婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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「……帰りましょう」

王都の城門が見えた瞬間、私は馬車の窓をピシャリと閉めた。

「まだ着いてもいないぞ」

隣でジェイド様が苦笑する。

「城門が見えただけで、アレルギー反応が出ました。あの壁の向こうには、『面倒くさい』と『しがらみ』と『非効率』が詰まっています」

「辛辣だな。……だが、安心しろ。今回の滞在は『勝利宣言』をしに行くだけだ」

ジェイド様は私の手を握り、親指で甲を撫でた。

「君がどれほど愛され、幸福で、勝ち組になったかを見せつけたら、すぐに帰ろう」

「……その言葉、信じますよ」

私はため息をつきながらも、ドレスの裾を直した。

今日の装いは、ジェイド様が用意した最高級のシルクドレス。色は深いミッドナイトブルー。

そこに、先日レムリア王国から分捕った(外交交渉で勝ち取った)大粒のサファイアの首飾りを合わせている。

全身から「富」と「権力」のオーラが溢れ出ている仕様だ。

「よし、完璧だ。……悪役令嬢イーロア、出陣の時間だ」

「……へいへい。ひと仕事しますか」

私は気だるげに扇を開き、スイッチを切り替えた。

背筋を伸ばし、口角を冷ややかに上げ、瞳に絶対零度の光を宿す。

『有能な怠け者』モードから、『王都の華・悪役令嬢』モードへ。

***

王城の謁見の間。

重厚な扉が開かれると、そこには国王陛下、王妃殿下、そしてカイル王太子が待ち構えていた。

左右には高位貴族たちがずらりと並び、私たちを値踏みするような視線を送ってくる。

「……ルークス辺境伯ジェイド、および、イーロア・フォン・エストラート。参内いたしました」

ジェイド様が優雅に一礼する。

私もスカートを摘み、完璧なカーテシーを披露した。

「面を上げよ」

国王陛下の声。

顔を上げると、真っ先にカイル殿下が叫んだ。

「イーロア! よくぞ無事で……! 痩せたんじゃないか!? ちゃんとご飯は食べているのか!?」

「殿下、お久しぶりです。……三日前にお会いしたばかりですが」

私は冷たく返した。

「それに、痩せたのではなく、ドレスのコルセットがきついだけです。最近、美食続きでウエストが二センチ増えましたので」

「なっ……虐待による浮腫みか!? 可哀想に!」

「……会話が成立しませんね」

私は諦めてジェイド様を見た。

ジェイド様は、私の腰に手を回し、周囲に見せつけるように引き寄せた。

「陛下。本日は、ご報告があり参上いたしました」

「うむ。……申してみよ」

「私、ジェイド・フォン・ルークスは、ここにいるイーロア嬢と正式に婚約……いいえ、『婚姻』する運びとなりました」

ざわっ……!

