2 / 28
2
しおりを挟む
「待て、ディアナ! 話はまだ終わっていないぞ!」
パーティー会場を後にし、足早に馬車へと向かう私の背中に、聞き慣れた間の抜けた声が追いすがってきた。
振り返らなくてもわかる。ウィルフレイド様だ。
私は一秒たりとも足を止めることなく、ドレスの裾を豪快に掴み上げて歩き続けた。
「……何か御用でしょうか、ウィルフレイド様。婚約破棄の成立をもって、私とあなたは赤の他人。いえ、ただの公爵令嬢と第一王子という公的な関係に戻ったはずですが」
「歩くのが早すぎる! 令嬢ならもっと慎ましく、こう……三歩後ろを歩くとかだな!」
「そんな悠長なことをしていたら、私の貴重な定休日が減ってしまいますわ」
「ていきゅうび……? なんだそれは。それより貴様、慰謝料として『自由』を要求したな。あれはどういう意味だ。まさか、国外追放を免れようという魂胆ではあるまいな!」
ようやく私の前に回り込んだ王子が、肩で息をしながら通せんぼをした。
私は深いため息をつき、手元に用意していた一通の書状を彼の鼻先に突きつけた。
「これを。今すぐ、ここにサインを」
「な、なんだこれは。『今後の婚約、夜会への出席、および公務への関与について、ディアナ・フォン・グラナートの意思を最優先し、王家は一切の強制を行わないことを誓約する』……だと?」
「はい。それが私の望む『自由』ですわ。あ、ついでにそこのリリアンさんも」
王子の後ろでこっそり様子を伺っていたリリアンさんを、私は手招きで呼び寄せた。
「えっ、私ですかぁ? そんな、私なんかがサインしちゃっていいんですかぁ?」
「ええ。あなたが『ディアナに嫌がらせをされましたぁ』と証言し続ける代わりに、私を二度と社交界に呼び戻さないと約束してくれればいいの。ウィンウィンでしょう?」
「う、ウィンウィン……? よくわかりませんけど、ディアナ様がパーティーに来ないなら、私が一番目立てるってことですよね! 書きます、書いちゃいます!」
リリアンさんは、驚くほどの速さで羽根ペンを取り出し、流れるような筆致でサインを書いた。
この子、意外と事務作業の適性があるのではないかしら。
「よし、リリアンが書いたのなら私も書こう! これで貴様との腐れ縁も本当におしまいだ!」
ウィルフレイド様も、勢いよくサインを書き殴った。
私はその書状を、まるで国宝でも扱うかのように丁寧に折り畳み、胸元に仕舞い込んだ。
「……完璧ですわ。これで私は、法的にも社会的にも『公式なニート』として認められました」
「に、にーと……? 貴様、さっきから妙な言葉ばかり使いおって。まあいい、これでせいせいしたぞ! 行くぞ、リリアン!」
「はーい、ウィルフレイド様ぁ!」
二人が意気揚々と会場へ戻っていくのを見送り、私はようやく本物の笑顔を浮かべた。
「……さて。そうと決まれば、爆速で荷造りをして、この息苦しい王都から脱出しましょうか」
「相変わらず、逃げ足だけは一級品ですね。ディアナ様」
闇の中から、低く落ち着いた声がした。
馬車の影から現れたのは、黒い髪をきっちりと整えた青年。
私の幼馴染であり、若くして国の政務を司る宰相、カイル・アシュフォードだった。
「カイル。見ていたの?」
「ええ。婚約破棄の現場から、今の契約締結まで。実に見事な手際でしたよ。……特に、あの王子からあんな不利な誓約書をもぎ取るところなどは」
カイルは呆れたように眼鏡のブリッジを押し上げた。
「不利? 失礼ね。彼は『面倒な女を追い払った』と満足しているわよ。私も『面倒な仕事から解放された』と満足している。誰も損をしていないわ」
「……あなたが抜けた後の書類仕事が、すべて私のところに回ってくることを除けば、ですがね」
「あら、有能な宰相様なら余裕でしょう? 頑張ってね。私はこれから、最低でも一ヶ月は寝る予定だから」
私はカイルの横を通り過ぎ、馬車に乗り込もうとした。
だが、その腕をカイルが軽く掴んで止めた。
「……本気で、あんな男で良かったのですか?」
その瞳には、いつになく真剣な光が宿っている。
私は一瞬だけ、いつもの「完璧な令嬢」の顔を捨てて、彼にだけ見えるようにニヤリと笑った。
「カイル。私はね、愛されることよりも、昼寝をすることを愛しているの。……わかる?」
「……。あなたという人は、本当に」
カイルは拍子抜けしたように力を抜くと、私のために馬車の扉を開けてくれた。
「公爵邸まで、安全に送り届けましょう。それが、あなたの『定休日』への最初のサービスです」
「助かるわ。馬車の中でも寝ていいかしら?」
「勝手にしてください。……ただし、寝顔を誰かに見られないように」
馬車が動き出す。
窓の外に流れる王宮の灯りが、どんどん遠ざかっていく。
私は窮屈なコルセットを密かに緩め、豪華な座席に深く体を沈めた。
(さらば、王太子妃の座。さらば、終わらないお茶会……!)
