婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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「……平和ですね」

嵐のような実家の介入騒動から数日。

私は執務室のソファで、ジェイド様が「戦利品」として持ち帰ったレムリア王国の高級ワインを傾けていた。

窓の外は穏やかな秋晴れ。

城内は静かで、私の安眠を妨げるものは何もない。

「書類の処理も終わった。カイルも来ない。父からの手紙も来ない。……完璧です」

私はワインを一口飲み、満足げに息を吐いた。

「そうだな。……平和すぎて、逆に怖いくらいだ」

ジェイド様は執務机でペンを走らせながら、苦笑した。

彼の手元にあるのは、私が効率化を施したおかげで激減した書類の山(今は小丘くらい)だ。

「イーロア」

「はい?」

「今夜、少し時間が取れるか? 話したいことがある」

ジェイド様の手が止まる。

その表情は、いつになく真剣だった。

「……話、ですか?」

私は小首をかしげた。

「昇給の話なら大歓迎ですよ。最近、おやつのグレードが上がってきていますから、エンゲル係数が心配で」

「いや、金の話ではない。……俺たちの『今後』についてだ」

ズキン。

胸の奥で、小さな警鐘が鳴った。

『今後』。

その響きに、私は得体の知れない不安を感じた。

「……わかりました。夕食の後、私の部屋で」

「ああ。……大事な話だ」

ジェイド様はそう言って、再び書類に目を落とした。

その横顔が、どこか緊張しているように見えたのは、私の気のせいだったのだろうか。

***

夜。

私の部屋のテーブルには、キャンドルが灯されていた。

ジェイド様が訪ねてくるのを待ちながら、私は落ち着きなく部屋の中を歩き回っていた。

(大事な話って、何かしら)

先日、あんなに熱烈に「君が必要だ」と言ってくれた。

「居場所はここだ」と。

だから、悪い話ではないはずだ。

もしかして、正式なプロポーズだろうか?

(……いやいや、まさか)

私は首を振った。

私たちはあくまで「契約関係」。

彼が私を必要としているのは、私の事務処理能力と、対外的な「魔除け」としての効果があるからだ。

「愛」とか「恋」とか、そんな不確定で非効率な感情が、私たちの間に本当にあるのだろうか。

(……期待してはダメよ、イーロア)

私は自分に言い聞かせた。

期待すれば、裏切られた時のダメージが大きい。

最悪のケースを想定し、心に防壁を築いておくのが、合理主義者としての鉄則だ。

コンコン。

ノックの音がした。

「……どうぞ」

扉が開き、ジェイド様が入ってきた。

彼はいつもより少し正装に近い格好をしていた。

手には何も持っていない。

「……待たせたな」

「いいえ。どうぞ、お座りください」

私はソファを勧めた。

ジェイド様は向かいに座ると、しばらく沈黙した。

キャンドルの炎が揺れる。

その沈黙が、私の不安を煽る。

「……イーロア」

やがて、彼が口を開いた。

「単刀直入に言う」

彼は私の目を真っ直ぐに見つめた。

その瞳には、いつものような悪戯っぽい光はなく、ただ深く、静かな決意が宿っていた。

「君との『契約』を、破棄したい」

「……え?」

時が、止まった。

私の思考回路が凍結する。

契約を、破棄?

「……それは、どういう……」

「言葉通りの意味だ。……あの『偽の恋人契約』は、今日限りで終了とさせてもらう」

ドサッ。

私の心が、音を立てて足元に落ちた気がした。

契約終了。

それはつまり、「解雇」ということだ。

(……ああ、そうか)

私は妙に冷静な部分で納得した。

用済みになったのだ。

カイル殿下は撃退した。隣国との条約も結んだ。実家の介入も防いだ。

領内の書類仕事も片付き、システム化も完了した。

つまり、もう私がいなくても、この領地は回るのだ。

「……そうですか」

私は震える声を必死に抑え込み、努めて平静を装った。

「……理由は、お聞きしても?」

「理由?」

ジェイド様は少し困ったように眉を寄せた。

「……今のままでは、不十分だからだ」

不十分。

私の能力が、足りなかった?

あんなに頑張ったのに?

「……そう、ですか。不十分、ですか」

私は膝の上で拳を握りしめた。

爪が食い込む痛みが、涙が出そうになるのを食い止めてくれる。

(泣くな。泣いたら負けよ)

