婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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「……あの、閣下」

「ん?」

「重いです。あと、暑苦しいです」

執務室。

私が書類(先日の一件で商人が置いていった修正版の契約書)をチェックしていると、背後から謎の圧迫感を感じた。

振り返るまでもない。

ジェイド公爵が、私の椅子の背もたれに腕を回し、あろうことか私の肩に顎を乗せて覗き込んでいるのだ。

「邪魔はしていないだろう? ただ、君の仕事ぶりを見学しているだけだ」

「吐息が首筋にかかっています。集中力が著しく低下しますので、半径一メートル以内に立ち入らないでください」

「つれないな。せっかく君のために、特注のクッションを用意してやったのに」

彼は私の背中と椅子の間に、ふかふかのクッションを押し込んだ。

確かに快適だ。

腰への負担が軽減され、長時間のデスクワークも苦にならない。

だが、それとこれとは話が別だ。

「……最近、距離感がバグっていませんか?」

私はペンを止め、彼をジト目で睨んだ。

先日の「商会撃退事件」以来、ジェイド様の私に対する態度が劇的に変化した。

以前のような「有能な部下」を見る目ではない。

もっとこう……「珍しい生き物を観察する小学生」のような目なのだ。

「気のせいだろう。……ほら、ここ、髪がハネているぞ」

彼は私の銀髪の一房を指先で掬い取り、クルクルと弄び始めた。

「触らないでください。セットが崩れます」

「サラサラだな。手触りがいい」

「猫じゃありませんよ」

「猫の方がまだ愛想があるな。君はシャーシャー威嚇してばかりだ」

「威嚇させる原因を作っているのは誰ですか」

私がバシッと彼の手を払いのけると、彼は楽しそうに喉を鳴らして笑った。

「くくっ、その顔だ」

「はい?」

「眉間に皺を寄せて、不機嫌そうに俺を見る顔。……実にいい」

「……変態ですか」

「いや、癒やしだ」

彼は真顔で言った。

「城の連中は俺を恐れて媚びへつらうか、過労で死んだ魚のような目をしているかのどっちかだ。君のように、堂々と俺に文句を言い、嫌そうな顔をする人間は貴重なんだよ」

「……趣味が悪すぎます」

私は呆れてため息をついた。

どうやらこの公爵様は、長年の辺境暮らしと激務のせいで、精神構造が少々歪んでしまっているらしい。

「さて、そろそろ休憩にしようか」

ジェイド様が私の手からペンを取り上げた。

「まだ終わっていませんが」

「根を詰めると効率が落ちる。君の持論だろう?」

彼はパチンと指を鳴らす。

すると、待機していたメイドたちがワゴンを押して入ってきた。

今日のおやつは、色とりどりのフルーツサンドと、温かいミルクティーだ。

「わぁ……」

私の目が釘付けになる。

断面の美しさ。たっぷりの生クリーム。そして、宝石のように輝くイチゴ、キウイ、マンゴー。

(……悔しいけれど、餌付けのセンスだけは抜群なのよね)

私はゴクリと喉を鳴らした。

「さあ、座ってくれ」

ソファに誘導され、私は大人しく座った。

目の前に皿が置かれる。

フォークを手に取ろうとした、その時だ。

「はい、あーん」

「……は?」

目の前に、フォークに刺さったイチゴのフルーツサンドが差し出されていた。

その柄を握っているのは、もちろんジェイド様だ。

「……何をしているんですか」

「見ればわかるだろう。君に食べさせてやろうとしている」

「手が不自由になった覚えはありません」

「サービスだ。いつも働いてくれている『共犯者』へのねぎらいだよ」

「自分で食べた方が早いです」

「俺が食べさせたいんだ。……ほら、口を開けろ」

彼はフォークを引かない。

その瞳は、新しいおもちゃを試す子供のように輝いている。

(……この人、絶対に引かないわね)

