婚約破棄された悪役令嬢の見つけた『幸福論』

萩月

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「……終わった」

カイル殿下が去ってから数時間後。

私は自室のソファで、燃え尽きた灰のようにぐったりとしていた。

テーブルの上には、空になったパンケーキタワーの残骸。

糖分は補給したが、精神的な疲労は回復していない。

「私の平和なスローライフが、音を立てて崩れていく気がします」

天井を見上げて呟く。

ジェイド様は王都へ出張中。カイル殿下は追い返したが、あのバカのことだ、王都に戻ってから何を言い出すかわからない。

「……そろそろ、潮時でしょうか」

私は弱気になっていた。

このままここに居座っても、いずれ王家や実家の父が本格的に介入してくるだろう。

そうなれば、ジェイド様やこの領地の人々に迷惑がかかる。

(……荷物をまとめて、どこか遠くへ逃げるべきかしら)

そんなことを考えていた矢先だった。

コンコン。

控えめなノックの後、執事のセバスが入ってきた。

その顔色は、カイル殿下が来た時以上に悪い。

「……イーロア様。お客様です」

「誰? もう驚きませんよ。国王陛下でも来ましたか?」

「いえ……。エストラート公爵家の使いと名乗る者が」

「……っ」

私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

お父様だ。

「……通して」

数分後、部屋に入ってきたのは、父の腹心である執事長だった。

彼は無表情で一礼すると、一通の手紙を差し出した。

「イーロアお嬢様。旦那様からの至急の書状でございます」

私は震える手で封を切った。

中に入っていたのは、簡潔かつ冷酷な命令書だった。

『カイル王太子との婚約破棄を確認した。
 お前の「悪役」としての任務は完了したと見なす。
 ついては、新たな任務を与える。
 ガルディア王国の第三王子への輿入れが決まった。
 直ちに帰還せよ。拒否権はない』

「……ははっ」

乾いた笑いが出た。

やはり、父にとって私は「便利な駒」でしかないのだ。

ガルディア王国。現在、血で血を洗う継承争いの真っ只中にある国。

そこへ嫁げということは、スパイとして、あるいは捨て駒として死んでこいということと同義だ。

「……お断りします」

私は手紙を握りつぶした。

「私はジェイド様の婚約者です。ここを動くつもりはありません」

「旦那様は、そう仰ることも予測されておりました」

執事長は淡々と言った。

「『もし抵抗するなら、ルークス辺境伯領への支援物資(特に冬越しの食料)の輸送ルートを全て封鎖する』と」

「なっ……!?」

卑劣だ。

実家は物流の大手を押さえている。この時期に物流を止められれば、辺境は干上がる。

私一人のわがままで、この領地の民を飢えさせるわけにはいかない。

「……それに」

執事長は続けた。

「旦那様は、『ジェイド公爵も、所詮はお前を利用しているだけだ』と仰せです。『用が済めば捨てられる。ならば、役に立つうちに実家のために死ね』と」

「……ッ」

何も言い返せなかった。

ジェイド様との関係は「契約」だ。

彼にとって私は「有能な管理人」であり、「魔除け」に過ぎない。

愛されているわけではない。

もし、実家と全面戦争になってまで私を守るメリットがないと判断されれば……?

(……非効率だわ)

私は感情を押し殺し、冷徹な計算をした。

私が大人しく帰れば、領地は守られる。ジェイド様に迷惑もかからない。

私の人生が終わるだけだ。

「……わかりました」

私は立ち上がった。

「帰ります。……支度をしますから、下がっていなさい」

「賢明なご判断です。馬車は裏口に待機させております」

執事長が出て行くと、私はその場に崩れ落ちた。

「……さようなら、私のスローライフ」

涙は出なかった。

ただ、胸にぽっかりと穴が空いたようだった。

***

一時間後。

私は最低限の荷物だけを持ち、裏口へ向かった。

セバスやメイドたちが、涙ながらに見送りに来てくれていた。

「イーロア様……本当に行ってしまわれるのですか?」

「ええ。……短い間でしたけど、お世話になりました」

私は努めて明るく振る舞った。

「掃除の指導はマニュアルを残しておいたから、しっかりやるのよ。それと、ジェイド様には……」

言葉が詰まる。

「『楽しかったです』とだけ、伝えて」

私は逃げるように馬車に乗り込んだ。

馬車が動き出す。

窓から見える景色が、遠ざかっていく。

住み慣れた(といっても数週間だが)城。

美味しいご飯。ふかふかのベッド。

そして、いつも意地悪で、でも誰よりも私を見てくれていた、あの人の笑顔。

「……っ」

初めて、涙が溢れた。

帰りたくない。

死にたくない。

もっとここで、ダラダラと生きていたかった。

「……ジェイド様……」

馬車は城門を抜け、荒野へと進む。

冷たい風が吹き付ける。

私の心も、凍りついていくようだった。

その時だった。

ヒヒィィィン!!

