婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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「――というわけで、君には俺の『恋人役』を演じてもらいたい」

ディナーの席だった。

メインディッシュの『仔羊のロースト・香草パン粉焼き』を口に運ぼうとしていた私の手が、ピタリと止まった。

私はフォークを置き、ナプキンで口元を拭ってから、目の前の男を凝視した。

「……閣下。今、なんと?」

「だから、恋人役だ。正確には『婚約者候補』という立ち位置でもいい」

ジェイド公爵は、赤ワインを優雅に揺らしながら平然と言ってのけた。

「お断りします」

私は即答し、再びナイフとフォークを握った。

「食事が不味くなります。冗談は食後のコーヒーの時だけにしてください」

「冗談ではない。大真面目な業務命令だ」

「尚更お断りです。私の業務範囲は『事務処理』と『掃除の効率化指導(不本意)』だけのはず。色仕掛け担当は契約に含まれていません」

私はプリプリと怒りながら仔羊肉を切り分けた。

柔らかい。ナイフがスッと入る。

口に入れると、ジューシーな肉汁とハーブの香りが広がる。

(……美味しい。悔しいけれど、ここのシェフは天才ね)

怒りを咀嚼で紛らわせていると、ジェイド公爵がため息をついた。

「勘違いするな。君に色仕掛けを期待しているわけじゃない。……むしろ、その逆だ」

「逆?」

「君のその『人をゴミを見るような目』と、『絶対零度の対応』が必要なんだ」

彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルの上を滑らせて私の前に置いた。

そこには『業務委託契約書(特殊任務)』と書かれている。

「我が領地は、現在復興と発展の過渡期にある。おかげで金回りが良くなり、王都の貴族どもが俺に媚びを売ろうと必死だ」

「……あー、なるほど」

私は察した。

「釣書(縁談)の山が届いているのですね?」

「山どころじゃない。雪崩だ。毎日毎日、『うちの娘をどうだ』『姪をどうだ』と肖像画が送られてくる。中には頼みもしないのに領地まで押しかけてくる令嬢もいる」

ジェイド公爵は心底うんざりした顔をした。

「俺は忙しいんだ。見合いをする暇があったら、魔物の巣を一つでも潰したい。……そこで、君だ」

彼はビシッと私を指差した。

「君が俺の隣に立ち、『この男は私のものです。近寄ったら噛み殺しますわよ』というオーラを出し続けてくれれば、有象無象のハエどもを追い払える」

「……私を魔除けか何かだと思っていませんか?」

「『最強の魔除け』だと思っている」

彼は真顔で言った。

「君の『悪役令嬢』としての実績は素晴らしい。王太子妃候補として、カイルに近づく女をことごとく撃退してきたんだろう?」

「撃退というか……自滅するように誘導しただけですが」

「それがいいんだ。俺の隣で、ただ冷笑を浮かべて立っていてくれればいい。それだけで効果は抜群だ」

私は契約書に目を落とした。

そこに書かれている条件は、私の目を疑わせるものだった。

**【業務内容】**
1.  公爵のパートナーとして公式行事に出席すること。
2.  公爵に近づく不要な人物(主に女性)への威圧・牽制。
3.  **上記以外の時間は、原則として自由行動とする。**

**【報酬・待遇】**
1.  **城内での最高ランクの衣食住の無償提供。**
2.  **一日三回の食事(おやつ付き)保証。**
3.  **業務がない日の昼寝時間は無制限とする。**
4.  特別手当として月額金貨○○枚を支給。

「……んん?」

私は目をこすった。

「閣下、この『業務がない日の昼寝時間は無制限』というのは……?」

「文字通りの意味だ。夜会や行事がない日は、君は何もしなくていい。部屋でゴロゴロしていても、庭で日向ぼっこをしていても、誰も文句は言わない」

「書類仕事は?」

「俺の防波堤になってくれるなら、書類仕事は免除しよう。……まあ、君が暇つぶしに手伝ってくれるなら歓迎だが」

ゴクリ、と喉が鳴る。

これは……。

これは、私が夢見ていた「スローライフ」ではないか?

「偽の恋人役……つまり、貴方の隣でニコニコしていればいいのですか?」

「いや、ニコニコするな。君が笑うと何か企んでいると思われる。無表情でいい。冷たく、傲慢に、近寄りがたい雰囲気を醸し出してくれ」

「……ただ座っているだけでいい、と?」

「ああ。君は美しいからな。黙って座っていれば、最高級の美術品だ。……あーいや、美術品以上の価値がある」

ジェイド公爵が少し口ごもったが、私はそれどころではなかった。

頭の中で天秤が激しく揺れ動く。

『偽の恋人役』という面倒な肩書き。
VS
『働かなくていい権利』+『最高級の衣食住』+『高額給与』。

(……勝負ありね)

私はナプキンで口を拭い、優雅に微笑んだ。

「閣下。ペンをお借りしても?」

「……受けてくれるか?」

「条件の変更はありませんね? 後から『やっぱり愛想を振りまけ』とか『ダンスを踊れ』とか言わないでくださいよ?」

「約束する。俺もダンスは嫌いだ。壁の花でいよう」

「交渉成立です」

私は差し出されたペンを取り、サラサラと署名した。

『イーロア・フォン・エストラート』。

書き終えた瞬間、私の身分は「公爵の愛人(仮)」に確定した。

「よろしく頼むよ、愛しのフィアンセ」

ジェイド公爵が満足げに契約書を回収する。

「……訂正します。『ビジネスパートナー』です」

「対外的には『溺愛されている婚約者』だ。その辺の演技指導は、明日から始めようか」

「演技指導?」

「ああ。俺たちは『相思相愛』に見えなければならないからな。……手始めに、名前で呼んでくれ」

彼は私の手を取り、親指で手の甲を撫でた。

「ジェイド、と」

その仕草が妙に色っぽくて、私は思わず手を引っ込めそうになった。

(……ビジネス。これはビジネスよ、イーロア)

私は深呼吸をして、冷徹な仮面を被り直した。

「わかりました、ジェイド様。……その代わり、私の安眠を妨害する不届き者がいたら、貴方が斬り捨ててくださいね」

「善処しよう」

こうして、私と氷の公爵との間に、奇妙な共犯関係が結ばれた。

「じゃあ、契約成立の祝いに、もう一皿デザートをもらおうか」

「まだ食うのか?」

「頭を使ったら糖分が必要なんです。……シェフを呼んでください。あの絶品プリンのレシピについて、少し議論(リクエスト)があります」

私はベルを鳴らした。

ジェイド様は呆れたように、けれどどこか嬉しそうに私を見つめていた。

……まあ、悪くない。

王都に戻れば「売られる」運命だった私が、ここでは「座っているだけの高給取り」になれたのだから。

(待ってなさいよ、お父様。私は絶対にここから動きませんからね)

遠く離れた実家の父に向かって、私は心の中でアッカンベーをした。

これが、すべての間違い(あるいは正解)の始まりだったとも知らずに。

次回、『座っているだけの簡単なお仕事です』。

……本当に座っているだけで済むと思っているの?
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