婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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「……で、具体的にどのような業務をさせられるのですか?」

馬車に揺られること数日。

私の問いかけに、ジェイド公爵は書類から目を離さずに答えた。

「領地経営の全般だ」

「範囲が広すぎます。もう少し具体的に」

「予算管理、物流の最適化、都市計画の見直し、そして魔物討伐の遠征計画における補給路の確保……ああ、あと近隣諸国との通商交渉もだな」

私は扇で口元を隠し、冷めた目で彼を見た。

「閣下。それは『公爵夫人』の仕事ではなく、『宰相』の仕事です」

「似たようなものだ」

「全然違います。給料の未払い案件ですよ」

私はため息をつく。

窓の外には、見慣れた王都の風景はなく、荒々しくも美しい針葉樹の森が広がっていた。

北へ行けば行くほど気温は下がり、馬車の窓ガラスには薄っすらと霜が降りている。

「寒い……」

「これを使え」

ジェイド公爵が、自身の膝にかけていた分厚い毛皮のブランケットを無造作に投げてよこした。

「あ、ありがとうございます。……って、これ最高級のシルバーウルフの毛皮じゃないですか」

「暖かいだろう?」

「ええ、非常に。……質屋に入れたらいくらになるかしら」

「君、俺の前で平然と横領の計画を立てるなよ」

呆れたように言う彼だが、その声色はどこか楽しそうだ。

この数日の旅でわかったことがある。

この男、意外と懐が深いというか……私の無礼な態度を面白がっている節がある。

「ところで、イーロア嬢」

「なんでしょう」

「君が王都でやっていた『悪役令嬢ごっこ』についてだが」

ギクリ、とする。

その話題はあまり触れられたくない。

「……ごっこ遊びではありません。私は正真正銘、性格の悪い女ですので」

「ほう? では、先日の園遊会での一件はどう説明する?」

彼は意地悪なクイズを出す教師のような顔をした。

「君は、貧乏男爵の娘が落としたスープを、わざと踏みつけてドレスを汚したな?」

「はい。彼女が泣きそうな顔をするのが見たくて」

「嘘をつけ。あのスープには、遅効性の毒が盛られていた」

「……」

「君はそれに気づき、彼女が口にする前に『汚い』と罵りながら器をひっくり返し、さらに証拠隠滅のために踏みつけた。……違うか?」

私は視線を逸らした。

「……ただの偶然です。虫の居所が悪かっただけですので」

「そうか。では、その前の舞踏会で、リリィ嬢を突き飛ばしたのは?」

「彼女が目障りだったので」

「シャンデリアの留め具が緩んでいるのに気づき、真下にいた彼女を突き飛ばして救ったんだろう? おかげで彼女は無傷、君は『暴力女』の悪名を被ったわけだが」

ジェイド公爵は、まるで探偵のように私の過去の悪事を暴いていく。

いや、悪事の皮を被った善行を、だ。

居心地が悪いことこの上ない。

「……閣下は、私のストーカーなのですか? 気持ち悪いです」

「酷い言われようだ。俺はただ、君の『処理能力』に感嘆していただけだ」

彼はパタンと書類を閉じた。

「一瞬で状況を把握し、最適解を導き出し、実行に移す。しかも、自分の評価を下げることなど意に介さず、結果だけを追求する。……その合理性、まさに俺好みだ」

「変態ですね」

「褒め言葉として受け取っておく」

彼はニヤリと笑うと、窓の外を指差した。

「見ろ。俺たちの城だ」

言われて窓の外を見ると、険しい山の中腹に、黒曜石で作られたような巨大な城塞がそびえ立っていた。

雪化粧を纏ったその姿は、美しくも威圧的で、まさに「魔王城」といった風情だ。

「うわぁ……寒そう」

「中は暖かいと言っただろう」

「それにしても、ずいぶんと警備が厳重ですね」

城門の前には、武装した兵士たちが整列している。

馬車が近づくと、彼らは一斉に敬礼し、重厚な鉄の門がゆっくりと開かれた。

「ようこそ、ルークス辺境伯領へ」

馬車が城の中庭に滑り込む。

扉が開かれ、冷気とともに執事たちが駆け寄ってきた。

「おかえりなさいませ、閣下!」

出迎えたのは、白髪の老執事だった。

身なりは整っているが、その目の下には濃いクマがあり、頬はこけている。

背後に控えるメイドたちも、どこか足元がふらついているように見えた。

(……ん? なんか様子がおかしいような?)

