわ!」と泣きついてくる場面だ。
だが目の前の娘は、まるで新規事業のプレゼンでもしているかのような熱量で数字を語っている。
「……キサキ。お前、殿下のことは愛していなかったのか?」
「愛、ですか。その定義は曖昧ですが、私は彼との関係を『国家間の安定を維持するための長期契約』と定義しておりました。契約が破棄された以上、愛という不確かな概念に固執するのは、減価償却の終わった機械を使い続けるようなものです」
「お前の情緒はどうなっているんだ……」
「極めて健全ですよ。あ、それからお父様。こちらが王宮へ送る正式な慰謝料請求書です。既製品の請求書では項目が足りなかったので、特注で作成しました」
公爵が渡された紙を見ると、そこには恐ろしいほど細かな項目が並んでいた。
『殿下の教育係へのアドバイス料(一時間につき金貨五枚)』
『殿下の悪癖を隠蔽するための工作費』
『殿下がリリィ様に贈った宝石の選定代行手数料』
「キサキ……これは、いくらなんでも細かすぎないか?」
「いいえ。無駄を許せば、それが積み重なって大きな損失となります。あのアラルド殿下をここまで見栄えのいい王子に育て上げたのは、私の徹底したスケジュール管理とプロデュースがあったからです。そのコンサルティング料を請求するのは当然の権利ですわ」
キサキはペンを置き、キリッとした表情で父を見つめた。
「お父様。私は明朝五時の便で領地へ向かいます。王都にいても、野次馬や記者の対応で時間を奪われるだけですから。王宮との交渉は、この書類を財務官の鼻先に突きつければ十分です」
「明朝五時……。お前、少しは休んだらどうだ?」
「睡眠時間は六時間を確保しております。それ以上は、ただの怠惰です。それではお父様、おやすみなさいませ。あ、朝食は馬車の中で取りますので、サンドイッチの用意をお願いします。具材はタンパク質とビタミンが同時に摂れるハムエッグで。パンの耳はカットして時間を短縮してください」
嵐のように用件だけを告げると、キサキは自室へと引き上げていった。
一人残された公爵は、手元の計算書を眺め、深くため息をついた。
「アラルド殿下……。あなたは大変な女性を敵に回したな。この娘に『無駄な存在』と判定されることが、どれほど恐ろしいことか……」
翌朝、定刻通りに屋敷を出発したキサキの瞳は、すでに領地の改革という「次なる目標」に向けて、鋭く輝いていた。
彼女の辞書に、「停滞」という二文字はない。
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