婚約破棄? ありがとうございます、今日から廃業いたします

萩月

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「ディアナ! カイルとの婚約など認めんぞ! 今すぐその契約書を破り捨てて、私のもとに戻るのだ!」


公爵邸の優雅なティータイムをぶち壊し、金の髪を振り乱したウィルフレイド様が乱入してきた。


その後ろには、申し訳なさそうに俯く近衛兵たちが数名。どうやら、王子の暴走を止めきれなかったらしい。


私は、スコーンにたっぷりとクロマテッドクリームを塗りながら、視線すら上げずに答えた。


「……ウィルフレイド様。不法侵入も三回目となると、もはや様式美すら感じますわね。今日は何の御用かしら」


「決まっている! 略奪だ! 私は王子として、君をこの『怠惰の巣窟』から救い出し、王宮という名の輝かしい職場へ連れ戻す!」


「救い出す、という言葉をこれほど物騒な意味で使う方を初めて見ましたわ」


カイルが、私の隣で静かにティーカップを置いた。その瞳は、深海よりも冷たく澄んでいる。


「……殿下。略奪とは、穏やかではありませんね。彼女は正式な手続きを経て、私の婚約者となった。王族といえど、個人の契約を一方的に破棄することは許されません」


「黙れ、カイル! お前は彼女の有能さを独占し、私を書類の山に埋め殺そうとしているだけだ! これは国家に対する反逆、いや、私に対するいじめだ!」


「いじめ……。殿下、それは被害妄想というものです。私はただ、彼女が望む『定休日』を保障しているに過ぎません」


「嘘をつけ! ディアナ、思い出せ! 君はかつて、私の三歩後ろを歩き、完璧にスケジュールを管理していたではないか! あの頃の君は、今のようにポテトチップスの袋を枕にするような女ではなかった!」


ウィルフレイド様は、まるで悲劇のヒロインのように天を仰いだ。


「今の君は、カイルに毒されているのだ! さあ、私の手を取れ。君をもう一度、週休ゼロ日の『輝ける王太子妃』に戻してあげよう!」


私は、手に持っていたスコーンを皿に戻し、ゆっくりと立ち上がった。


「……ウィルフレイド様。一つだけ、大きな勘違いをされていますわ」


「なんだ!? 私の愛が足りないとでも言うのか!」


「いいえ。……私がいつ、あなたの三歩後ろを歩いていたとおっしゃるの?」


「えっ? いや、いつも……」


「あれは三歩後ろを歩いていたのではありません。……あなたが歩くのが遅すぎて、後ろでイライラしながら、あなたの後頭部にどうやって決裁印を叩き込もうか考えていただけですわ」


会場……ではなく、テラスに戦慄が走った。近衛兵の一人が、思わず噴き出している。


「そ、そんな……! 君のあの献身的な態度は、すべて怒りの裏返しだったというのか!」


「ええ。今の私があるのは、カイルに毒されたからではありません。……長年の『あなたのお守り』という激務で、私のやる気が完全に枯渇した結果ですのよ」


「ディアナ……。君はそこまで、私との仕事を嫌っていたのか……」


「仕事は嫌いではありませんわ。……あなたと組むのが、絶望的に不効率だっただけです」


私はカイルの腕に、しなだれかかるようにして寄り添った。


「カイルは素晴らしいわ。私が寝ていても、勝手に書類を片付けてくれる。……略奪なさるなら、私ではなくカイルを連れて行ったらどうかしら?」


「そ、それは……。カイルを連れて行っても、私は癒やされない! 私は君の、あの冷徹な『……仕事しろ』という罵声が聞きたいんだ!」


「……。殿下、それはもう末期症状ですね」


カイルが、憐れみの視線を王子に向けた。


「いいですか、殿下。略奪宣言は取り下げていただきます。彼女の定休日は、私の命に代えても守り抜く。……お引き取りを。さもなくば、王宮の予算をさらに一割、私の独断でカットいたします」


「ぐっ……! 予算カットだけは……! リリアンの食費がなくなってしまう……!」


「あら、ウィル様ぁ。私の名前を出さないでくださいまし」


座椅子の陰で、スヤスヤと寝ていたはずのリリアンが、片目だけを開けて不機嫌そうに呟いた。


「私、今の生活が気に入ってますの。ウィル様の顔を見るより、お師匠様の寝顔を見ている方が、よっぽど精神衛生上いいんですわ」


「リリアンまで……! ああ、私の楽園が……!」


ウィルフレイド様は、崩れ落ちるように膝をついた。


だが、私は知っている。この王子、ここで諦めるほど察しが良くないことを。


「……わかった。今日は引こう。だが、ディアナ! 私は諦めないぞ! 君がもう一度『仕事中毒』に戻るその日まで、私は何度でも略奪に来るからな!」


「……。誰か、あの方に新しい趣味をプレゼントしてあげて。切実に」


私は、再びカウチに倒れ込み、深いため息をついた。


略奪宣言。それは私にとって、新たな「安眠妨害」の予告でしかなかった。
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