婚約破棄? ありがとうございます、今日から廃業いたします

萩月

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「……ああ、神よ。もしあなたが実在するのなら、今すぐこの書類の山をパンケーキに変えていただきたい」


深夜の公爵邸。ディアナの寝室の片隅で、カイル・アシュフォードは力なく呟いた。


手元の時計は午前二時を回っている。


煌々と輝く魔導ランプの下、彼の目の前には王宮から「至急」の印を押されて届いた書類が、地層のように積み重なっていた。


「カイル、独り言が大きいのよ。安眠の妨げだわ」


ベッドの中から、毛布にくるまったディアナが顔だけを出して不満を漏らす。


「……ディアナ。あなたが『定休日』を宣言してから、私の平均睡眠時間は二時間を切りました。文句を言いたいのはこちらの方です」


「それは、あなたが有能すぎるからいけないのよ。もっと適当に、ウィルフレイド様のように『愛の詩』でも書いて過ごせばいいじゃない」


「あのような紙の無駄遣いをするくらいなら、私は一生不眠症で構いません」


カイルは鋭い手つきで書類に決裁印を叩き込んだ。


その音は、もはや事務作業のそれではなく、何かに対する怒りの連打に近い。


「……。驚きましたよ。あなたが裏でこれほど膨大な量の雑務を処理していたとは」


「あら、気づくのが遅いわね。私は『悪役令嬢』として完璧であるために、周囲の綻びをすべて一人で繕っていたのよ」


「ええ、本当に。王子の発言の矛盾点の修正、予算の付け替え、各派閥への根回し……。あなたが消えた後の王宮は、まるで柱を抜いた神殿のようにガタガタです」


カイルは眼鏡を外し、熱を持った目元を指で押さえた。


「特に酷いのは外交部だ。あなたが作成していた『各国の特使が好む枕の高さリスト』を紛失したせいで、隣国の公使が不機嫌になり、危うく関税交渉が決裂するところでした」


「……あのアヒルの羽毛じゃないと眠れない我儘な公使ね。懐かしいわ」


「『懐かしい』で済ませないでください。私はそのアヒルを確保するために、昨晩、自ら市場を駆けずり回ったのですから」


「ふふ。宰相閣下がアヒルを追いかける姿、見たかったわね」


ディアナはクスクスと笑いながら、枕元に置いてあった「最高級のチョコレート」を一粒口に放り込んだ。


「カイル。そんなに辛いなら、あなたも辞めちゃえばいいのに」


カイルのペンが、ぴたりと止まった。


「……私が辞めたら、誰があなたのこの『自堕落な聖域』を守ると思っているのですか」


「え?」


「あなたが望むままにダラだらと過ごすためには、王宮からの追及を逸らし、公爵家の権威を保ち、外敵を排除する人間が必要です」


カイルは椅子を回し、真剣な眼差しでディアナを見据えた。


「あなたが『悪役』を演じる必要がなくなったのなら、その代わりに私が『怪物』にでもなって、この場所を守る。……そう決めたのですよ」


「……。カイル、それって、もしかして……」


「……。仕事が恋人の、悲しい社畜の遠吠えです。気にしないでください」


カイルは照れ隠しのように再び机に向かい、猛烈な勢いでペンを走らせ始めた。


「……カイル。一つだけ、言っていいかしら」


「何です。これ以上の要求なら、流石の私もキレますよ」


「……。私のために無理をしているなら、その、たまには私の隣で寝てもいいのよ? このベッド、キングサイズだから余ってるし」


ガタン、という派手な音がした。


カイルが椅子ごと後ろにひっくり返り、書類の山が彼の体の上に崩れ落ちる。


「……。何をおっしゃっているのですか、この廃人は!」


「あら。誘惑したつもりはないわ。ただの『場所の有効活用』の提案よ」


「……不謹慎だ。心臓に悪い。……そして、少しだけ心が揺らいだ自分が一番許せない」


カイルは顔を真っ赤にしながら、這い上がるようにして書類の山から脱出した。


「いいですか、ディアナ。私は、あなたがいつか『定休日』を終えて、また私の隣で歩いてくれる日を待っているんです。……たとえそれが、百年後だとしても」


「百年後? その頃には私、骨になっているわよ」


「骨になっても、私がその横で書類を捌いてあげますよ」


「……。それはもはや、愛を通り越して執念ね」


ディアナは呆れたように肩をすくめ、再び毛布の中に潜り込んだ。


「おやすみなさい、仕事の鬼さん。明日もおアヒルさんの確保、頑張ってね」


「……おやすみなさい、我が儘なお嬢様」


カイルは小さく溜息をつき、静まり返った部屋で、再びペンを走らせる。


彼の苦悩は終わらない。


だが、時折聞こえるディアナの穏やかな寝息だけが、彼にとって唯一の、そして最高の「報酬」なのだった。
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