婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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グゥ~……。

情けない音が、静まり返った部屋に響いた。

朝日が差し込む優雅な客室。

しかし、その入り口にはタンスや椅子が無骨に積み上げられ、異様な光景を作り出している。

私はベッドの上で、ぺたんこのお腹をさすった。

「……背に腹は代えられないと言いますが、この場合の『背』とはプライドのことでしょうか」

昨夜からの籠城戦。

私は一歩も部屋から出ていない。

空腹は限界に近い。

だが、ここでノコノコと出て行けば、「おや、昨日の威勢はどうした?」とあの性格の悪い公爵に笑われるのは目に見えている。

「私は屈しませんよ……。空腹など、精神力でどうにでもなるものです」

私は震える手でポットの水を汲み、それを飲んで空腹を紛らわせた。

その時だ。

ふわ~ん……。

ドアの隙間から、暴力的なまでに「良い匂い」が漂ってきたのは。

「……っ!?」

これは……焼きたてのパンの香り?

いや、それだけじゃない。

バターでソテーされたベーコンの香ばしさ、挽きたてのコーヒーの芳醇な香り、そして甘く濃厚なメープルシロップの気配……!

ゴクリ、と喉が鳴る。

「おーい、イーロア。起きているか?」

ドアの向こうから、ジェイド公爵の楽しげな声が聞こえた。

「返事がないな。……死んでいるのか?」

「生きてます!!」

私は思わず叫んでいた。

「お、生きていたか。それはよかった。いやなに、朝食を持ってきたんだが、バリケードがあるから入れなくてな」

「……そこに置いておいてください」

「冷めると美味しくないぞ? 特にこの『ふわふわスフレオムレツ』は、口に入れた瞬間に溶けるのが売りなんだが」

スフレオムレツ。

その単語の破壊力たるや。

私の脳裏に、プルプルと揺れる黄金色の卵料理が浮かぶ。

「……くっ、卑怯な」

「さらに今日は、デザートも用意した。王都で一番人気の『月の涙亭』の季節限定フルーツタルトだ」

「なっ……!?」

私はガバッと布団を跳ね除けた。

『月の涙亭』のタルトと言えば、王都でも予約三ヶ月待ちの幻のスイーツではないか!

なぜこんな辺境にそんなものが!?

「ふふ、君が王都にいた頃、月に一度こっそりとそれを買い食いしていたことは調査済みだ」

「……ストーカー!」

「ファンと言ってくれ。……さて、どうする? 俺はこのまま執務室でこれを食べてもいいんだが」

廊下でカチャカチャと食器の触れ合う音がする。

私の理性が、音を立てて崩れ去っていく。

(待って。落ち着いて、イーロア)

私は自分に言い聞かせる。

(これは罠よ。餌で釣って、またあの地獄の書類部屋に連れ戻す気だわ)

しかし、本能が叫ぶ。

『タルト食べたい! オムレツ食べたい! 糖分を寄越せ!』

「……イーロア?」

「……わかりました」

私は敗北を認めた。

「バリケードを……一部、解除します」

「賢明な判断だ」

私はフラフラとドアに近づき、重いタンスをズズズ……と引きずって隙間を作った。

ガチャリ。

ドアを開けると、そこにはワゴンを押したジェイド公爵が立っていた。

その笑顔の、なんと爽やかで憎たらしいことか。

「おはよう、俺の歌姫(ディーヴァ)。いや、今は『俺の怠け姫』か」

「……おはようございます。その呼び方はやめてください」

私はワゴンに視線を釘付けにしたまま言った。

そこには、想像を絶する豪華な朝食セットが鎮座していた。

「さあ、入っていいか?」

「……どうぞ」

私は負け犬のように道を開けた。

ジェイド公爵は優雅に部屋に入ってくると、テーブルに料理を並べ始めた。

「顔色が悪いぞ。低血糖か?」

「誰のせいだと……」

「ほら、まずはスープからだ」

差し出された温かいコンソメスープ。

私は震える手でスプーンを持ち、一口飲んだ。

「……っ!」

五臓六腑に染み渡るとは、まさにこのこと。

美味しい。悔しいけれど、涙が出るほど美味しい。

「どうだ?」

「……毒は入っていないようですね」

「入っているのは愛情だけだ」

「胃もたれしそうなスパイスですね」

軽口を叩きながらも、私の手は止まらない。

オムレツは口の中で雲のように溶け、ベーコンの塩気は絶妙。

そして、デザートのタルト。

サクサクの生地と、甘酸っぱいベリーのハーモニー。

「……ふぅ」

完食。

私は幸福感に包まれて、ソファに深く沈み込んだ。

もう、どうにでもなれ。

お腹がいっぱいなら、それでいいじゃないか。

「満足したか?」

向かいに座って紅茶を飲んでいたジェイド公爵が、ニヤニヤしながら尋ねてくる。

「……悔しいですが、最高でした」

「それはよかった。では、エネルギーも充填されたことだし」

彼はカップを置き、懐から一枚の紙を取り出した。

ビクリ、と体が反応する。

「……なんですか、それ」

「今日の業務予定表だ」

「帰りなさい!! 塩を撒きますわよ!!」

私はクッションを投げつけた。

彼はそれを軽々と片手でキャッチする。

「暴れるな。話を聞け。……今日は昨日のような『書類地獄』ではない」

「信じません! どうせまた山のような未決裁箱が……」

「今日は『視察』だ」

「視察?」

「ああ。領内の城下町を少し歩く。君には、その目で我が領の現状を見てほしいんだ」

私は警戒を解かずに彼を睨んだ。

「……歩くんですか? 疲れます」

「馬車を使う。歩くのは最小限だ」

「寒いです」

「俺が温めてやる」

「セクハラです」

「……最高級のカイロと、防寒具を用意してある」

「……おやつは?」

「道中で、名物の『焼きクレープ』を買ってやろう」

「……」

私は少し考えた。

城下町の視察。

まあ、部屋に閉じこもっているよりは気分転換になるかもしれない。

それに、クレープ。

「……条件があります」

「なんだ」

「三時までには帰ってきてください。昼寝の時間が必要ですので」

「承知した。三時には城に戻し、その後は自由時間としよう」

「……契約成立です」

私は重々しく頷いた。

ジェイド公爵は満足げに立ち上がり、私の頭をポンポンと撫でた。

「いい子だ。……しかし、君は本当に『餌』に弱いな」

「うるさいです。これは『必要経費の交渉』です」

「はいはい。じゃあ、着替えてこい。三十分後に出発だ」

彼が出て行った後、私はふぅと息を吐いた。

なんだろう、この敗北感は。

完全に手玉に取られている気がする。

「……でもまあ、タルトは美味しかったし」

私は口元に残る甘い余韻を舐め、重い腰を上げた。

「さて、働きますか……クレープのために」

私の忠誠心は、あまりにも安かった。
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