婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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「――以上が、被害状況の全容と、今後の復旧計画案です」

執務室。

私は徹夜で作成した報告書を、バンッ! とジェイド様の机に叩きつけた。

「食料の不足分は、近隣の商会から緊急買い付けを行います。足元を見られないよう、私の名前(悪名)を使って『協力しなければ将来どうなるかわからない』と脅し……いえ、交渉済みです」

「……仕事が早いな」

「当然です。有終の美を飾りたいですから」

私は鼻息荒く宣言した。

ジェイド様は感心したように頷いているが、その目はどこか熱っぽい。

「そうか。……そんなに楽しみか? 『その後』が」

「はい、とても(退職後の自由が)」

「俺もだ。……この騒動が片付いたら、すぐに準備に入ろう」

「ええ。荷物はすでにまとめ始めています」

「荷物? ああ、部屋の移動か。確かに今の部屋は手狭になるかもしれないな」

「(手狭? 実家の屋根裏部屋のことかしら?)……まあ、身の丈に合った場所に移るつもりです」

「謙遜するな。もっと広い場所を用意するつもりだ。……二人で使うんだからな」

「(二人? ああ、監視役でもつける気ね。信用ないわぁ)……お心遣い感謝します。ですが、干渉は最低限でお願いします」

「ハハ、照れるなよ」

ジェイド様は嬉しそうに笑った。

(……この人、なんで私をクビにするのにこんなに楽しそうなの?)

私は首を傾げた。

契約破棄を申し出たのは彼の方だ。

それなのに、今の彼はまるで「遠足前の子供」のようにはしゃいでいる。

「……サイコパスなんでしょうか」

私は小声で呟き、次の議題に移った。

「で、犯人の件です」

空気がピリリと引き締まる。

「現場に残っていた魔力の痕跡……解析班の結果が出ました」

私は一枚の紙を差し出した。

「『発火魔法』の痕跡ですが、特殊な触媒が使われています。……これ、『サクラの花弁』の粉末です」

「サクラ?」

「ええ。東方の国で使われる、珍しい素材です。……この領地では手に入りません」

「つまり、外部の犯行か」

「あるいは、外部から『持ち込んだ』者か」

私の脳裏に、ピンク色の髪の少女が過る。

リリィ。

彼女は確か、珍しい東方の雑貨を集めるのが趣味だったはずだ。

「……彼女が犯人だとは断定できませんが」

「いや、あいつならやりかねない」

ジェイド様は渋い顔をした。

「カイルのためなら、手段を選ばないところがある。……『イーロア様を困らせて、公爵の管理能力を問う』という動機なら十分ありえる」

「迷惑な話です。……ですが、証拠がありません」

「泳がせよう。……必ず尻尾を出す」

ジェイド様は立ち上がり、窓の外を見た。

「それにしても、イーロア」

「はい?」

「君は、本当にタフだな。……契約の話をした直後に、ここまで働いてくれるとは」

「これが私の最後の仕事(ラストダンス)ですから」

私は胸を張った。

「完璧にこなして、笑って去るのが私の美学です。……それに、退職金の上乗せも期待していますし」

「退職金?」

ジェイド様が振り返る。

「ああ、そうか。……『結納金』のことか」

「(結納金? ああ、手切れ金の隠語ね。風流だこと)……呼び名は何でも構いません。金額に見合うだけの働きはします」

「期待しているぞ。……俺の全財産を管理することになるんだからな」

「(全財産? すごい額の慰謝料ね……やっぱり私、愛されてたのかしら? ペットとして)」

会話は致命的に噛み合っていないが、奇跡的に成立していた。

ジェイド様は「結婚準備」の話をしているつもり。
私は「退職準備」の話をしているつもり。

二つの異なるレールの上を、列車は猛スピードで走っていた。

「あ、そうだイーロア」

「なんでしょう」

「指のサイズ、教えてくれないか?」

「指?」

私は自分の手を見た。

「人差し指ですか? 中指?」

「薬指だ。……左手の」

「(ああ、手錠のサイズね。脱走防止用かしら? 趣味が悪いわ)……標準サイズですよ。拘束具なら、緩めにお願いしますね」

「拘束具……まあ、ある意味そうだな」

ジェイド様はニヤリと笑った。

「絶対に外れないやつを注文しておくよ」

「ひぇっ……(やっぱりブラック企業だわ)」

私は背筋が寒くなった。

絶対に外れない手錠をつけて、死ぬまで働かせる気だ。

「……あの、ジェイド様」

「ん?」

「私、契約終了後は、遠くへ行こうと思っているんです」

「遠く? ハネムーンの希望地か? 南の島がいいか?」

「(島流しか……)いえ、もっと静かで、人の来ない山奥とか……」

「山奥の秘湯か。悪くないな。二人でゆっくり浸かるのもいい」

「(混浴!? 拷問!?)……いえ、一人で行きます。一人になりたいんです」

「照れ屋だなあ。……まあ、初夜くらいは二人きりがいいか」

「(初夜? 処刑前夜のこと?)」

ダメだ。

会話のドッジボールが激しすぎる。

彼が何を言っているのか、半分くらい理解できない。

(……まあいいわ。どうせあと数日の関係よ)

私は思考を放棄した。

「とりあえず、仕事に戻ります。……犯人を捕まえるための『罠』を仕掛けなければなりませんから」

「ああ、頼む。……俺は『式』の段取りを確認してくる」

「(式? ああ、犯人の公開処刑式ね。野蛮だわ)」

「衣装合わせもしないとな」

「(囚人服の採寸? 結構です、自前で用意します)」

私は一礼して、執務室を出た。

扉を閉めた瞬間、深いため息が出る。

「……はぁ。疲れる職場です」

廊下を歩きながら、私は決意を新たにした。

この事件を解決したら、速攻で逃げよう。

退職金(手切れ金)をもらって、誰も知らない土地で、一日二十時間寝る生活を送るのだ。

そのためには――。

「……出てきなさいよ、犯人さん」

私は廊下の角で立ち止まり、背後の闇に向かって冷たく言い放った。

「そこにいるんでしょう?」

シン……と静まり返る廊下。

しかし、私の感覚は誤魔化せない。

微かな、甘いサクラの香り。

「……ふふっ」

闇の中から、小さな影が現れた。

「さすがですね、イーロア様。……気配を消していたつもりなんですが」

現れたのは、ピンク色の髪の少女。

リリィだった。

でも、いつものような「ドジっ子」の笑顔はない。

その瞳は、冷たく、鋭く、そしてどこか悲しげに光っていた。

「……やはり、あなたでしたか」

私は扇を開き、臨戦態勢をとった。

「私のスローライフを燃やしたのは、あなたですね? ……高くつきますよ、その代償は」

すれ違いコントは終わりだ。

ここからは、女同士の(物理的かつ精神的な)殴り合いの時間である。

次回、『プロポーズは合理的に』。

……え、リリィの正体ってそっち!? そしてジェイド様、タイミングが悪すぎます!
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