婚約破棄を受け入れたら溺愛ルートに突入。没落する暇もありません!

萩月

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「お嬢様、本当に行くのですか? その……この馬車の数は、もはや行商人の大移動でございますよ」

セバスが遠い目をしながら、屋敷の前に連なる十台の馬車を見上げました。
私の私物、美容機器、そして献上用の新作コスメ。
これでも厳選に厳選を重ねた結果なのですが、どうやら一般常識という名の物差しでは計りきれないようですわ。

「セバス、何を仰っていますの。隣国の王宮へ伺うのです。予備のドレスが三回分、パック用の精製水が五十リットル、そして万が一の時のための移動式サウナ。……これらは淑女の『最低限の嗜み』ではなくて?」

「……移動式サウナを嗜みと呼ぶのは、世界でお嬢様だけでございます。さあ、アルベルト閣下がお待ちです」

エスコートのために現れたアルベルト様は、私の馬車列を見て、こめかみをピクピクと動かしていました。
以前よりも表情が豊かになった気がしますわ。
いいことです。表情筋を動かすことは、リフトアップの基本ですから。

「……キラリ。これは引越しではないぞ。晩餐会への招待だと言ったはずだが」

「あら、アルベルト様。美しさは一日にして成らず、そして準備を怠れば一瞬で崩れ去るもの。……さあ、出発しましょう! 私の輝きを待っている方々が、隣国に大勢いらっしゃるのでしょう?」

私はアルベルト様の腕に手を添え、優雅に馬車へと乗り込みました。
隣国の王宮までは、馬車で二日の道のり。
道中は険しい森や山を抜けるそうですが、私にとっては「天然のマイナスイオン・ツアー」に過ぎません。

移動中、馬車の窓から差し込む日光を、私は「天然のライティング」として活用していました。
手鏡で自分の肌の状態をチェックしながら、アルベルト様に美容のアドバイスをするのが日課です。

「アルベルト様。先ほどから外を警戒してばかりで、お顔の筋肉が強張っていますわ。もっとリラックスして、深い呼吸を意識してちょうだい。酸素不足はくすみの原因ですわよ」

「……このあたりは魔物が出る。君の呑気さが羨ましいが、私は護衛としての責任があるのだ」

「魔物? まあ、美容の天敵ですわね。もし現れたら、私の特製『超刺激性・目潰し唐辛子洗顔料(試作品)』で撃退して差し上げますわ」

「……それは魔物よりも恐ろしい兵器な気がするが」

そんな軽口を叩いていた時でした。
突然、馬車が激しい振動と共に急停車しました。
外からは馬の嘶きと、地響きのような唸り声が聞こえてきます。

「……来たか。キラリ、君は馬車から出るな。……おい、騎士たち! 陣を組め!」

アルベルト様が鋭い声で命じ、剣を抜いて外へ飛び出しました。
私は言いつけを守る……わけがありませんわ。
何が起きたのか、この目で「美学的観点」から確認しなければ気が済みません。

「お嬢様! いけません、外には『森の暴君』と呼ばれる大熊が!」

セバスの制止をスルーして扉を開けると、そこには体長三メートルはあろうかという、薄汚れた灰色の毛並みをした大熊が立ちはだかっていました。
騎士たちが剣を構えて包囲していますが、大熊は苛立ったように咆哮しています。

「……うう、なんてこと……」

私は口元を片手で覆い、絶句しました。
アルベルト様が私を庇うように一歩前へ出ます。

「安心しろ、キラリ。私が必ず仕留めてみせる。……怪我はさせない」

「いいえ、アルベルト様! そういうことではありませんわ!」

「え……?」

私はアルベルト様を押し退け、大熊に向かって真っ直ぐ歩き出しました。
騎士たちが「死ぬ気か!?」と叫びますが、私の視界には、その大熊の「悲惨な状態」しか映っていません。

「あなた! その毛並み、一体どうしたの!? 枝は絡まっているし、泥は固まっているし……。何より、そのキューティクルの欠片もないバサバサ感! 森の暴君の名が泣いていますわよ!」

大熊がポカンと口を開けました。
唸るのも忘れて、緑色のパックを塗りたくり(今はしていませんが)、扇を振りかざして迫ってくる私を凝視しています。

「キラリ、下がれ! そいつは話が通じる相手ではない!」

「話が通じなくても、肌……いえ、毛並みは嘘をつきません! いい、おとなしくなさい。その不潔な毛玉、私が今すぐ解きほぐして差し上げますわ!」

私は馬車から、献上用の予備として持ってきた「超高級・魔法銀のヘアブラシ」と、植物性オイルのミストを取り出しました。

「……グルル?」

「グルルじゃありません! ほら、背中を見せなさい!」

私は恐れを知らぬ足取りで大熊の背後に回り込みました。
大熊は、私のあまりの気迫(と、漂う高級ローズの香り)に圧倒されたのか、そのままのっそりと座り込んでしまったのです。

「いい? 優しくブラッシングすることで、皮膚の血行を良くし、新しい毛の生え変わりを促すのです。……ほら、このあたりの泥を落とせば、意外と艶やかな毛色ではありませんか」

シュッシュッとオイルミストを吹きかけ、私は一心不乱に大熊をブラッシングし始めました。
騎士たちは剣を構えたまま石像のように固まっています。
アルベルト様に至っては、開いた口が塞がらないという、美容的に非常に宜しくない表情をしておられました。

十分後。
そこには、陽の光を浴びてキラキラと輝く、見違えるほどフワフワになった大熊がいました。

「……ふう。少しはマシになりましたわね。ほら、この『育毛・美毛用オーガニックジャーキー』をあげるから、森へ帰ってお友達に自慢してきなさい」

私がジャーキーを差し出すと、大熊は満足げにそれを食べ、最後になぜか私にペコリと頭を下げてから、森の奥へと消えていきました。

「……キラリ。君は……君という人間は……」

剣を鞘に収めたアルベルト様が、脱力したように私の肩に手を置きました。

「あら、アルベルト様。平和的な解決ですわね。魔物だって、美しさに目覚めれば暴力的になる必要なんてありませんのよ。……さあ、予定が遅れていますわ。早く出発しましょう!」

「……ああ、そうだな。……君の隣にいると、私の常識が『美』という激流に流されて消えていくようだ」

「褒め言葉として受け取っておきますわ。オーホッホッホッホ!」

高笑いと共に、私の豪華な馬車列は再び動き出しました。
隣国の国境は、もうすぐそこ。
私の「美容革命」の波は、人間のみならず、どうやら森の住人たちまでをも飲み込み始めたようです。
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