私は違和感を覚えた。

「セバス、留守中の状況は?」

ジェイド公爵が馬車を降りながら尋ねる。

老執事セバスは、涙目で主に縋り付いた。

「か、閣下ぁぁぁ! お待ちしておりました! もう限界です! 事務方が……事務方が全滅しましたぁぁ!」

「……は?」

私が馬車から降りた瞬間、聞こえてきたのは悲痛な叫びだった。

「全滅とはどういうことだ」

「先日発生した魔物のスタンピード処理、冬越しの備蓄計算、さらに隣国からの急な使節団の対応……書類が! 書類が山のように積もって、文官たちが次々と過労で倒れております!」

「……チッ、またか」

ジェイド公爵は舌打ちをした。

そして、振り返って私を見た。

その目は、「さあ、出番だ」と言わんばかりに輝いている。

「……嫌な予感がします」

私は後ずさる。

「逃げるなよ、イーロア」

彼は私の背中をガシッと掴むと、そのまま城の中へと押し込んだ。

「ちょ、ちょっと! 休憩は!? 移動の疲れを癒やすティータイムは!?」

「後で最高級の茶葉を用意させてやる。だが、その前に――現実を見てもらおうか」

連れて行かれたのは、城の二階にある執務室だった。

重厚な扉が開かれる。

その瞬間。

「……うそ、でしょう?」

私は絶句した。

そこは、部屋ではなかった。

紙の、森だった。

床から天井まで、書類、書類、書類。

机の上はもちろん、椅子の上、床、窓枠にまで、羊皮紙の束が塔のように積み上げられている。

その隙間で、数人の文官たちが死んだ魚のような目をしてペンを走らせていた。

「あ、閣下……おかえり、なさいま……せ……」

一人がよろりと立ち上がり、そのままパタリと倒れた。

「ひっ!?」

「ああ、気にしなくていい。ただの寝不足だ」

ジェイド公爵は倒れた文官を跨ぎ、私に向き直った。

「見ての通りだ。我が軍は戦闘には強いが、デスクワークができる人材が圧倒的に足りない」

彼は両手を広げ、この地獄のような光景を示した。

「俺も剣を振るうのは得意だが、計算は苦手でな。……そこで、君だ」

「……」

「君の『悪役令嬢としての完璧な隠蔽工作スキル』があれば、この程度の書類、半分以下に減らせるだろう?」

私はプルプルと震えながら、出口に向かって一歩踏み出した。

「お……」

「お?」

「お断りしますぅぅぅぅ!! こんなのブラック企業なんてレベルじゃありません! 労働基準法違反です! 帰らせていただきます!!」

私はドレスの裾を捲り上げ、脱兎のごとく駆け出した。

しかし。

「おっと。契約書にはサインしただろう?」

私の襟首が、無情にも掴まれる。

「離して! 詐欺よ! こんなの聞いてないわ!」

「『領政の効率化』と言ったはずだ。……さあ、イーロア。頼んだぞ」

ジェイド公爵は、悪魔のような笑顔で私を書類の山へ放り投げた。

「ちなみに、今日のノルマが終わるまで、あのふかふかの羽毛布団はお預けだ」

「悪魔!! 人でなし!! 氷の公爵!!」

「ハハハ、なんとでも言え」

こうして。

私の「何もしないスローライフ」は、開始早々、書類の雪崩に埋もれて圧死したのであった。

次回、『辺境の城はブラックでした』。

……絶対に、定時で帰ってやる。
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