婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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「……なぜ、こんな真似を?」

暗い廊下で、私はリリィ嬢と対峙していた。

彼女の手には、キラリと光るクナイのようなもの(たぶんヘアピン)が握られている。

「カイル様のためです」

リリィ嬢は、普段の甘ったるい声を捨て、冷徹な声で答えた。

「この領地の備蓄がなくなれば、冬を越せなくなる。そうすれば、財政難で公爵家は立ち行かなくなる。……イーロア様は、豊かな王都へ戻らざるを得なくなる」

「……随分と短絡的な思考ね」

私は呆れてため息をついた。

「私が戻れば、カイル殿下の元へ帰るとでも? 実家の父は、私を戦場(ガルディア王国)へ売り飛ばす気満々なのよ?」

「えっ」

リリィ嬢の目が丸くなる。

「そ、そうなんですか? カイル様は『イーロアが帰ってくれば、全て元通りだ!』って……」

「あのバカ王子の妄想を真に受けないで。……私がここを追い出されたら、行き着く先は『死』か『地獄』よ」

「……うそ」

リリィ嬢の手から、カランとヘアピンが落ちた。

「私……イーロア様を不幸にするつもりじゃ……ただ、カイル様が泣いているから、何とかしてあげたくて……」

彼女はその場にへたり込んだ。

どうやら根っからの悪人ではないらしい。ただ、行動力と身体能力が異常に高いだけで、中身はカイル殿下と同じ「お花畑」だ。

「……はぁ。非効率な犯行ね」

私は彼女を見下ろした。

「でも、あなたのその『潜入能力』と『破壊工作スキル』……そして、主君(バカ)のために泥を被る忠誠心。……悪くないわ」

「え?」

「リリィ。あなた、私の部下になりなさい」

「はい?」

私はニヤリと笑った。

「そのスキル、私の『安眠』を守るために使いなさい。カイル殿下の暴走を物理的に止める役、あなたに任せるわ」

「ええええ!?」

リリィ嬢が素っ頓狂な声を上げた時だった。

「――そこまでだ」

廊下の向こうから、ジェイド様が現れた。

手には剣を持っているが、今のやり取りを聞いていたのか、呆れた顔をしている。

「……犯人はリリィ嬢だったか。しかも、もう懐柔しているとはな」

「ジェイド様。……捕獲完了です。処分はどうしますか?」

私はリリィ嬢の首根っこを掴んで差し出した。

ジェイド様は、震えるリリィを一瞥し、そして私を見た。

「……君に任せる。君の部下にしたいんだろう?」

「ええ。便利そうですから(パシリとして)」

「わかった。……リリィ嬢、君の罪は重い。だが、イーロアの監視下で奉仕活動をするなら、減刑を考えよう」

「は、はいっ! 一生ついていきます、姉御!」

リリィ嬢は私の足元にすがりついた。

これで一件落着だ。

「さて」

ジェイド様が剣を収め、私に向き直った。

その表情が、急に真剣なものに変わる。

「邪魔者は片付いた。……イーロア、昨日の話の続きだ」

ドキリ、とする。

ついに来た。

契約破棄の通告だ。

私は覚悟を決めた。

「……はい。契約終了のお話ですね」

私はリリィ嬢を引き剥がし、背筋を伸ばした。

「荷物はまとめてあります。……いつ出て行けばよろしいですか? 明日の朝ですか?」

「……は?」

ジェイド様がポカンとした。

「出て行く? 誰が?」

「私です。契約破棄なのですから、当然でしょう?」

「……イーロア。君は何か、根本的な勘違いをしていないか?」

「勘違い?」

ジェイド様は頭を抱え、そして深く息を吐き出した。

「……まったく。君という奴は、頭がいいのに肝心なところが抜けている」

彼はツカツカと私に歩み寄り、私の手を取った。

そして、その場に片膝をついた。

「えっ」

廊下に跪く公爵様。

