婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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「……ひぃっ」

会議室に響く、ゲルマン伯爵の情けない嗚咽。

彼は既に五枚の書類に署名し、その署名欄は震えでグニャリと歪んでいた。

私が最後に差し出したのは、たった一枚のメモ。

『第三条:外交的迷惑料として、レムリア王国の国宝級美術品『黄金のガゼル像』を辺境伯夫人(私)に献上すること。期間は一週間以内』

「こ、これはさすがに……! 国宝だぞ! 一介の辺境伯夫人に渡すなど、外交史上ありえない!」

「あら、そうかしら?」

私は扇で口元を隠した。

「貴方が秘密裏に行っている『不適切な金銭授受』が外交史上ありえることだと? ……それとも、この場で私が第三王女殿下の名前を大声で叫びましょうか?」

「や、やめろ! わかった、わかった! サインする! サインするから、もう一言も喋らないでくれ!」

ゲルマン伯爵は顔を伏せ、ほとんど泣きながら署名した。

カツラの糊が汗で溶け、額に垂れてきている。

醜態の極みだ。

私は満足そうに、そのメモを回収した。

「よろしい。これで、私の気が済みました」

「……」

部屋は静まり返り、立ち会っていた文官たちは皆、彫像のように固まっていた。

ジェイド様だけが、肘掛けに手を突き、楽しそうにニヤニヤしている。

「ゲルマン伯爵。新しい条約が成立しましたわ。貴国にとっても、私との『秘密』が守られるという点では、非常に効率的な結果と言えるでしょう?」

私は冷徹に言い放った。

「さあ、さっさと帰って、私のガゼル像の梱包作業に取り掛かって。……ただし、一つでも傷をつけたら、貴方の指一本で償っていただきますわよ」

「は、はい……!」

ゲルマン伯爵は、命からがらといった様子で椅子から立ち上がり、足早に会議室を後にした。

その姿は、まるで追い立てられるネズミそのものだった。

彼が去った後、会議室の緊張の糸がプツリと切れた。

文官たちはワッと息を吐き、そして一斉に私を見た。

その目には、畏怖、驚愕、そして狂気的な尊敬が入り混じっていた。

「……イーロア様」

ジェイド様が、私の名前を呼んだ。

「お見事だ。……完膚なきまでの、パーフェクトゲームだった」

「ありがとうございます、ジェイド様」

私は口元に張り付けていた冷酷な笑みをスッと消し去り、その場にドサリと崩れ落ちた。

「はぁ……疲れました。もう限界です」

「おい、大丈夫か?」

ジェイド様が慌てて私を支える。

私はぐったりと彼の肩に寄りかかり、小さな声で不満を漏らした。

「あの『悪女』を演じるのは、想像以上にカロリーを消費します。普段の三倍は糖分を失いました」

「あの迫力で『カロリー』とはな……」

ジェイド様は呆れながらも、私の頭を優しく撫でた。

「あの演技、どこで学んだんだ?」

「演技ではありません。あれが私の『本業』です。王都で三年間、ああやって周囲を威圧し、自分の地位と平穏を守っていました」

私は深くため息をついた。

「周囲に媚びるより、恐怖で支配する方が、エネルギー効率が良かったんです。……まさか、辺境に来てまであのスキルを使うことになるとは思いませんでしたが」

「我が領にとっては、最高のスキルだ。……改めて、感謝する。領地の財政が大幅に潤うぞ」

彼は私を抱き上げ、文官たちに命じた。

「今日、ここで見たことは一切他言無用だ。特に、イーロア様が倒れたこと。いいな?」

「ハッ! 畏まりました、公爵様!」

文官たちは、まるで軍隊のように一糸乱れぬ返事をした。

彼らにとって、私は「公爵を意のままに操り、隣国の大臣をも叩き潰す恐ろしい女」として認識されたことだろう。

ジェイド様は私を抱きかかえたまま、執務室へと連れ帰った。

「報酬の時間だ、姫君」

「……何がいただけますか?」

「特注の『黄金のガゼル像』だ。……いや、違うな」

ジェイド様は執務室のソファに私を座らせると、すぐにワゴンを呼んだ。

運ばれてきたのは、山盛りのベリータルトと、アイスクリームが添えられた温かい紅茶。

「君が望むものは、国宝ではなく、これだろう?」

「……正解です」

私はタルトをフォークで突き刺し、無言で頬張った。

甘いクリームとベリーの酸味が、昨日失われた私の魂(糖分)を瞬時に満たしていく。

「これでチャージ完了。これで、今日一日の仕事は終わりです」

「待て。まだ残務があるぞ」

「知りません。私は重労働を終えました。ここから先は『過労死ライン』です」

私はソファに横になり、目を閉じた。

「……今日の業務は、『悪役令嬢再演と外交交渉勝利』。報酬は『タルトと、極上の安眠』。これで契約完了です」

ジェイド様は、私の横で静かに笑っていた。

「わかったよ。……ゆっくり休め」

彼は私の頭の下にそっとクッションを入れ、上着を掛けてくれた。

(……この男、やっぱり敵に回すべきではないわね)

私の安眠とスイーツを脅かす存在は排除する。

その点、ジェイド様は「最優良な共犯者」であり、「最高の財布」だ。

最高の雇用主だ。

私が静かに眠りに落ちた、その頃だった。

静かに執務室の扉がノックされる。

ジェイド様が立ち上がると、そこにはセバスが立っていた。

セバスは深くお辞儀をし、神妙な顔つきで耳打ちした。

「閣下。カイル殿下が、先ほどの交渉の結果をお聞きになりまして」

「……また何か馬鹿なことを言っているのか?」

「はい。『ああ、やはり! イーロアは愛する人のために、鬼となって戦ったんだ!』と涙を流し、『私は彼女の剣となり盾となる!』と、急ぎ王都に帰ると仰いました」

「……帰る?」

ジェイド様とセバスは顔を見合わせた。

「つまり、騒音源が自主的に去ると?」

「はい。……ただし、一つ条件をつけられました」

「なんだ?」

セバスは、少し言い淀んでから続けた。

「『イーロアが私のために獲得した「黄金のガゼル像」は、愛の証として王城に飾り、私が毎日磨く!』と……」

「……殺すぞ、あいつ」

ジェイド様の顔が、みるみるうちに凍りついた。

(カイルめ、また余計なことを!)

せっかく手に入れたガゼル像を、あの馬鹿に横取りされてたまるか。

ジェイド様はソファで眠る私を一瞥し、静かに扉を閉めた。

「セバス。今すぐ馬車を仕立てろ。行き先は王都。……カイルが帰る前に、レムリア王国からガゼル像を『回収』する」

「閣下が自ら?」

「ああ。ついでに、あの馬鹿に『愛の証』とはどういうものか、骨の髄まで叩き込んでやる。……俺の婚約者が手に入れたものは、誰にも渡さない」

その夜、辺境伯城から一台の馬車が、音もなく王都へと向けて走り出した。

もちろん、ソファで眠る私の隣には、ジェイド様がそっと書き残したメモが置かれていた。

『追伸:ガゼル像を奪おうとする泥棒を追い払ってくる。安心して寝ていろ。P.S. 頬のクリームは舐めるなよ』

次回、『王子の誤解と、公爵の執着』。

……誰がクリームを舐めるか、変態!
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