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「……カイル。先ほどから、そのペンを走らせるカリカリという音が非常に耳障りなのだけれど」
私はベッドに寝そべり、クッションに顎を乗せたまま恨めしそうに視線を投げた。
視線の先には、私の寝室の隅にいつの間にか設置された重厚な執務机。
そこには、山のような書類と格闘する宰相閣下、カイル・アシュフォードの姿がある。
「我慢してください。あなたが王宮に来ないせいで、私の仕事量は通常の三倍に膨れ上がっているのです。監視を兼ねてここで処理するのは合理的でしょう?」
「不合理の極みよ。ここはレディの寝室なのだけれど?」
「幼馴染の、しかも廃人宣言をした女性の部屋に今さら何の緊張感を持てと? ほら、喋る暇があるならその書類の束を紐で綴じてください」
「絶対に嫌。私は今日、指一本動かさないと決めているの」
私はふいと顔を背け、再び布団の海へと潜り込んだ。
しかし、カイルはペンを置くと、椅子を鳴らして立ち上がった。
「……そうですか。では、少し休憩にしましょう。せっかくですから、外の空気でも吸いに行きませんか?」
「外? お断りよ。日光に当たると溶けてしまうわ」
「そんな軟弱な吸血鬼のようなことを言わないでください。……実は、下町に面白い店を見つけましてね。立ち食いで、黒いスープの麺を出す屋台です」
私は、布団の中でぴくりと耳を動かした。
「……立ち食い? 麺? 王宮のフルコースのような、まどろっこしい手順はないの?」
「ええ。注文して三十秒で出てきます。器を持って、立ったまま啜る。それだけです」
「……三十秒。それは、究極のタイパ(タイムパフォーマンス)ではないかしら」
私はのっそりと這い出してきた。
「行きましょう、カイル。今の私に必要なのは、優雅な晩餐ではなく、爆速で胃を満たすジャンクな栄養だわ」
私たちは、目立たない灰色のフード付きケープを深く被り、公爵邸の裏門からこっそりと抜け出した。
王都の下町は、夕暮れ時ということもあって活気に溢れている。
魚を焼く匂いや、人々の荒っぽい笑い声。
王宮の、あの消毒されたような静寂とは無縁の世界だ。
「カイル、あそこ? あの、煙がもくもく出ているところ?」
「そうです。お嬢様には刺激が強すぎるかもしれませんが、味は保証しますよ」
たどり着いたのは、古びた木の板を組み合わせただけの簡素な屋台だった。
中では、汗を拭いながら麺を啜る労働者たちの熱気が渦巻いている。
「いらっしゃい! 兄ちゃんに姉ちゃん、何にする!」
店主の威勢の良い声に、私は一瞬たじろいだが、すぐにカイルの背中を小突いた。
「カイル、一番早くて、一番『廃人』にふさわしいやつを」
「……すみません、かき揚げを二つ。そばで」
「あいよっ! かき揚げ二丁!」
店主が手際よく、麺を湯通しし、巨大な揚げ物を上に乗せた。
カイルが銅貨を数枚差し出すと、すぐに見るからに濃い醤油色のスープが入った器が差し出される。
「さあ、ディアナ。これが下町の『立ち食い蕎麦』です」
「これが……。レンゲもないのね。器を直接持つなんて、家庭教師が見たら卒倒するわ」
私は恐る恐る、割り箸を割った。
そして、真っ黒なスープの中から麺を引きずり出し、勢いよく啜り込む。
「……ッ! 熱い! でも、濃い! なんて攻撃的な味かしら!」
「口に合いますか?」
「ええ、最高よ。上品な出汁の味なんて一ミリもしない。ただ、ガツンと脳に響く塩気と油。……これこそが、自由の味ね!」
私は立ったまま、一心不乱に麺を啜った。
周囲の労働者たちも、私のことなど気に留めない。
ここでは、誰もがただの「腹を空かせた人間」だ。
「カイル。私、わかったわ。ドレスを着て椅子に座っている間、私はこのスープのような『熱さ』を忘れていたのね」
「……麺を啜りながら、そんな哲学的なことを言うのはあなたくらいですよ」
カイルは呆れつつも、自身の器を空にして満足そうに息を吐いた。
「さて、満足したら帰りましょう。また書類が待っています」
「……帰りたくないわ。このまま、この屋台の椅子……あ、椅子はないんだったわね。この屋台の一部になりたい」
「贅沢を言わない。明日は、また別の美味しい店を教えますから」
「本当? 約束よ?」
私は、最後の一滴までスープを飲み干すと、空の器をカウンターに置いた。
お腹の中からポカポカと温まり、少しだけ「明日も生きてみよう」という活力が湧いてくる。
定休日は、ただ寝るだけではない。
今まで知らなかった「楽しい無駄」を拾い集めること。
それが私の、真の戦いなのだ。
「……でもカイル。次は、座って食べられる店がいいわ。足がパンパンよ」
「さっきまでの感動はどこへ行ったんですか。……ほら、馬車までおんぶしてあげましょうか?」
「あら、宰相閣下におんぶされるなんて、不敬罪で捕まってしまうわね。……お願いするわ」
私はカイルの背中に図々しく飛び乗り、心地よい疲れと共に帰路についた。
