婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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「……おかしいですね」

朝。

私はベッドから起き上がろうとして、盛大によろめいた。

視界がぐらりと回る。

天井が床になり、床が壁になるような感覚。

「……重力係数が、昨日の倍になっています。異常事態です」

私はベッドの柱にしがみつき、冷静に分析を試みた。

頭がガンガンと痛む。

喉が焼けるように熱い。

節々が軋む。

(これは……まさか、あれですか?)

私は認めたくない事実を前に、眉間を揉んだ。

「……風邪、ですね」

自己診断完了。

原因は明白だ。

ここ数日、カイル殿下という災害から逃げ回るために城内を全力疾走し、リリィという忍者の襲撃に備えて神経をすり減らし、さらに昨日はジェイド様との一件で「嫉妬」などという高カロリーな感情を消費した。

私の貧弱な体力(スペック)が、ついに悲鳴を上げたのだ。

「……不覚。自己管理(マネジメント)の失敗です」

私はフラフラとドアに向かった。

とりあえず、薬をもらわなければ。

そして、今日は一日中寝ていることを宣言し、カイル殿下を部屋に入れないようバリケードを強化せねば。

ガチャリとドアを開ける。

廊下には、ちょうど通りかかった人影があった。

「――イーロア?」

ジェイド様だった。

彼は私の顔を見るなり、目を見開いた。

「おい、顔が真っ赤だぞ。どうした?」

「……おはようございます、閣下。現在、私の体内サーバーが熱暴走を起こしておりまして……緊急メンテナンスが必要です」

「何を言っているんだ?」

「つまり、医者を……あと、ポカリ的な何かを……」

言い終わる前に、私の膝から力が抜けた。

「イーロア!」

世界が暗転する。

床に叩きつけられる衝撃を覚悟したが、それは訪れなかった。

代わりに、硬く温かい腕が私を受け止めていた。

「熱い……! すごい熱じゃないか!」

ジェイド様の焦った声が、遠くで聞こえる。

「……すみません。少し、シャットダウンします……」

私の意識は、そこでプツリと途切れた。

***

次に目が覚めた時、私は天蓋付きのベッドに寝かされていた。

額には冷たいタオル。

部屋のカーテンは閉め切られ、薄暗い。

「……ん」

「気がついたか」

ベッドの脇から声がした。

首だけ動かして見ると、ジェイド様が椅子に座り、本を読んでいた。

「……ジェイド様? 仕事は……」

「休んだ」

彼は本を閉じ、私の顔を覗き込んだ。

「過労と心労による発熱だそうだ。医者が『絶対安静』と言っていたぞ」

「……過労、ですか」

私はため息をついた。

「何もしていないのに過労とは。私の体はどれだけ燃費が悪いのでしょう」

「カイルの相手という重労働をさせてすまなかったな」

ジェイド様は苦笑し、サイドテーブルから水差しを取った。

「飲めるか?」

「……はい」

起き上がろうとするが、体が鉛のように重い。

すると、ジェイド様が私の背中に手を回し、抱き起こしてくれた。

そして、水の入ったグラスを口元まで運んでくれる。

「……自分で持てます」

「いいから。こぼすと着替えが面倒だ」

至れり尽くせりだ。

冷たい水が喉を通り、生き返る心地がする。

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

彼は私を再び枕に寝かせると、タオルの交換を始めた。

その手つきが妙に慣れている。

「……閣下。看病なんて、使用人に任せればよろしいのでは?」

「俺がやりたいんだ」

「効率が悪いです。貴方の時給を考えれば、書類を一枚でも多く決裁した方が領地のためです」

「俺の精神安定上、ここにいるのが最も効率がいい」

彼はタオルを絞りながら言った。

「君が倒れた瞬間、心臓が止まるかと思った。……目の届くところにいてくれないと、仕事が手につかない」

「……」

そんなことを真顔で言われては、反論のしようがない。

(……調子が狂うわ)