私を見上げる紫紺の瞳。

「契約破棄だ。……『偽の恋人契約』は、今ここで破棄する」

彼は懐から、新しい羊皮紙を取り出した。

「代わりに、この『終身雇用契約』を結んでほしい」

「しゅうしん……?」

私は渡された紙を見た。

そこには、金色の文字でこう書かれていた。

**【婚姻届】**

「……はい?」

思考が停止する。

「結婚……?」

「そうだ。俺と結婚してくれ、イーロア」

ジェイド様は、真剣な眼差しで告げた。

「俺は君が好きだ。君の冷徹な判断力も、合理的すぎる思考も、そして無防備な寝顔も、全部愛おしい」

「……へ?」

「君なしの生活なんて考えられない。……だから、正式に俺の妻になってくれ」

プロポーズ。

これは、プロポーズだ。

解雇通告ではなかった。

「……でも、私、怠け者ですよ?」

「知っている」

「口も悪いし、性格も最悪ですよ?」

「そこがいい」

「一日二十時間は寝たいですし、働きたくないです」

「叶えてやる」

ジェイド様は力強く断言した。

「君が俺の妻になるなら、以下の条件を約束する」

彼は指を折りながら、早口で条件を並べ立てた。

1.  **睡眠時間の完全保証。** 誰にも邪魔させない。
2.  **労働の免除。** 君がやりたくない仕事は全て俺がやる。
3.  **全財産の管理権限の譲渡。** 俺の金は全部君のものだ。好きなだけおやつを買え。
4.  **実家からの干渉の完全排除。** お義父上が何を言ってきても俺がねじ伏せる。

「……どうだ?」

彼は不安そうに私を見上げた。

「これでも、不満か? もし足りないなら、俺が毎晩マッサージをするとか、君の靴下を履かせるとか、オプションをつけてもいい」

私はその条件書(婚姻届)を凝視した。

衣食住完備。労働免除。睡眠保証。財産分与。

そして何より、この「最高の共犯者」が、一生私の盾になってくれる。

(……合理的すぎる)

これ以上の好条件など、世界中どこを探してもないだろう。

私の胸の奥が、じんわりと温かくなる。

これは「損得勘定」だけではない。

この人が、私のためにここまで必死になってくれていることが、何よりも嬉しかった。

「……条件は、完璧です」

私は震える声で答えた。

「ですが、一つだけ修正を」

「な、なんだ? 何でも言ってくれ」

「『労働の免除』ですが……たまには、手伝ってあげます」

私は少し顔を赤らめて、そっぽを向いた。

「貴方が過労で倒れたら、私の安眠が脅かされますから。……管理責任として、そばにいてあげます」

ジェイド様の顔が、パァッと輝いた。

「……イーロア!」

彼は立ち上がり、私を強く抱きしめた。

「苦しいです、閣下」

「ジェイドだ。……夫の名前を呼べ」

「……ジェイド様」

「愛してる」

「……私は、貴方の『条件』を愛しています」

「素直じゃないな。……まあいい、これから一生かけて言わせてやる」

彼は私の唇に、誓いのキスを落とした。

廊下の陰で見ていたリリィ嬢が、「きゃー! 尊い!」と顔を覆って転げ回っている。

こうして。

壮大なすれ違いコントは幕を閉じ、私は晴れて「失業者」ではなく、「辺境伯夫人(永久就職)」の座を手に入れたのだった。

「……さて、イーロア」

「はい?」

「結婚式だが、来月にしよう」

「早いです。準備が面倒です」

「全部俺がやる。君は当日、立っているだけでいい」

「座っていてもいいですか?」

「……善処する」

私たちは笑い合った。

私のスローライフへの道は、まだ前途多難かもしれない。

けれど、この「有能な相棒」がいれば、きっと悪くない未来が待っているはずだ。

次回、『王都への凱旋』。

……結婚報告に行きますよ。ざまぁの準備はいいですか?
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