前方から、激しい馬の嘶きが聞こえた。

そして、馬車が急停止する。

「な、なんだ!?」

御者が叫ぶ。

「何事?」

私が窓から顔を出すと――。

そこには、黒い馬に跨り、道を塞ぐように立ちはだかる男の姿があった。

夕日を背に、漆黒のマントをなびかせている。

「……ジェイド様!?」

目を疑った。

王都へ行っていたはずの彼が、なぜここに?

ジェイド様は馬から飛び降りると、ツカツカとこちらへ歩み寄ってきた。

その形相は、まさに鬼神のようだった。

「お、お待ちください! ここはエストラート公爵家の馬車で……」

御者が止めようとするが、ジェイド様は彼を一睨みで黙らせた。

そして、乱暴に馬車の扉を開けた。

バンッ!!

「……降りろ、イーロア」

「ジェイド様……どうして……」

「どうしてじゃない。……俺がいない間に、勝手にいなくなるなと言ったはずだ」

彼は私の腕を掴み、強引に馬車から引きずり下ろした。

「痛っ……」

「痛いか? だが、俺の心臓が止まりかけた痛みに比べればマシだ」

彼は私を抱き寄せ、その場に立っていた執事長を睨みつけた。

「……エストラート家の使いだな?」

「は、はい。公爵閣下、これは正式な実家の命令で……」

「聞こえないな」

ジェイド様は低い声で言った。

「この女は、俺の婚約者だ。そして、俺の領地の『最高責任者(裏)』だ。誰の許可を得て連れて行く気だ?」

「し、しかし、彼女には新たな縁談が……」

「その縁談なら、俺が潰した」

「……はい?」

私と執事長の声が重なった。

「潰した?」

「王都へ向かう途中で、その情報を掴んでな。……ガルディア王国の第三王子派に『武器と資金を援助するから、縁談を白紙にしろ』と交渉してきた」

「なっ……!?」

「ついでに、エストラート公爵の裏帳簿の写しを、国王陛下に『うっかり』送りつけておいた。……今頃、お義父上は査察の対応でてんてこ舞いだろう」

ジェイド様はニヤリと笑った。

「物流を止めるだと? やってみろ。その前に公爵家が破産するぞ」

執事長は顔面蒼白になり、震え上がった。

「ば、馬鹿な……たった数日で、そこまで……!」

「俺の大事なものを奪おうとするなら、国の一つや二つ、ひっくり返してやるさ」

彼は私に向き直り、その肩を強く掴んだ。

「イーロア。君もだ」

「……え?」

「なぜ黙って行こうとした? 俺が守ると言った言葉を忘れたのか?」

「だって……迷惑がかかると……」

「迷惑? 笑わせるな」

ジェイド様は、私の涙を親指で拭った。

「君がいなくなること以上の迷惑はない。……俺の書類仕事は誰がやる? 誰が俺の横でふてぶてしくケーキを食べる? 誰が俺を『変態』と罵ってくれる?」

「……それは、ただの求人募集では?」

「違う!」

彼は私を強く抱きしめた。

痛いほどに。

「君が必要なんだ。……能力だけじゃない。君という存在そのものが、俺には必要なんだ」

彼の鼓動が、私の胸に伝わってくる。

速く、強く。

「……王都にも、実家にも、君の居場所はないかもしれない。だが、ここにはある」

彼は私の耳元で囁いた。

「君の居場所はここだ、イーロア。……俺の隣だ」

その言葉は、冷え切っていた私の心を、熱いお湯のように溶かしていった。

「……本当に?」

「ああ」

「ずっと、寝ていてもいいですか?」

「許す」

「おやつは三食つきますか?」

「特大でつけてやる」

「……じゃあ、仕方ありませんね」

私は彼の背中に手を回し、しがみついた。

「再就職、してあげます」

ジェイド様は声を上げて笑った。

「ありがたい。……一生、こき使ってやるから覚悟しろ」

「ブラック企業ですね……」

「ああ、世界一幸せなブラック企業だ」

執事長は、もはや言葉もなく退散していった。

夕日が沈み、一番星が輝き始める。

私はジェイド様の腕の中で、ようやく本当の意味での「安息の地」を見つけた気がした。

「……帰ろう、イーロア。ガゼル像も回収してきたぞ」

「えっ、本当に?」

「ああ。ついでに、レムリア王国のワインも奪ってきた。祝杯といこう」

「……やっぱり、貴方が一番の悪党ですね」

「君には負けるよ」

私たちは笑い合い、城へと戻っていった。

もう、迷わない。

私はここで、最強の「有能な怠け者」として生きていくのだ。

次回、『契約破棄の申し出』。

……え、今いい雰囲気だったのに、どういうことですか?
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