広間がどよめきに包まれる。

「こ、婚姻だと!?」

国王陛下が玉座から身を乗り出した。

「婚約期間を置かずにいきなりか? エストラート公爵家との調整は?」

「事後承諾です。……お義父上には、すでに『結婚式の日取り』と『請求書』を送りつけておきました」

ジェイド様は不敵に笑う。

「もし反対なされるなら、レムリア王国との新条約における『利権』を、全て公爵家以外に回すことになりますが……と添えて」

「……あくどい」

誰かがボソリと呟いた。

父の弱点(金と権力)を完璧に掌握した脅迫だ。父が反対できるはずがない。

「認めん! 私は認めんぞ!」

カイル殿下が地団駄を踏んだ。

「イーロアは私のものだ! まだ婚約破棄の書類は受理されていないはずだ!」

「いいえ、殿下」

私は懐から、一枚の書類を取り出した。

「こちらに、殿下の署名入りの『婚約破棄合意書』がございます。……日付も署名も、法的効力を持つ形式で」

あの日、夜会で無理やり書かせたものだ。

「そ、それは……無効だ! 私は正気じゃなかった!」

「往生際が悪いですわね。……それに、もう一つ」

私は扇を閉じ、殿下を真っ直ぐに見据えた。

「仮に私がフリーだとしても、殿下と復縁するメリットが一つもありません」

「メリットだと? 愛にメリットなど……」

「あります」

私は断言した。

「ジェイド様は、私の『安眠』を保証してくださいます。働かなくていい権利、おやつ食べ放題の権利、そして私の性格の悪さを『可愛い』と肯定する度量をお持ちです」

私はジェイド様の腕に頭を預けた。

「殿下。貴方は私に何をしてくださいますか? 『王妃教育』という名の重労働? 『公務』という名の残業? それとも、『理想の聖女』を演じさせる精神的拘束?」

「うっ……そ、それは……王族としての義務で……」

「私は『義務』よりも『権利』を愛する女です」

言い切った。

清々しいほどのエゴイズム。

周囲の貴族たちが「なんて女だ……」とドン引きしているのがわかる。

しかし、ジェイド様だけは「そうだ、それでいい」と深く頷いている。

「陛下」

ジェイド様が一歩前へ出た。

「イーロアは、私の領地において『無くてはならない存在』です。彼女の知恵がなければ、先の食料庫爆破事件も、隣国との外交も解決しませんでした」

「……なんと。あの『悪女』イーロアがか?」

国王陛下が疑わしげな目を向ける。

「はい。彼女は『悪女』ですが、同時に『極めて優秀な管理者』です。……私は彼女に、領地の全権と全財産を委ねる覚悟です」

「全財産!?」

貴族たちが悲鳴に近い声を上げる。

辺境伯領といえば、ダイヤモンド鉱山を持つ国内有数の富豪だ。その財布の紐を、この悪名高い女に渡すだと?

「正気か、辺境伯」

「至って正気です。……むしろ、彼女に管理してもらった方が資産が増える計算です」

ジェイド様は私を見て、甘く微笑んだ。

「それに……私は彼女に惚れ抜いておりますので。全財産など、彼女の微笑み一つに比べれば安いものです」

「……っ」

私は顔が熱くなるのを感じた。

(……この人、公衆の面前で何を言っているの!?)

恥ずかしい。

穴があったら入りたいが、入ったら寝てしまいそうなので我慢する。

「……ふむ」

国王陛下は、私とジェイド様を交互に見た。

そして、深いため息をついた。

「……カイルよ。諦めろ」

「父上!?」

「辺境伯の目は本気だ。……あれは、『獲物を咥えた肉食獣』の目だ。手を出せば、国が割れるぞ」

陛下は賢明な判断を下した。

ジェイド様を敵に回すリスクと、私の(悪女としての)処遇を天秤にかけ、即座に損切りをしたのだ。

「許可する。……ルークス辺境伯とイーロアの婚姻を、王家として承認しよう」

「ありがとうございます」

「イーロアよ」

「はい、陛下」

「……辺境伯の手綱、しっかり握っておけよ。あやつが暴走したら、止められるのはそなただけだ」

「……特別手当が出るなら、善処します」

私が答えると、陛下は苦笑いをした。

「……くそぉぉぉ!!」

カイル殿下が崩れ落ちる。

「イーロア……私のイーロア……!」

「殿下。リリィ様を大切になさってください。あの子、意外と役に立ちますわよ(主に潜入工作とか)」

私は最後の情けとして、そう助言した。

リリィは現在、私の命を受けて「カイル殿下の監視役(影の護衛)」として王城に潜伏しているはずだ。

「では、我々はこれで」

ジェイド様が私の手を取り、踵を返した。

扉に向かって歩き出す。

背中に突き刺さる視線は、もはや「嘲笑」ではない。「畏怖」と「羨望」だ。

「……やったな、イーロア」

小声でジェイド様が囁く。

「はい。最高の気分です」

私は扇で口元を隠し、ニヤリと笑った。

「これでもう、誰も私を『捨てられた可哀想な令嬢』とは呼ばないでしょう」

「ああ。『氷の公爵を溶かした魔性の女』と呼ばれるだろうな」

「望むところです」

私たちは腕を組み、堂々と胸を張って退場した。

***

馬車に戻った瞬間。

「……脱力」

私は座席に沈み込んだ。

「疲れました。顔の筋肉が引きつりそうです」

「お疲れ様。……よくやった」

ジェイド様が、私の髪を優しく撫でる。

「これで、公的な障害は全て排除した。あとは……」

「あとは?」

「結婚式だな」

「……はぁ」

私は大きなため息をついた。

「まだ最大の試練が残っていましたね。ドレス選び、招待状の宛名書き、席次表の作成、引き出物の選定……」

指折り数えて、絶望する。

「非効率の極みです。籍を入れるだけでいいのでは?」

「ダメだ。俺は君のドレス姿が見たい」

ジェイド様は即答した。

「それに、盛大に見せつけてやるんだ。……君が俺のものになったことを」

「……独占欲が強いですね」

「今更だろ」

彼は私の手を取り、薬指に口づけを落とした。

「帰ったら、すぐに準備を始めよう。……もちろん、君は『選ぶ』だけでいい。面倒な手配は全部セバスたちにやらせる」

「……それなら、まあ」

私は目を閉じた。

王都の喧騒が遠ざかっていく。

私の帰る場所は、もうここではない。

あの、静かで、ちょっと寒くて、でも温かい辺境の城だ。

「……早く帰りましょう、ジェイド様」

「ああ。……飛ばさせるよ」

馬車は速度を上げ、北へと走り出す。

私の「有能な怠け者」としての新しい人生が、いよいよ本格的に始まろうとしていた。

次回、『最後の悪役仕事』。

……結婚式の前に、カイル殿下がまたやらかしたようです。
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