熱のせいか、彼の言葉がいつもより深く胸に刺さる。

「それに、カイルもリリィも部屋から閉め出しておいた。『伝染病の疑いがある』と言ってな」

「ナイスです」

「だろう? あいつら、怖がって寄り付きもしない」

静寂。

久しぶりに訪れた、完璧な静寂。

皮肉なことに、病気になって初めて、私は望んでいた平穏を手に入れたのだ。

「……お腹は空いているか?」

「いえ、食欲は……」

「だが、薬を飲むために何か腹に入れた方がいい。特製のスープを作らせた」

ジェイド様がベルを鳴らすと、すぐにワゴンが運ばれてきた。

湯気の立つポタージュスープ。

「さあ、あーん」

まただ。

彼はスプーンを構え、ニコニコしている。

「……閣下。先日も言いましたが、私は幼児退行したわけでは……」

「病人は幼児と同じだ。甘えるのが仕事だ」

「それはどういう理屈ですか」

「いいから口を開けろ。……それとも、口移しの方がいいか?」

「……っ! 飲みます! スプーンで!」

私は慌てて口を開けた。

流し込まれるスープは、野菜の甘みが溶け込んでいて、弱った体に優しく染み渡った。

「……おいしい」

「そうか。よかった」

ジェイド様は満足げに、次々とスープを運んでくる。

恥ずかしい。

とてつもなく恥ずかしいが、抵抗する気力もない。

完食すると、彼は丁寧に私の口元を拭ってくれた。

「……まるで、ペットの介護ですね」

「可愛いリスの介護なら本望だ」

「リスじゃありません」

薬を飲み、私は再び布団に潜り込んだ。

熱はまだ下がらない。

意識がまた、ぼんやりとしてくる。

「……ジェイド様」

「なんだ?」

「……私、もう王都には帰りたくないです」

熱に浮かされて、つい本音が漏れた。

「あそこは……息が詰まります。完璧でなきゃいけないし、誰も信用できないし……」

父の冷たい目。周囲の嫉妬と嘲笑。

悪役を演じ続ける孤独。

「……ここなら、呼吸がしやすいんです」

「……」

「仕事はきついし、貴方は意地悪だし、変な人ばっかり来ますけど……それでも」

私は彼の手を、無意識に握っていた。

「……ここは、悪くないです」

言い終わると同時に、強烈な眠気が襲ってきた。

ああ、余計なことを言ってしまったかもしれない。

契約関係の相手に、こんな弱音を吐くなんて。

「……安心しろ」

意識が途切れる寸前、耳元で低い声が聞こえた。

「帰さないよ。君は、一生俺のそばにいればいい」

その声は、とても優しくて、独占欲に満ちていて。

そして、額に柔らかな感触が落ちた気がした。

***

翌朝。

「……おはようございます」

私はスッキリと目を覚ました。

熱は下がり、昨日の倦怠感が嘘のように消えている。

「驚異的な回復力ですね。やはり私の細胞は優秀です」

私はベッドの上で伸びをした。

「……ん?」

右手が重い。

見ると、ベッドの縁に突っ伏して眠っているジェイド様の姿があった。

私の手を、しっかりと握りしめたまま。

(……まさか、一晩中?)

彼の目の下には、うっすらとクマができている。

高いびきのカイル殿下とは大違いだ。

「……バカですね、公爵様」

私は呟き、空いている左手で、彼のさらりとした黒髪をそっと撫でた。

「風邪がうつっても知りませんよ?」

彼は身じろぎをして、寝言のように呟いた。

「……ん……いーろあ……絶対……逃がさない……」

「……はいはい。逃げませんよ」

私は苦笑した。

どうやら、この「辺境ブラック企業」からの退職は、当分できそうにない。

なぜなら、福利厚生(この男)が、思いのほか手厚すぎるからだ。

ガチャ。

「イーロア様! 生きてますかー!」

「イーロア! 私の愛の力でウイルスを浄化しに来たぞ!」

廊下から、いつもの騒音が聞こえてくる。

ジェイド様がビクリと反応して目を覚ました。

「……チッ、うるさいのが起きたか」

「おはようございます、ジェイド様」

私はニッコリと笑った。

「全快しました。……さあ、あのお馬鹿さんたちを片付けて、仕事をしましょうか」

「……ああ、そうだな」

ジェイド様も、不敵な笑みを浮かべた。

私たちの「共犯関係」は、熱を経て、少しだけ「共依存」に近づいたのかもしれない。

次回、『「悪女」の再演』。

……病み上がりの私に外交交渉をさせるなんて、やっぱりこの職場はブラックです。
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