婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

文字の大きさ
6 / 28

6

しおりを挟む
「……おいしい」

サクサクの生地、たっぷりのホイップクリーム、そして甘酸っぱいイチゴ。

城下町の視察(という名の食べ歩き)から戻った私は、サロンのソファに沈み込み、約束のクレープを頬張っていた。

「それはよかった。並んで買った甲斐があったというものだ」

向かいの席で、ジェイド公爵が書類に目を通しながらコーヒーを飲んでいる。

ちなみにクレープの行列に並んだのは、彼自身だ。

「氷の公爵」が庶民に混じってクレープ屋の列に並ぶ姿は、なかなかの見世物だった。

おかげで周囲の町民たちは石像のように固まっていたけれど。

「さて、約束通り三時に戻った。あとは自由時間だ」

「言質は取りましたよ。では、私は部屋に戻って……」

私が立ち上がろうとした、その時だった。

「きゃっ! ご、ごめんなさい!」

ガシャン!

サロンの隅で、掃除をしていた若いメイドがバケツをひっくり返した。

汚れた水が床に広がる。

「あわわ……ど、どうしよう……」

彼女はパニックになり、慌てて雑巾で床を拭き始めた。

しかし、その動きが問題だった。

彼女は水を拭き取ろうとして、逆に汚れを塗り広げているのだ。

さらに、バケツを取りに行くために一度立ち上がり、また戻ってきて拭く。

その動線が無駄すぎる。

(……イラッ)

私の眉間がピクリと跳ねた。

私は「合理主義者」であると同時に、「非効率な作業を見ると蕁麻疹が出る体質」なのだ。

「そこ、動きが違います」

「へ?」

メイドが顔を上げるより早く、私はツカツカと彼女の元へ歩み寄っていた。

「い、イーロア様……?」

「見ていられません。貸して」

私は彼女の手から雑巾を奪い取った。

「いいですか? 液体の汚れを拭くときは、外側から内側へ円を描くように集めるのです。そうすれば被害は拡大しません」

私は実際に手を動かしてみせる。

サッ、サッ。

無駄のない動きで、水溜りは一瞬にして雑巾に吸収された。

「そして、バケツの位置が遠すぎます。自分の半径一メートル以内に置くのが鉄則。あなたが移動するたびに三秒のロスが発生しています。一回の清掃で百回移動すれば三百秒、つまり五分の損失です」

「は、はい……!」

「さらに、その窓拭きをしているあなた!」

私は別のメイドを指差した。

彼女はビクリと震え、高いところを拭こうとして背伸びをしていた。

「椅子の使い方が間違っています。安定した足場を確保せずに作業をするのは、効率が悪いだけでなく労働災害のリスクを高めます。怪我をして休まれたら、シフトを組み直す私の(未来の)手間が増えるでしょう?」

「も、申し訳ありません!」

「謝る暇があったら、もっと効率的に動きなさい。……いいですか、掃除とは『汚れを移動させる』ことではありません。『消去する』ことです」

私のスイッチが入ってしまった。

王太子の婚約者時代、王城のメイドたちを厳しく指導(調教)していた頃の癖が出てしまったのだ。

私はドレスの袖をまくり上げ、サロンの中央に仁王立ちした。

「全員、手を止めなさい! これより『イーロア式・超高速清掃術』を伝授します!」

「「は、はいっ!!」」

メイドたちが整列する。

「まず、動線を見直します。Aチームは窓、Bチームは床、Cチームは什器。担当エリアを明確にし、互いの移動ラインが交差しないように!」

「はい!」

「雑巾の絞り方はこう! 手首を捻るのではなく、体重をかけて圧搾する! その方が水分切れが良く、乾燥時間が三十パーセント短縮されます!」

「す、すごい……一瞬で水気が……!」

「高い所の埃は、叩き落とすのではなく吸着させる! 静電気を利用したモップを使いなさい。道具は使いようです!」

私は的確かつ冷徹に指示を飛ばし続けた。

私の言葉に従い、メイドたちの動きが変わる。

無駄な往復がなくなり、迷いが消え、まるで一つの生き物のように連携し始めた。

ザッ、ザッ、キュッ、ピカッ!

