婚約破棄? ありがとうございます、今日から廃業いたします

萩月

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「待て、ディアナ! 話はまだ終わっていないぞ!」


パーティー会場を後にし、足早に馬車へと向かう私の背中に、聞き慣れた間の抜けた声が追いすがってきた。


振り返らなくてもわかる。ウィルフレイド様だ。


私は一秒たりとも足を止めることなく、ドレスの裾を豪快に掴み上げて歩き続けた。


「……何か御用でしょうか、ウィルフレイド様。婚約破棄の成立をもって、私とあなたは赤の他人。いえ、ただの公爵令嬢と第一王子という公的な関係に戻ったはずですが」


「歩くのが早すぎる! 令嬢ならもっと慎ましく、こう……三歩後ろを歩くとかだな!」


「そんな悠長なことをしていたら、私の貴重な定休日が減ってしまいますわ」


「ていきゅうび……? なんだそれは。それより貴様、慰謝料として『自由』を要求したな。あれはどういう意味だ。まさか、国外追放を免れようという魂胆ではあるまいな!」


ようやく私の前に回り込んだ王子が、肩で息をしながら通せんぼをした。


私は深いため息をつき、手元に用意していた一通の書状を彼の鼻先に突きつけた。


「これを。今すぐ、ここにサインを」


「な、なんだこれは。『今後の婚約、夜会への出席、および公務への関与について、ディアナ・フォン・グラナートの意思を最優先し、王家は一切の強制を行わないことを誓約する』……だと?」


「はい。それが私の望む『自由』ですわ。あ、ついでにそこのリリアンさんも」


王子の後ろでこっそり様子を伺っていたリリアンさんを、私は手招きで呼び寄せた。


「えっ、私ですかぁ? そんな、私なんかがサインしちゃっていいんですかぁ?」


「ええ。あなたが『ディアナに嫌がらせをされましたぁ』と証言し続ける代わりに、私を二度と社交界に呼び戻さないと約束してくれればいいの。ウィンウィンでしょう?」


「う、ウィンウィン……? よくわかりませんけど、ディアナ様がパーティーに来ないなら、私が一番目立てるってことですよね! 書きます、書いちゃいます!」


リリアンさんは、驚くほどの速さで羽根ペンを取り出し、流れるような筆致でサインを書いた。


この子、意外と事務作業の適性があるのではないかしら。


「よし、リリアンが書いたのなら私も書こう! これで貴様との腐れ縁も本当におしまいだ!」


ウィルフレイド様も、勢いよくサインを書き殴った。


私はその書状を、まるで国宝でも扱うかのように丁寧に折り畳み、胸元に仕舞い込んだ。


「……完璧ですわ。これで私は、法的にも社会的にも『公式なニート』として認められました」


「に、にーと……? 貴様、さっきから妙な言葉ばかり使いおって。まあいい、これでせいせいしたぞ! 行くぞ、リリアン!」


「はーい、ウィルフレイド様ぁ!」


二人が意気揚々と会場へ戻っていくのを見送り、私はようやく本物の笑顔を浮かべた。


「……さて。そうと決まれば、爆速で荷造りをして、この息苦しい王都から脱出しましょうか」


「相変わらず、逃げ足だけは一級品ですね。ディアナ様」


闇の中から、低く落ち着いた声がした。


馬車の影から現れたのは、黒い髪をきっちりと整えた青年。


私の幼馴染であり、若くして国の政務を司る宰相、カイル・アシュフォードだった。


「カイル。見ていたの?」


「ええ。婚約破棄の現場から、今の契約締結まで。実に見事な手際でしたよ。……特に、あの王子からあんな不利な誓約書をもぎ取るところなどは」


カイルは呆れたように眼鏡のブリッジを押し上げた。


「不利? 失礼ね。彼は『面倒な女を追い払った』と満足しているわよ。私も『面倒な仕事から解放された』と満足している。誰も損をしていないわ」


「……あなたが抜けた後の書類仕事が、すべて私のところに回ってくることを除けば、ですがね」


「あら、有能な宰相様なら余裕でしょう? 頑張ってね。私はこれから、最低でも一ヶ月は寝る予定だから」


私はカイルの横を通り過ぎ、馬車に乗り込もうとした。


だが、その腕をカイルが軽く掴んで止めた。


「……本気で、あんな男で良かったのですか?」


その瞳には、いつになく真剣な光が宿っている。


私は一瞬だけ、いつもの「完璧な令嬢」の顔を捨てて、彼にだけ見えるようにニヤリと笑った。


「カイル。私はね、愛されることよりも、昼寝をすることを愛しているの。……わかる?」


「……。あなたという人は、本当に」


カイルは拍子抜けしたように力を抜くと、私のために馬車の扉を開けてくれた。


「公爵邸まで、安全に送り届けましょう。それが、あなたの『定休日』への最初のサービスです」


「助かるわ。馬車の中でも寝ていいかしら?」


「勝手にしてください。……ただし、寝顔を誰かに見られないように」


馬車が動き出す。


窓の外に流れる王宮の灯りが、どんどん遠ざかっていく。


私は窮屈なコルセットを密かに緩め、豪華な座席に深く体を沈めた。


(さらば、王太子妃の座。さらば、終わらないお茶会……!)


(明日からは、朝日を浴びる必要すらないのね……最高だわ!)


高鳴る鼓動を抑えながら、私はグラナート公爵邸へと向かう闇夜の中、勝利の眠りに就いたのだった。
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