私は「悪役令嬢」だ。

去り際こそ、美しく、傲慢でなければならない。

「……承知いたしました」

私は顔を上げ、ニッコリと微笑んだ。

「契約破棄、受け入れますわ。……まあ、そろそろ潮時かと思っていましたし」

「え?」

ジェイド様が驚いた顔をする。

「ちょうどよかったです。この田舎暮らしにも飽きてきたところでしたの。……やはり私には、王都の華やかな生活がお似合いですから」

嘘だ。

本当はずっとここにいたかった。

貴方の隣で、書類に文句を言いながら、甘いお菓子を食べていたかった。

でも、「いらない」と言われた人間にすがりつくほど、私は落ちぶれていない。

「……イーロア? 何を言って……」

「退職金は弾んでいただけますよね? 契約書には『一方的な破棄の場合は違約金を支払う』とありましたから」

私は事務的に話を切り替えた。

「明日の朝には荷物をまとめます。……馬車の手配をお願いできますか?」

「ま、待て!」

ジェイド様が身を乗り出した。

「荷物をまとめる? 出て行く気か?」

「当然でしょう? 契約終了なのですから。ここにいる理由がありません」

「違う! そうじゃない!」

彼は慌てて否定した。

「俺が言いたいのは、そんなことじゃない!」

「では何ですか! 『契約破棄』とは、関係の解消でしょう!?」

私が声を荒らげると、ジェイド様は口ごもった。

「いや、解消ではなく……その……更新というか……」

「更新?」

「……もっと、恒久的な……」

彼は顔を赤らめ、視線を泳がせた。

「……つまり、偽物ではなく、本物の……」

そこまで言いかけた時だった。

ドォォォォン!!

突然、窓の外で爆音が響いた。

「きゃっ!?」

「なんだ!?」

窓ガラスがビリビリと震える。

空が、真っ赤に染まっていた。

「……爆発? 城下の方か!?」

ジェイド様が窓に駆け寄る。

私も慌てて駆け寄った。

城下町の一角から、黒煙が上がっているのが見えた。

「……火事? いや、あれは……魔力の光?」

「閣下!」

バンッ! と扉が開き、セバスが飛び込んできた。

「大変です! 城下の食料庫が……何者かに爆破されました!」

「なんだと!?」

食料庫。

冬越しのための備蓄を保管している、命綱とも言える場所だ。

「被害状況は!?」

「現在確認中ですが、火の回りが早く……! それに、現場周辺で『怪しい影』を見たという報告が!」

「チッ……!」

ジェイド様は舌打ちをし、振り返って私を見た。

「イーロア。すまない、話の途中だが……」

「行ってください」

私は即答した。

今は個人の感情よりも、領地の危機が優先だ。

「領主の仕事が最優先です。……私のことは、後回しで構いません」

「……すまない。必ず戻る。……この話の続きは、その時に」

ジェイド様は私の肩を強く掴み、それから風のように部屋を出て行った。

「……」

残された私は、窓の外の炎を見つめた。

揺らめく炎が、私の心の不安を映し出しているようだった。

「……続き、ですか」

契約破棄の、続き。

(……聞きたくない)

本音を言えば、そうだった。

これ以上、決定的な拒絶の言葉を聞くのが怖かった。

「……荷造り、しておこうかしら」

私は力なく呟き、タンスに向かった。

もし「出て行け」と言われた時、すぐに立ち去れるように。

それが、私の最後のプライドだった。

***

ジェイド様が戻ってきたのは、翌朝のことだった。

煤(すす)と灰にまみれ、疲労困憊の様子で。

「……火は消し止めた。備蓄の半分は無事だ」

彼は執務室の椅子に倒れ込むように座り、報告を受けた私にそう告げた。

「半分……ですか」

「ああ。冬を越すにはギリギリの量だ。……それに、犯人が見つかっていない」

「犯人?」

「現場に魔法の痕跡があった。……プロの手口だ。恐らく、隣国の工作員か、あるいは……」

彼は言葉を濁したが、その目は険しかった。

「イーロア。……君に頼みがある」

「……なんでしょうか」

私は身構えた。

退去命令だろうか? 『危険だから出て行け』と?

「備蓄の再計算と、緊急の買い付け手配……そして、犯人探しのための情報分析を頼めるか?」

「……え?」

「君の頭脳が必要だ。……この難局を乗り切るには、君の力がないと無理だ」

彼は私を真っ直ぐに見た。

そこに「解雇」の意思は見えない。

むしろ、以前よりも強く私を求めている。

(……どういうこと?)

昨夜の「契約破棄」発言は?

混乱する私に、彼は付け加えた。

「昨夜の話は、この騒動が片付くまでお預けだ。……今は、俺の『相棒』として、力を貸してくれ」

相棒。

その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。

まだ、ここにいていいのだ。

少なくとも、仕事があるうちは。

「……わかりました。やりましょう」

私は腹を括った。

「追加料金をいただきますよ? 深夜手当と危険手当、それに精神的苦痛への慰謝料も込みで」

「ああ、いくらでも払う。……俺の全財産を賭けてもいい」

「言質は取りました」

私は不敵に笑ってみせた。

しかし、心の中のモヤモヤは晴れないままだ。

契約破棄。更新。本物の……?

彼の言いかけた言葉の真意は、炎と煙の向こうに隠されてしまった。

(……犯人を捕まえて、この騒動を片付けたら。……その時こそ、覚悟を決めましょう)

私はペンを取り、地図を広げた。

食料庫爆破事件。

このタイミングでの妨害工作。

私の「悪役令嬢」としての勘が告げている。

これはただのテロではない。

もっとドロドロとした、個人的な怨恨の匂いがする。

「……リリィ?」

ふと、あのピンク髪の忍者の顔が脳裏をよぎった。

まさかとは思うが。

「……徹底的に調べ上げますわ。私のスローライフ(予定)を邪魔する罪は、万死に値しますから」

私は冷たい瞳で、犯人への報復を誓った。

次回、『すれ違いコント』。

……話が噛み合わないまま、事態は深刻な方向へ?
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