サロンが見る見るうちに輝きを取り戻していく。

曇っていた窓ガラスは存在を忘れるほど透明になり、床は大理石本来の輝きを放ち始めた。

「……完了」

私は雑巾をバケツに放り込み、額の汗を拭った。

時計を見る。

「所要時間、十五分。……まあ、及第点ですね」

ふぅ、と息を吐く。

我に返ると、メイドたちがキラキラとした瞳で私を見つめていた。

「す、すごいですイーロア様! いつもなら一時間はかかるのに!」

「体が……体が勝手に動くみたいに楽でした!」

「一生ついていきます!」

「……いえ、別に感謝されたくてやったわけではありません」

私は冷たく言い放った。

「あなたたちの手際が悪すぎて、見ているだけで私の精神衛生が害されるから口を出しただけです。勘違いしないでください」

そう言って背を向けると、パチパチパチ……と乾いた拍手が聞こえた。

「……お見事」

ソファに座っていたジェイド公爵が、感心したように拍手を送っていた。

「まさか、掃除の指揮まで完璧とはな」

「……ただの暇つぶしです」

「暇つぶしで城がピカピカになるなら、毎日暇にしていてほしいものだ」

彼は立ち上がり、輝く床を見渡した。

「うちのメイドたちは素朴で真面目だが、教育が行き届いていなくてな。……どうだ? 彼女たちの『師匠』になってみる気は?」

「お断りします。教育係は給料が高い代わりに、ストレスで胃に穴が空く職業ナンバーワンです」

「そうか? 彼女たちは君を崇拝しているようだが」

見ると、メイドたちは「師匠……!」「姉御……!」という熱い視線を送ってきている。

うっ、重い。

これはリリィ嬢と同じ種類の視線だ。

「……私は、楽をしたいだけなんです。効率的に掃除が終われば、それだけ静かな時間が早く訪れる。それだけのことです」

「なるほど。つまり『怠けるために努力する』わけだ」

「その通りです」

私は胸を張った。

ジェイド公爵はクスクスと笑い、私の手を取った。

「その『有能な怠惰』こそ、我が家に必要な才能だ。……ありがとう、イーロア。おかげで気分がいい」

「……ふん。礼には及びません」

私はそっぽを向いたが、頬が少し熱くなるのを感じた。

いけない。

この男、褒めるのが上手すぎる。

これでは調子に乗って働かされてしまう。

「あ、そうだ。クレープを食べたから、手がベタベタします」

「おっと、すまない」

彼はハンカチを取り出し、丁寧に私の指先を拭いてくれた。

その仕草があまりにも自然で、そして優しかったので、私はとっさに毒舌を吐くタイミングを逃してしまった。

(……なんか、ペースがおかしいわ)

王城での「悪役令嬢」時代は、常に周囲が敵だった。

けれど、ここは違う。

私の毒舌も、冷徹な指示も、なぜか好意的に受け入れられてしまう。

「……自由時間ですよね。部屋に戻ります」

「ああ。夕食までゆっくり休むといい」

私は逃げるようにサロンを出た。

背後で「またお願いしますね、イーロア様!」というメイドたちの黄色い声が響く。

部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。

「……調子が狂う」

天井を見上げながら呟く。

静かだ。

掃除が行き届いた廊下からは、バタバタという足音も聞こえない。

私が効率化したせいで、城内が静寂に包まれているのだ。

「……まあ、静かに寝られるなら、結果オーライですか」

私は瞳を閉じた。

だが、この時の私はまだ知らなかった。

この一件が噂となり、翌日から城中の使用人たちが「私の仕事も見てください!」と相談にやってくることになるなんて。

私のスローライフへの道は、なぜか働くほどに遠ざかっていくのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

さようなら、たったひとつの

あんど もあ
ファンタジー
メアリは、10年間婚約したディーゴから婚約解消される。 大人しく身を引いたメアリだが、ディーゴは翌日から寝込んでしまい…。

【短編】花婿殿に姻族でサプライズしようと隠れていたら「愛することはない」って聞いたんだが。可愛い妹はあげません!