この数週間の付き合いでわかっている。

彼は一度こうと決めたら、テコでも動かない頑固者だ。

ここで拒否し続けて時間を浪費するのは非効率的だ。

クリームが溶けてしまう前に、さっさと食べて終わらせるのが正解だろう。

「……一回だけですよ」

私は渋々、口を開けた。

「あーん」

パクッ。

口いっぱいに広がるクリームの甘さと、フルーツの酸味。

パンはしっとりとしていて、噛む必要がないほど柔らかい。

「……んんっ」

あまりの美味しさに、私は思わず頬を緩めてしまった。

もぐもぐと咀嚼し、幸福感に浸る。

その様子を、ジェイド様はじっと見つめていた。

「……ふっ」

「……何がおかしいんですか」

「いや、君が食べているところを見ると、なんだか……小動物みたいで癒やされるなと思って」

「……は?」

「頬袋に詰め込んで、必死にモグモグしているリス。……ああ、ハムスターか?」

「失礼な! 私は公爵令嬢として、完璧なテーブルマナーで食べています!」

「口の端にクリームがついているぞ」

「えっ」

私が慌てて拭おうとすると、彼の指が伸びてきて、私の唇の端をぬぐった。

そして、その指についたクリームを、自分の口に含んだ。

「……うん、甘いな」

ボンッ!!

私の顔が一気に沸騰した。

「なっ、ななな……!?」

「どうした? 顔が赤いぞ」

「ふ、不潔です! セクハラです! 訴訟準備に入りますよ!?」

「減るもんじゃないだろう」

「精神的磨耗が激しいんです!!」

私はクッションを抱きしめ、ソファの端まで後ずさった。

心臓がうるさい。

なんなの、この男。

私のペースをことごとく乱してくる。

「……もう、おやつはいりません! 仕事に戻ります!」

「おっと、逃げるのか? まだサンドイッチは残っているぞ」

「貴方が全部食べればいいでしょう! 私は……私は……」

私は言い返そうとして、言葉に詰まった。

ジェイド様の笑顔が、あまりにも楽しそうだったからだ。

「……はぁ」

私は脱力した。

勝てない。

この「有能な怠け者」である私が、完全に手玉に取られている。

「……わかりました。食べます。食べますけど!」

私は元の位置に戻り、自分でフォークを握りしめた。

「絶対に、自分で食べますからね! 手出し無用です!」

「残念だ。次はマンゴーを食べさせてやりたかったんだが」

「マンゴーも自分で食べられます!!」

私は怒りに任せてサンドイッチを頬張った。

ジェイド様はコーヒーを飲みながら、そんな私をひたすら愛でるように眺めている。

(……絶対に、何か勘違いしているわ)

彼は私を「恋人」ではなく、「面白ペット」として認定したに違いない。

「有能な怠け者」として一目置かれるはずが、まさか「餌付けされる小動物」枠に収まるとは。

屈辱だ。

でも、サンドイッチは美味しい。

「……おかわり」

「よしよし」

彼は嬉しそうに私の頭を撫でた。

「やめろと言っているでしょう!」

そんな平和(?)で騒がしいティータイムの最中だった。

コンコン。

ドアがノックされ、執事のセバスが顔色を変えて入ってきた。

「閣下、イーロア様。……緊急の報告がございます」

「なんだ、騒々しい」

ジェイド様が不機嫌そうに振り返る。

セバスは、私をチラリと見てから、重々しく告げた。

「王都より、早馬が到着しました。……カイル王太子殿下が、こちらへ向かっているとのことです」

「……は?」

私の動きが止まった。

フォークからマンゴーがぽろりと落ちた。

「……カイル殿下が?」

「はい。なんでも、『イーロアは悪徳公爵に洗脳されている! 私が直々に救い出しに行く!』と仰っているそうで……」

シン……と部屋が静まり返る。

数秒の沈黙の後。

私とジェイド様の声が重なった。

「……面倒くさい」
「……殺すか」

「殺さないでください、事後処理が大変です!」

私がツッコミを入れると、ジェイド様は冷酷な笑みを浮かべた。

「安心しろ。……俺の大事な『リス』を奪おうとする泥棒には、相応の報いを与えてやる」

「リスじゃありません!」

平和な辺境生活(仮)に、最大の邪魔者(バカ)が迫っていた。

私の安眠とスローライフを守るため、再び「悪役令嬢」の出番が来たようだ。

次回、『王都からの刺客(バカ)』。

……本当に、どこまでもおめでたい王子様だこと。
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