婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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「……地獄ですね」

私は目の前に広がる光景を見て、率直な感想を述べた。

執務室の机の上には、未決裁の書類が雪山のようにそびえ立っている。

崩れかけた書類の塔の下で、死にそうな顔をした文官がうめき声を上げていた。

「おい、その『至急』の箱、いつからそこにある?」

「せ、先週からです……」

「先週の至急は、もはやゴミと同じだ。捨てちまえ」

ジェイド公爵が乱暴に指示を飛ばしている。

私はこめかみを押さえた。

(帰りたい。今すぐ実家の屋根裏部屋にでも帰りたい)

この部屋の空気は淀んでいる。

長時間労働特有の、絶望とカフェインと古紙の混ざり合った臭いが充満しているのだ。

「さて、イーロア。君のデスクはあそこだ」

ジェイド公爵が指差したのは、部屋の隅にある比較的整頓された(といっても書類が三段重ねになっている程度の)机だった。

「……お断りします」

私はきっぱりと言った。

「契約違反です。私は『顧問』として雇われたのであって、『奴隷』として売られたわけではありません」

「人聞きが悪いな。これは『初期投資』だ。君がこの山を片付ければ、以後は優雅な顧問生活が待っている」

「信じません。一度有能さを見せれば、『あれもこれも』と仕事を押し付けるのが経営者の常套手段です」

私はくるりと踵を返した。

「部屋の鍵をください。私は寝ます」

「鍵ならここにあるぞ」

ジェイド公爵が、チャリ、と音を立てて金色の鍵を指先で回した。

「南向きの角部屋。バルコニー付き。ベッドは最高級のシルクシーツに、雲のような羽毛布団だ」

私の足がピタリと止まる。

雲のような、羽毛布団。

ここまでの長旅で、私の体は悲鳴を上げている。

硬い馬車の座席で数日間揺られ続け、腰も背中も限界だ。

今すぐにでも、ふかふかの何かに埋もれて意識を飛ばしたい。

「……条件は?」

「この山」

彼は机の一角にある、高さ五十センチほどの書類の束を叩いた。

「これを今日中に処理しろ。そうすれば、部屋の鍵を渡す。明日の朝まで誰も起こさないと約束しよう」

私はその束を睨みつけた。

ざっと見積もって二百枚。

内容は、領内の物品購入申請書と、下級兵士の勤務報告書が混ざっているようだ。

(……普通にやれば五時間はかかる)

だが、私は「悪役令嬢」として、王城の複雑怪奇な帳簿を裏で操作してきた実績がある。

「……三十分」

「ん?」

「三十分で終わらせます。そうしたら、すぐに鍵を渡してください」

「ハハッ、大きく出たな。三十分でこの量を――」

「ストップウォッチを用意してください。……スタート!」

言うが早いか、私は机に向かってダイブした。

「ペン! インク! あと認印!」

「お、おい!?」

私は文官の手からペンをひったくり、鬼の形相で書類に向かった。

ペンの先が火を吹く勢いで走る。

「これは却下。予算オーバー。理由は備考欄参照!」

「これは承認。ただし見積もりが甘いので次回から修正させること!」

「これは重複! 前の書類とセットで処理!」

「字が汚い! 書き直し!」

バサッ、バサッ、バサッ!

書類が次々と「処理済み」の箱へ放り込まれていく。

周囲の文官たちが、ポカンと口を開けてその光景を見ていた。

「な、なんだあの速さは……」

「手が……残像に見える……」

「読み込んでいるのか? いや、即断即決だ。迷いが一切ない!」

私は周囲の雑音をシャットアウトし、ただひたすらに「睡眠への切符」を勝ち取るために手を動かした。

私の原動力は、忠誠心でも出世欲でもない。

ただ、「早く寝たい」という執念のみ。

「……終わりっ!!」

ダンッ!

最後の書類に認印を叩きつけ、私はペンを置いた。

荒い息を吐きながら、ジェイド公爵の前に手を突き出す。

「二十八分四十五秒! 確認完了! 不備なし! さあ鍵を!!」

ジェイド公爵は、処理された書類の山と、私の顔を交互に見た。

そして、信じられないものを見るような目で呟く。

「……化け物か、君は」

「失礼な。ただの『睡眠欲の権化』です。さあ!」

私は彼の手から鍵をひったくった。

「本日の業務は終了です! お疲れ様でした!」

「あ、おい待て! まだこっちの山が……」

「知りません! 定時(自己申告)です!」

私はドレスの裾を翻し、執務室を飛び出した。

背後で「神だ……女神が舞い降りた……」という文官たちの涙声が聞こえたが、無視だ。

廊下を疾走し、教えられた「南向きの角部屋」を目指す。

辿り着いた扉に鍵を差し込み、ガチャリと開ける。

そこには――。

「……天国」

広々とした部屋。

暖炉には火が入り、暖かな空気が満ちている。

そして中央には、キングサイズの天蓋付きベッドが鎮座していた。

「会いたかったわ……マイ・スイート・ベッド……」

私は鍵を閉めると、そのままベッドにダイブした。

ボフンッ!

期待通りの弾力。包み込まれるような柔らかさ。

「あぁ~……幸せ……」

このまま泥のように眠りたい。

だが、私の理性が警鐘を鳴らした。

(待って。あの公爵のことだ。味をしめて、明日になったら「昨日の倍」の仕事を持ってくるに決まっている)

私の処理能力がバレてしまった以上、このままでは過労死コース一直線だ。

対策を講じなければならない。

私はむくりと起き上がった。

「……籠城よ」

私は部屋の中を見回す。

重厚なタンス、一人掛けのソファ、テーブル。

「よいしょっ、こらしょっ!」

私はドレス姿のまま、家具を引きずってドアの前に積み上げた。

ガゴ、ガゴゴッ。

数分後。

ドアの前には、立派なバリケードが完成していた。

これで、外からは絶対に開けられない。

「ふふふ……これぞ『絶対不可侵領域(サンクチュアリ)』……」

私は満足げに頷き、再びベッドへ潜り込んだ。

コンコン。

ドアがノックされる。

「イーロア? 夕食の時間だが」

ジェイド公爵の声だ。

私は布団の中から叫んだ。

「いりません! 私は冬眠に入ります!」

「冬眠って……まだ秋だぞ。開けろ」

「開けません! そこにあるバリケードが見えないんですか!」

「……バリケード? 君、部屋の中で何をしてるんだ」

ドアノブがガチャガチャと回されるが、タンスがしっかりとガードしている。

「言っておきますが、私はもう働きません! この部屋を『イーロア独立国』とし、貴国からの不当な労働要求を一切拒否します!」

「……はぁ」

扉の向こうで、深いため息が聞こえた。

「わかった、わかったよ。無理強いはしない」

「本当ですか?」

「ああ。……ただし、明日の朝食はパンケーキにメープルシロップ、それに厚切りのベーコンだそうだ。焼きたてを持ってこさせるつもりだったが……開かないなら仕方ないな」

ピクリ。

「……」

「冷めると味が落ちるからな。俺が代わりに食べるとしよう」

足音が遠ざかろうとする。

卑怯だ。

空腹と睡眠欲の二択を迫ってくるなんて。

「……くっ」

私は枕を抱きしめ、葛藤した。

だが、ここで屈しては「有能な怠け者」の名折れだ。

「……騙されませんよ! 餌付け作戦には屈しません!」

私は布団を頭から被った。

こうして、辺境の城での第一夜は、私の籠城戦によって幕を開けたのだった。

お腹が、グゥと鳴った。

……明日になったら、ちょっとだけバリケードをずらそうかな。
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