月野槐樹
ファンタジー
妹の結婚式前にサプライズをしようと姻族みんなで隠れていたら、 花婿殿が、「君を愛することはない!」と宣言してしまった。 姻族全員大騒ぎとなった

婚約破棄寸前だった令嬢が殺されかけて眠り姫となり意識を取り戻したら世界が変わっていた話

ひよこ麺
恋愛
シルビア・ベアトリス侯爵令嬢は何もかも完璧なご令嬢だった。婚約者であるリベリオンとの関係を除いては。 リベリオンは公爵家の嫡男で完璧だけれどとても冷たい人だった。それでも彼の幼馴染みで病弱な男爵令嬢のリリアにはとても優しくしていた。 婚約者のシルビアには笑顔ひとつ向けてくれないのに。 どんなに尽くしても努力しても完璧な立ち振る舞いをしても振り返らないリベリオンに疲れてしまったシルビア。その日も舞踏会でエスコートだけしてリリアと居なくなってしまったリベリオンを見ているのが悲しくなりテラスでひとり夜風に当たっていたところ、いきなり何者かに後ろから押されて転落してしまう。 死は免れたが、テラスから転落した際に頭を強く打ったシルビアはそのまま意識を失い、昏睡状態となってしまう。それから3年の月日が流れ、目覚めたシルビアを取り巻く世界は変っていて…… ※正常な人があまりいない話です。

冷遇王妃はときめかない

あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。 だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

ゴースト聖女は今日までです〜お父様お義母さま、そして偽聖女の妹様、さようなら。私は魔神の妻になります〜

嘉神かろ
恋愛
 魔神を封じる一族の娘として幸せに暮していたアリシアの生活は、母が死に、継母が妹を産んだことで一変する。  妹は聖女と呼ばれ、もてはやされる一方で、アリシアは周囲に気付かれないよう、妹の影となって魔神の眷属を屠りつづける。  これから先も続くと思われたこの、妹に功績を譲る生活は、魔神の封印を補強する封魔の神儀をきっかけに思いもよらなかった方へ動き出す。

とある伯爵の憂鬱

如月圭
恋愛
マリアはスチュワート伯爵家の一人娘で、今年、十八才の王立高等学校三年生である。マリアの婚約者は、近衛騎士団の副団長のジル=コーナー伯爵で金髪碧眼の美丈夫で二十五才の大人だった。そんなジルは、国王の第二王女のアイリーン王女殿下に気に入られて、王女の護衛騎士の任務をしてた。そのせいで、婚約者のマリアにそのしわ寄せが来て……。

「不細工なお前とは婚約破棄したい」と言ってみたら、秒で破棄されました。

桜乃
ファンタジー
ロイ王子の婚約者は、不細工と言われているテレーゼ・ハイウォール公爵令嬢。彼女からの愛を確かめたくて、思ってもいない事を言ってしまう。 「不細工なお前とは婚約破棄したい」 この一言が重要な言葉だなんて思いもよらずに。 ※短編です。11/21に完結いたします。 ※1回の投稿文字数は少な目です。 ※前半と後半はストーリーの雰囲気が変わります。 表紙は「かんたん表紙メーカー2」にて作成いたしました。 ❇❇❇❇❇❇❇❇❇ 2024年10月追記 お読みいただき、ありがとうございます。 こちらの作品は完結しておりますが、10月20日より「番外編 バストリー・アルマンの事情」を追加投稿致しますので、一旦、表記が連載中になります。ご了承ください。 1ページの文字数は少な目です。 約4800文字程度の番外編です。 バストリー・アルマンって誰やねん……という読者様のお声が聞こえてきそう……(;´∀`) ロイ王子の側近です。(←言っちゃう作者 笑) ※番外編投稿後は完結表記に致します。再び、番外編等を投稿する際には連載表記となりますこと、ご容赦いただけますと幸いです。

処理中です...