婚約を破棄する!と言われた私と、裏でハイタッチするヒロイン。

萩月

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ヴィルフレド殿下の「愛の演出部隊」が奏でる不協和音が遠ざかり、別荘にようやく静寂が戻った。


……はずだったのだが。


「ちょっと待ってくださいマーサ! そのお鍋の底に張り付いた一番美味しい部分は、逃亡者である私への配慮として譲られるべきですわ!」


「リリアーナ様、落ち着いてください。お嬢様の分を確保するのが侍女の務めです。たとえ親友(ズッ友)であっても、主人の取り分を奪うのは万死に値します!」


食堂からは、淑女にあるまじき罵り合いと、金属製のヘラが鍋を削る「ガリガリ」という不穏な音が響いていた。


私は玄関でゼクスと顔を見合わせ、同時にもう一度溜息をついた。


「……ゼクス様。あの方たちを止める気力、残っていますかしら?」


「……。あいにく、私の騎士道は『カレーのお焦げを巡る女の戦い』に介入するようには教わっていない」


ゼクスは力なく首を振ると、乱れた前髪を無造作にかき上げた。


「それよりメリー。……殿下にあんなことを言って、本当に良かったのか? 『精神科へお送りする』と言ったのは私だが、君は婚約破棄された身だ。不敬罪に問われる可能性もある」


「あら、今さらですわよ。それに、あの殿下の脳内フィルターを通せば、私の暴言も『愛のムチ』に変換されますもの。心配なのは、私の喉が彼のナルシシズムに耐えきれず拒絶反応を起こすことだけですわ」


私が扇で顔を煽りながら答えると、ゼクスがふっと、本当に微かに、目元を和らげた。


「……君は、強いな。それとも、単に恐れを知らないだけか」


「褒め言葉として受け取っておきますわ。……さあ、中へ入りましょう。あの子たちが鍋に穴を開ける前に」


私たちが食堂に入ると、そこには勝利の女神……ではなく、鍋底の「お焦げ」を皿に盛り、満足げにスプーンを咥えたリリアーナがいた。


マーサは「……不覚です」と膝をついて項垂れている。


「お姉様! ゼクス様! おかえりなさい! 殿下は無事に『お花畑』へとお帰りになりましたか?」


「ええ、帰り際まで『愛のカレー』を所望していたわよ。……リリアーナ、あんた、そのお顔。蜂蜜に続いて今度はカレーのシミが付いてますわよ。それでもヒロインなんですの?」


「いいんですのよ。今の私は、ただの『カレー好きの居候』ですもの! ……それよりゼクス様、今の殿下の様子、見ていましたわ。ゼクス様がお姉様を庇った瞬間、ちょっとした騎士物語のヒーローのようでしたわよ?」


リリアーナが、ニヤニヤしながらゼクスを指差す。


ゼクスは一瞬、言葉に詰まったように視線を泳がせた。


「……私は、監視役としての任務を全うしただけだ。謹慎中の令嬢が殿下の毒気に当てられて倒れでもしたら、私の管理責任が問われる」


「あら、随分と理屈っぽいヒーローですわね。ねえ、お姉様?」


「うるさいわね。……でも、ゼクス様」


私は、自分でも驚くほど素直な声を出していた。


「……助かりましたわ。正直、あのまま殿下に手を取られていたら、反射的に背負い投げを決めて、それこそ国際問題に発展するところでしたもの」


「……。……そうか。ならば、私の介入も無駄ではなかったということだな」


ゼクスは、バツが悪そうに鼻の頭を指で擦った。


「さて、騒ぎのせいで少し冷えてしまったが、まだカレーは残っている。……メリー、君も少しは落ち着いて食べ直せ。汗をかいて、顔が少し疲れているぞ」


「……。誰のせいで疲れたと思っているんですの。……でも、頂きますわ」


私は椅子に座り、再びスプーンを握った。


隣ではリリアーナが「次はナンが食べたいですわね」と贅沢なことを言い始め、ゼクスが「贅沢を言うな、次は小麦粉を練るところからやらせるぞ」と脅している。


(……変な感じね)


数日前まで、私は王子の婚約者として、常に完璧な仮面を被り、息の詰まるような王宮で戦っていた。


けれど今、私は婚約を破棄され、世間的には「悪役」として追放されている。


それなのに、この騒がしい別荘で、腹黒いヒロインと、無愛想な騎士と一緒に囲む食卓は、どんな豪華な晩餐会よりも心が満たされていた。


「……メリー。さっきから手が止まっているぞ。辛すぎたか?」


ゼクスが、心配そうに私の顔を覗き込んできた。


「……いいえ。ただ、このカレーが目に染みただけですわ」


「……。スパイスが飛んだのか? 顔を貸せ、見てやろう」


「いいですわよ! 放っておいて頂戴な!」


私は慌ててカレーを口に放り込んだ。


自由への道は、まだまだ険しい。けれど、このスパイスの香りがある限り、私はどこまでも歩いていける気がした。
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