(明日からは、朝日を浴びる必要すらないのね……最高だわ!)
高鳴る鼓動を抑えながら、私はグラナート公爵邸へと向かう闇夜の中、勝利の眠りに就いたのだった。
パーティー会場を後にし、足早に馬車へと向かう私の背中に、聞き慣れた間の抜けた声が追いすがってきた。
振り返らなくてもわかる。ウィルフレイド様だ。
私は一秒たりとも足を止めることなく、ドレスの裾を豪快に掴み上げて歩き続けた。
「……何か御用でしょうか、ウィルフレイド様。婚約破棄の成立をもって、私とあなたは赤の他人。いえ、ただの公爵令嬢と第一王子という公的な関係に戻ったはずですが」
「歩くのが早すぎる! 令嬢ならもっと慎ましく、こう……三歩後ろを歩くとかだな!」
「そんな悠長なことをしていたら、私の貴重な定休日が減ってしまいますわ」
「ていきゅうび……? なんだそれは。それより貴様、慰謝料として『自由』を要求したな。あれはどういう意味だ。まさか、国外追放を免れようという魂胆ではあるまいな!」
ようやく私の前に回り込んだ王子が、肩で息をしながら通せんぼをした。
私は深いため息をつき、手元に用意していた一通の書状を彼の鼻先に突きつけた。
「これを。今すぐ、ここにサインを」
「な、なんだこれは。『今後の婚約、夜会への出席、および公務への関与について、ディアナ・フォン・グラナートの意思を最優先し、王家は一切の強制を行わないことを誓約する』……だと?」
「はい。それが私の望む『自由』ですわ。あ、ついでにそこのリリアンさんも」
王子の後ろでこっそり様子を伺っていたリリアンさんを、私は手招きで呼び寄せた。
「えっ、私ですかぁ? そんな、私なんかがサインしちゃっていいんですかぁ?」
「ええ。あなたが『ディアナに嫌がらせをされましたぁ』と証言し続ける代わりに、私を二度と社交界に呼び戻さないと約束してくれればいいの。ウィンウィンでしょう?」
「う、ウィンウィン……? よくわかりませんけど、ディアナ様がパーティーに来ないなら、私が一番目立てるってことですよね! 書きます、書いちゃいます!」
リリアンさんは、驚くほどの速さで羽根ペンを取り出し、流れるような筆致でサインを書いた。
この子、意外と事務作業の適性があるのではないかしら。
「よし、リリアンが書いたのなら私も書こう! これで貴様との腐れ縁も本当におしまいだ!」
ウィルフレイド様も、勢いよくサインを書き殴った。
私はその書状を、まるで国宝でも扱うかのように丁寧に折り畳み、胸元に仕舞い込んだ。
「……完璧ですわ。これで私は、法的にも社会的にも『公式なニート』として認められました」
「に、にーと……? 貴様、さっきから妙な言葉ばかり使いおって。まあいい、これでせいせいしたぞ! 行くぞ、リリアン!」
「はーい、ウィルフレイド様ぁ!」
二人が意気揚々と会場へ戻っていくのを見送り、私はようやく本物の笑顔を浮かべた。
「……さて。そうと決まれば、爆速で荷造りをして、この息苦しい王都から脱出しましょうか」
「相変わらず、逃げ足だけは一級品ですね。ディアナ様」
闇の中から、低く落ち着いた声がした。
馬車の影から現れたのは、黒い髪をきっちりと整えた青年。
私の幼馴染であり、若くして国の政務を司る宰相、カイル・アシュフォードだった。
「カイル。見ていたの?」
「ええ。婚約破棄の現場から、今の契約締結まで。実に見事な手際でしたよ。……特に、あの王子からあんな不利な誓約書をもぎ取るところなどは」
カイルは呆れたように眼鏡のブリッジを押し上げた。
「不利? 失礼ね。彼は『面倒な女を追い払った』と満足しているわよ。私も『面倒な仕事から解放された』と満足している。誰も損をしていないわ」
「……あなたが抜けた後の書類仕事が、すべて私のところに回ってくることを除けば、ですがね」
「あら、有能な宰相様なら余裕でしょう? 頑張ってね。私はこれから、最低でも一ヶ月は寝る予定だから」
私はカイルの横を通り過ぎ、馬車に乗り込もうとした。
だが、その腕をカイルが軽く掴んで止めた。
「……本気で、あんな男で良かったのですか?」
その瞳には、いつになく真剣な光が宿っている。
私は一瞬だけ、いつもの「完璧な令嬢」の顔を捨てて、彼にだけ見えるようにニヤリと笑った。
「カイル。私はね、愛されることよりも、昼寝をすることを愛しているの。……わかる?」
「……。あなたという人は、本当に」
カイルは拍子抜けしたように力を抜くと、私のために馬車の扉を開けてくれた。
「公爵邸まで、安全に送り届けましょう。それが、あなたの『定休日』への最初のサービスです」
「助かるわ。馬車の中でも寝ていいかしら?」
「勝手にしてください。……ただし、寝顔を誰かに見られないように」
馬車が動き出す。
窓の外に流れる王宮の灯りが、どんどん遠ざかっていく。
私は窮屈なコルセットを密かに緩め、豪華な座席に深く体を沈めた。
(さらば、王太子妃の座。さらば、終わらないお茶会……!)