私の「定休日」は、まだ始まったばかり。
次は何を食べようか。そんなことを考えながら、私はカイルの背中で静かに目を閉じた。
私はベッドに寝そべり、クッションに顎を乗せたまま恨めしそうに視線を投げた。
視線の先には、私の寝室の隅にいつの間にか設置された重厚な執務机。
そこには、山のような書類と格闘する宰相閣下、カイル・アシュフォードの姿がある。
「我慢してください。あなたが王宮に来ないせいで、私の仕事量は通常の三倍に膨れ上がっているのです。監視を兼ねてここで処理するのは合理的でしょう?」
「不合理の極みよ。ここはレディの寝室なのだけれど?」
「幼馴染の、しかも廃人宣言をした女性の部屋に今さら何の緊張感を持てと? ほら、喋る暇があるならその書類の束を紐で綴じてください」
「絶対に嫌。私は今日、指一本動かさないと決めているの」
私はふいと顔を背け、再び布団の海へと潜り込んだ。
しかし、カイルはペンを置くと、椅子を鳴らして立ち上がった。
「……そうですか。では、少し休憩にしましょう。せっかくですから、外の空気でも吸いに行きませんか?」
「外? お断りよ。日光に当たると溶けてしまうわ」
「そんな軟弱な吸血鬼のようなことを言わないでください。……実は、下町に面白い店を見つけましてね。立ち食いで、黒いスープの麺を出す屋台です」
私は、布団の中でぴくりと耳を動かした。
「……立ち食い? 麺? 王宮のフルコースのような、まどろっこしい手順はないの?」
「ええ。注文して三十秒で出てきます。器を持って、立ったまま啜る。それだけです」
「……三十秒。それは、究極のタイパ(タイムパフォーマンス)ではないかしら」
私はのっそりと這い出してきた。
「行きましょう、カイル。今の私に必要なのは、優雅な晩餐ではなく、爆速で胃を満たすジャンクな栄養だわ」
私たちは、目立たない灰色のフード付きケープを深く被り、公爵邸の裏門からこっそりと抜け出した。
王都の下町は、夕暮れ時ということもあって活気に溢れている。
魚を焼く匂いや、人々の荒っぽい笑い声。
王宮の、あの消毒されたような静寂とは無縁の世界だ。
「カイル、あそこ? あの、煙がもくもく出ているところ?」
「そうです。お嬢様には刺激が強すぎるかもしれませんが、味は保証しますよ」
たどり着いたのは、古びた木の板を組み合わせただけの簡素な屋台だった。
中では、汗を拭いながら麺を啜る労働者たちの熱気が渦巻いている。
「いらっしゃい! 兄ちゃんに姉ちゃん、何にする!」
店主の威勢の良い声に、私は一瞬たじろいだが、すぐにカイルの背中を小突いた。
「カイル、一番早くて、一番『廃人』にふさわしいやつを」
「……すみません、かき揚げを二つ。そばで」
「あいよっ! かき揚げ二丁!」
店主が手際よく、麺を湯通しし、巨大な揚げ物を上に乗せた。
カイルが銅貨を数枚差し出すと、すぐに見るからに濃い醤油色のスープが入った器が差し出される。
「さあ、ディアナ。これが下町の『立ち食い蕎麦』です」
「これが……。レンゲもないのね。器を直接持つなんて、家庭教師が見たら卒倒するわ」
私は恐る恐る、割り箸を割った。
そして、真っ黒なスープの中から麺を引きずり出し、勢いよく啜り込む。
「……ッ! 熱い! でも、濃い! なんて攻撃的な味かしら!」
「口に合いますか?」
「ええ、最高よ。上品な出汁の味なんて一ミリもしない。ただ、ガツンと脳に響く塩気と油。……これこそが、自由の味ね!」
私は立ったまま、一心不乱に麺を啜った。
周囲の労働者たちも、私のことなど気に留めない。
ここでは、誰もがただの「腹を空かせた人間」だ。
「カイル。私、わかったわ。ドレスを着て椅子に座っている間、私はこのスープのような『熱さ』を忘れていたのね」
「……麺を啜りながら、そんな哲学的なことを言うのはあなたくらいですよ」
カイルは呆れつつも、自身の器を空にして満足そうに息を吐いた。
「さて、満足したら帰りましょう。また書類が待っています」
「……帰りたくないわ。このまま、この屋台の椅子……あ、椅子はないんだったわね。この屋台の一部になりたい」
「贅沢を言わない。明日は、また別の美味しい店を教えますから」
「本当? 約束よ?」
私は、最後の一滴までスープを飲み干すと、空の器をカウンターに置いた。
お腹の中からポカポカと温まり、少しだけ「明日も生きてみよう」という活力が湧いてくる。
定休日は、ただ寝るだけではない。
今まで知らなかった「楽しい無駄」を拾い集めること。
それが私の、真の戦いなのだ。
「……でもカイル。次は、座って食べられる店がいいわ。足がパンパンよ」
「さっきまでの感動はどこへ行ったんですか。……ほら、馬車までおんぶしてあげましょうか?」
「あら、宰相閣下におんぶされるなんて、不敬罪で捕まってしまうわね。……お願いするわ」
私はカイルの背中に図々しく飛び乗り、心地よい疲れと共に帰路についた。
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