(明日からは、朝日を浴びる必要すらないのね……最高だわ!)
高鳴る鼓動を抑えながら、私はグラナート公爵邸へと向かう闇夜の中、勝利の眠りに就いたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
不機嫌な侯爵様に、その献身は届かない
翠月 瑠々奈
恋愛
サルコベリア侯爵夫人は、夫の言動に違和感を覚え始める。
始めは夜会での振る舞いからだった。
それがさらに明らかになっていく。
機嫌が悪ければ、それを周りに隠さず察して動いてもらおうとし、愚痴を言ったら同調してもらおうとするのは、まるで子どものよう。
おまけに自分より格下だと思えば強気に出る。
そんな夫から、とある仕事を押し付けられたところ──?
何も決めなかった王国は、静かに席を失う』
ふわふわ
恋愛
王太子の婚約者として、
表には立たず、裏で国を支えてきた公爵令嬢ネフェリア。
だが――
彼女が追い出されたのは、嫉妬でも陰謀でもなかった。
ただ一つ、「決める役割」を、国が彼女一人に押しつけていたからだ。
婚約破棄の後、ネフェリアを失った王国は変わろうとする。
制度を整え、会議を重ね、慎重に、正しく――
けれどその“正しさ”は、何一つ決断を生まなかった。
一方、帝国は違った。
完璧ではなくとも、期限内に返事をする。
責任を分け、判断を止めない。
その差は、やがて「呼ばれない会議」「残らない席」「知らされない決定」となって現れる。
王国は滅びない。
だが、何も決めない国は、静かに舞台の外へ追いやられていく。
――そして迎える、最後の選択。
これは、
剣も魔法も振るわない“静かなざまぁ”。
何も決めなかった過去に、国そのものが向き合う物語。
白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません
鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。
「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」
そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。
——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。
「最近、おまえが気になるんだ」
「もっと夫婦としての時間を持たないか?」
今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。
愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。
わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。
政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ
“白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です
流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。
父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。
無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。
純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。
『めでたしめでたし』の、その後で
ゆきな
恋愛
シャロン・ブーケ伯爵令嬢は社交界デビューの際、ブレント王子に見初められた。
手にキスをされ、一晩中彼とダンスを楽しんだシャロンは、すっかり有頂天だった。
まるで、おとぎ話のお姫様になったような気分だったのである。
しかし、踊り疲れた彼女がブレント王子に導かれるままにやって来たのは、彼の寝室だった。
ブレント王子はお気に入りの娘を見つけるとベッドに誘い込み、飽きたら多額の持参金をもたせて、適当な男の元へと嫁がせることを繰り返していたのだ。
そんなこととは知らなかったシャロンは恐怖のあまり固まってしまったものの、なんとか彼の手を振り切って逃げ帰ってくる。
しかし彼女を迎えた継母と異母妹の態度は冷たかった。
継母はブレント王子の悪癖を知りつつ、持参金目当てにシャロンを王子の元へと送り出していたのである。
それなのに何故逃げ帰ってきたのかと、継母はシャロンを責めた上、役立たずと罵って、その日から彼女を使用人同然にこき使うようになった。
シャロンはそんな苦境の中でも挫けることなく、耐えていた。
そんなある日、ようやくシャロンを愛してくれる青年、スタンリー・クーパー伯爵と出会う。
彼女はスタンリーを心の支えに、辛い毎日を懸命に生きたが、異母妹はシャロンの幸せを許さなかった。
彼女は、どうにかして2人の仲を引き裂こうと企んでいた。
2人の間の障害はそればかりではなかった。
なんとブレント王子は、いまだにシャロンを諦めていなかったのだ。
彼女の身も心も手に入れたい欲求にかられたブレント王子は、彼女を力づくで自分のものにしようと企んでいたのである。
断罪される前に市井で暮らそうとした悪役令嬢は幸せに酔いしれる
葉柚
恋愛
侯爵令嬢であるアマリアは、男爵家の養女であるアンナライラに婚約者のユースフェリア王子を盗られそうになる。
アンナライラに呪いをかけたのはアマリアだと言いアマリアを追い詰める。
アマリアは断罪される前に市井に溶け込み侯爵令嬢ではなく一市民として生きようとする。
市井ではどこかの王子が呪いにより猫になってしまったという噂がまことしやかに流れており……。
離れ離れの婚約者は、もう彼の元には戻らない
月山 歩
恋愛
婚約中のセシーリアは隣国より侵略され、婚約者と共に逃げるが、婚約者を逃すため、深い森の中で、離れ離れになる。一人になってしまったセシーリアは命の危機に直面して、自分の力で生きたいと強く思う。それを助けるのは、彼女を諦めきれない幼馴染の若き王で。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる